KISSは拳に12
12月31日。その日、三沢と真理亜はリングサイドにいた。フラオ・グレイシーと青木悟の試合を見る為だ。会場の埼玉スーパーアリーナは満席だった。ここで自分が戦う予定であったかと思うと、少し歯痒くなる。
「凄い客だ」
「大晦日だから当然ね」
真理亜は三沢の心情を知ってかしらずか、静かに試合の始まりを待っていた。
「で、記者としての試合の予想は?」
「そうね。フラオは数年ぶりの試合。300戦無敗って話も眉つばだわ。試合条件も細かく要求していた。それに比べて、青木悟はトップクラスのファイターと年間に五試合はしている。年齢も若いし、打撃も強い。グランドに固執しなければ青木悟の勝利ね」
真理亜は言い終えると得意気に三沢を見据えた。
「いい見解だ」
照明が暗転した。会場にどよめきが起こる。長たらしい青木の紹介ビデオが流された後、入場曲が響く。重厚な「ボレロ」だ。
ゆっくりとリフトが上げられ、青木が姿を現す。均整のとれた肉体は筋肉質でありシャープ。必殺の左ハイキックを繰り出す太股はカモシカの様に張っていた。
「コンディションはいいみたいだ」
「そうね」
すぐにでも戦いたい。そんな芳香の漂う男だと思った。短く刈られた髪。派手なガウンも纏わない。強い男には装飾は必要ないと体現しているようだった。そしてその鋭い瞳はまっすぐ下を向き自らと語らっている。
青木のバックボーンは柔道でもレスリングでもボクシングでもなかった。総合格闘技がまだ普及していなかった時代から、アメリカのMMA専門のジムで練習を重ねていた。
日本の総合格闘家のほとんどが何がしかのスポーツのバックボーンを持っている。それ故に、グランド、スタンド。どちらかにのスタイルに偏りがちだ。しかし、入門から総合専門のジムで鍛えられてきた青木には偏りがなかった。つまり、どの状況においても強い。言ってみれば、数少ない純粋培養の総合格闘家なのだ。
青木がリングに上がると、観客はその姿に引き込まれていった。立ち技。寝技。ともに一級品の技をバランスよく身につけている上に、彼にはカリスマ性が備わっていた。試合後に、三沢の様に多くを語る事はない。しかし人を惹きつけるだけでなく、先導する魅力が青木にはあった。
「あなたに似てるわ」
青木を見ながら真理亜が呟いた。
「そうか?」
三沢は青木をマジマジと観察した。どこかの国の指導者の様な圧倒時なオーラが彼を包んでいた。客の誰もが尊敬の眼差しで見つめている。その状況を見ると、どこも自分には似ていないと思った。
生意気な口調と親しみやすさ。三沢は自分の人気の理由をある程度は理解していた。ファンの自分を見る時の視線には、無邪気な子供を見る様な大らかさがあった。しかし明らかに、青木のそれは自分とは質が違うものだと思った。
そして、フリオ・グレイシーの入場が始まった。入場曲はない。いつもの様に一族で肩に手をかけてトレインを作っての入場。フリオはその最後部にいる。
久々の公の場への登場。そして引退試合という事で場内からフラッシュの雨が降り注ぐ。
「さすがに作り上げてきたな」
リングに登ったフリオの身体は40歳を過ぎているとは思えない程張りがあった。
「そうね。モチベーションもあるみたい」
真理亜は観察するような鋭い視線でフリオの身体を見ていた。女とは思えないその仕草に三沢は隠れて苦笑した。
レフリーが二人をリング中央に呼ぶ。ルール説明の間、二人は視線を合わさなかった。体格差はない。お互いに気力も充実している。いい試合になる。三沢はまるで、自分がリングに上がっているかの様に興奮していた。それぞれがコーナーに一旦戻ると、客が生唾を飲む音が聞こえた。
「カーン」
甲高いゴングが響いた。
青木はオーソドックスな右構えで距離を縮める。フリオは柔らかい上半身を揺らしてリズムをとりタックルのタイミングを計っている。場内は静寂に包まれていた。二人の間の緊張感が、会場にいる観客に伝わっている。目が離せない。瞬きをしたら、世界が変わってしまうのではないかと思える至極の空間。
先手を取り、青木がジャブを放った。それと同時にフリオがタックルに入った。しかし、青木は上手く脇に両腕を刺しタックルをきった。離れ際、青木が膝を繰り出したが、フリオは間一髪でそれを避けた。どよめきが広がる。
「凄いレベルの試合だ」
二人の間には無数のフェイントの応酬があった。しかしお互いにそれにはのらない。集中力が極限に達している証拠だ。
三沢はチラリと真理亜を覗いた。真理亜は食い入るように試合に視線を傾けていた。まるでテレビに集中する子供の様に。
(血は抗えない)
こんな風に真理亜が今日、自分の試合を見ていてくれていたらと思う。
またフリオがタックルに入った。今度も青木はタックルをきったが、フリオはしつこく身体に纏わり付いた。腰に腕をまわし離さない。足をかけて倒すつもりだ。
青木は少しずつ押され、ロープ際に詰められてゆく。サイドから膝で腿カンを入れているが、フリオは手を離さない。
やがてフリオが外掛けを放った。青木は体重をかけられ倒された。観客が立ちあがる。世界最高のグランド技術を目の当たりにしたいのだ。
青木は下からフリオの胸に頭を押し付ける。自分の足の間にフリオの足も挟んでいる。この体勢なら柔術の技を極められる事はない。フリオは軽いパンチを青木の頭に浴びせながらサイドポジションを取るタイミングを狙っている。そうなれば、試合は決まる。
フリオはパンチを止めない。軽いパンチはダメージにはならないが腫れを残す。顔が腫れると視界が狭くなり、レフリーの印象も悪い。ベテランフリオの流石の試合運びだった。
そのままの体勢でしばらく攻防が続いた。青木は下で防御の姿勢。フリオは上から極めを狙う。そして、大きな展開がないまま1Rのゴングがなった。
ゆっくりと二人は立ちあがる。フリオは汗をかいていない。それに対して青木は汗まみれだった。体力の消耗が伺える。
「フリオの展開だ」
会場はまだ静まり返っていた。青木がここまでの劣勢になっているのを見るのは誰もが初めてだった。青木の戦績にも負けはない。しかし客は300戦無敗という伝説を信じ始めていた。
(チャンピオンが負ける)
俄かにそんな雰囲気が漂っていた。
しかし、三沢は青木の瞳が死んでいないのに気付いていた。
元来、青木悟という選手はグランドをそこまで得意にしているわけではない。当然一流の技を持ってはいたが、柔術を極めたフリオに対抗できるほどのものはない。
しかしそれにしても、倒され方があまりに安易だった。大した外掛けではなかったし、フリオにそこまで腕力があるとは思えない。何より、青木程の男なら組み付かれても体勢を変える事はできたはずだ。そこに妙な違和感があった。
「付き合ったな」
三沢は断定した。300戦無敗の男の寝技を体感する為にあえて倒されたのだと。
「つまり、技にって事?」
「そうだ。俺と一緒だ。同じ土俵でどれだけできるか試したかったんだよ」
「ずいぶん余裕ね」
「余裕ってわけじゃないんだ。単純に興味だよ。どこまで自分の技量が通用するか。それだけだ」
真理亜は納得いっていないようだった。そこに男と女の違いがあるのかもしれないと三沢はふと思った。女が無駄に思う事にこそ、男は意味を見出そうとする。
「それで?次の展開の予想は?」
「グランドでは分が悪いとわかっただろう。次のラウンドは青木のラウンドになる」
第2Rのゴングが鳴った。二人とも1Rの始まりと同じ構えに見えた。しかし、三沢は気付いた。青木の左足が少し前に位置していた。重心も右足にのっている。打ち合う気だと。
案の定、今度は青木が積極的に仕掛けた。左ジャブからダブルのボディ。ワンツー。またボディ。合間にフリオがタックルを仕掛けたがことごとくきった。そして今度は左のミドルを脇腹に。
当然フリオもガードする。しかし青木は止まらない。執拗なボディ攻撃。体力の消耗を狙っていると思った。しかし違った。すべては布石だった。
青木は左で飛び込みのボディを打ちながらフリオに密着した。首相撲から膝をまたボディに入れる。フリオが嫌がりガードを下げる。そしてその離れ際の刹那。必殺の左ハイキックが一閃した。テンプルを射抜かれたフリオは、まるで糸を切られたマリオネットの様に前のめりに倒れた。
一瞬、時が止まる。レフリーさえも動かなかった。当然だ。300戦無敗だった男が負けたのだ。目の前の現実を理解できない。やっとレフリーが両手を振って試合を止めた。その時には、青木はすでにコーナーに戻っていた。
徐々に人々がその事実を飲み込んでゆく。そして、会場のたった一人まで状況を把握した時、地鳴りの様な歓声が一斉にアリーナを包んだ。フリオが倒れてから数秒経っていた。皆、総立ちだった。
「強いな」
三沢は尊敬の念を込めて言った。同時に、武者震いが身体を駆け巡るのを感じた。真理亜もさすがにあっけにとられていた。
歴史的快挙に、会場はしばらく狂乱に支配されていた。その中で、三沢は冷静にシュミレーションをしていた。自分ならどう戦うだろうか。伝説を倒した男と。
すると青木にマイクが向けられた。武者の様な髭面の表情はもうすでに喜びを忘れているかの様に清鑑だった。しかし、この勝利に自信を深めたのは事実だろう。纏うオーラが格段に変わっていた。今、青木悟は伝説を引き継いだ。世界最強になった。
すると、その男がリングサイドの三沢に目を向けた。
「次の試合は決まっている。そこにいる三沢選手。今回はすまない事をした。次こそ君とやりたい。タイトルマッチで」
観客が熱狂する。三沢もリングに上がってゆく。そしてマイクが渡された。
「やろう」
がっちりと握手を交わした。目を合わせた瞬間、何かが滾り燃え上がるのがわかる。そして、この男とはいい試合ができると確信した。真理亜が言っていたように、どこか妙な親近感を覚えたからだ。それは戦いに身を置き最強を目指す者同士のシンパシーなのかと思った。
三沢がリングを降りようとすると、一人の女がリングに上がって来た。その女は青木の元に駆け寄るとその引き締まった腕に抱かれた。その時青木がやっと試合が終わったと感じさせる柔らかい表情を浮かべた。
その光景を見ると三沢はすぐに理解した。
(あんたにも女神がいるんだな)
背負いし拳の重さは同じだ。それならば、勝負を分けるものは何だ?
三沢には正直わからなかった。しかし青木悟との試合の後に、自分が最強であるかどうかがわかる。それは揺るぎない。そう考えると、試合が待ち遠しくて仕方がなかった。
リングサイドに戻ると真理亜が待っていた。
「やるのね」
「ああ。でも、俺にもお前がついている」
スポットライトはいつまでもリングを照らしていた。真理亜の細い腰を抱き、そこに彼女と共に立つ自分の姿を想像すると、三沢はそれが現実になると一つも疑いはしなかった。
3ヶ月後。
控室で拳を見つめる三沢は落ち着いていた。無駄な事はしなかった。青木悟に勝つ為の練習に全てを注いだ。その自負は揺るがない。そして、自分には女神がのった拳がある。
昨日の夜、三沢の家に訪れた真理亜は、「あなた、明日負けるかもしれない」と事もなげに言った。さすがに三沢は気分を害した。
「何の根拠がある?」
「フリオとの試合は参考にならない。相手は老いていた。私はその前の試合をすべて見た。確かに、青木選手は現時点で最強だと思った。立ち技、寝技、すべてにおいて一流。まったくの隙がない。そしてあなたは試合へのブランクがある」
「なるほど」
真理亜が新聞紙面で自分の負けを予想した記事を書いているのは知っていた。すべての解説者や評論家も、自分の不利を謳っているのも聞こえてきていた。
しかし、だから何だと言うのだ。試合は決まっている。俺は彼とやりたい。戦いたい。その為の練習もしている。どんなに論評が悲惨でも戦わない理由にはならないし、負けると決定したわけでもない。
「だけど俺は明日勝つ。そして最強になる」
「もし負けたら?」
「そんな事は考えない。意味がないじゃないか」
「じゃあ、最強に何の意味があるの?」
真理亜は厳しい表情で三沢を見つめた。
「どうしたんだ一体」
「怖いの。あなたが明日、いなくなってしまう様な気がする。相手はとても強い。記者として、彼の試合を見る度にそれが実感できてくるの」
「俺が明日、お前のオヤジさんみたいに死ぬと思うか?」
真理亜は弱々しく首を振った。
「大丈夫だ。俺は死なない。そして最強になって帰ってくる」
三沢は真理亜を抱き寄せた。
「最強じゃなくていい。私にとって、あなたは最高の男よ。それだけでいい」
三沢の中に抑えがたい衝動が生まれる。抱きしめて、キスをして・・・しかし、今は試合前だ。あの大晦日の日に試合が決まって以来、三沢と真理亜は抱き合っていない。欲求を抑え、試合にぶつけるといういつものルールにのっとったからだ。
しかし、真理亜の温かく柔らかい身体を抱き、瞳を見つめていると、嫌がおうにも身体を求めたくなった。その時に、三沢はふと思いついた。
「なあ。一つ頼みがある」
理性をどうにか働かせて真理亜から手を離した。離れ際の、求めるような指の動きが愛おしい。
「何?」
「ああ。この拳にキスをしてくれ」
「え?」
「お前のキスが拳に宿れば、俺はきっと勝てる」
三沢は無骨な両拳を差し出した。真理亜はしばらくその拳を見つめた。
「こんなにちゃんと人の拳を見るのなんて初めて」
小さい手で撫でられると、また何かが押し寄せてきた。三沢は必死にそれに耐える。
やがて、真理亜は三沢の拳を引き寄せると、右手に、そして左手に唇をつけると少し舐めた。
「明日は左フックが鍵なんでしょ?」
「そうだ。これで俺は明日、最強に、最高になる」
真理亜は拭い去れない不安を押し留めながら三沢に抱きついた。三沢は拳をもう一度握り、その感触を確かめた。
「時間だ。三沢」
渋川が三沢を呼んだ。頭に掛かっていたタオルをとり、立ちあがって気合を入れた。
「おす!」
入場曲が流れ、ゆっくりと花道を進んでゆく。リングに上がると、数万人の視線が肌に突き刺さる。その刺激が興奮を押し上げてゆく。
背中のマリアはいつもの様に頬笑みを浮かべている。身体の調子はいい。気力も漲っている。そして、三沢の拳には女神のキスがある。
「ボレロ」にのって青木悟もリングに上がってきた。対峙して目が合うと、二人とも微かに微笑んだ。お互いにこれから始まる試合を心底待ちわびていた。そんな気持の現れだった。
リングサイドの真理亜は祈る様に三沢を見つめていた。そして、青木の女神もどこかで祈りを捧げているのかもしれない。
しかし、男達には眼前に立ちはだかる敵しか、互いに同じものを追う友しか見えていない。彼らは今、最強と言う男として最高の称号に酔う自らにしか興味がない。
甲高いゴングが鳴った。少しずつ三沢と青木の距離が縮まってゆく。女達は祈る。男はその祈りを背中に、拳に、身体の全ての部位に纏って戦う。
二人が互いの制空権に入った。その刹那、青木が左ハイキックを、三沢はそれに合わせるカウンターの左フックを繰り出した。光がリングを包み込む。この先にあるものを、男達は永久に求め続ける。




