二十五話 かつての契約、今の契約④
殴る。殴る。殴る。
ゲオルは、己の拳を振り下ろし続けていた。
そして、エリザベートはその一切を受ける他なかった。当然だ。彼女は魔術無しで相手と戦うということしてこなかったのだから。
そのツケを、今まさに払っている。
「がぁ、あ……!!」
吐血し、破裂しながらも、エリザベートは未だ再生を行う。
だが、そんなものは関係ないと言わんばかりに、ゲオルは拳を放っていく。
肉がぐにゃりと捻れ、蠢きながらも身体は元に戻る。けれども、その度に彼女は失っていくのだ。
自分が大切だと思っていた何かを。
「ぁ……あ、あ……」
「どうした? まだ再生する魔力は残っているのだろう? それとも、もう全てを忘れたというのか」
言いながらも、それはないとゲオルは断じていた。彼女の異界魔術は未だ消えておらず、それは即ちエリザベートが魔術を行使する魔力が残っている証でもあった。
だとするのなら、ゲオルがやることはただ一つ。
魔力が尽きるまで、身体を潰し、再生させる。そうすれば、その分魔力は消耗し、彼女の中から魔力が無くなるのを促進させられる。
ならば魔術を行使すればいいのでは、という疑問が出てくるかもしれないが、それはできない。何せ、エリザベートの異界魔術は崩壊寸前。その状態で使えば、『あの男』に感知されるのは必至。
だから、ゲオルは拳を握り、そして振り下ろす。
その相手が、もう既に戦うことができなくなっている相手だとしても。
「ふんっ」
顔面に、蹴りが放たれる。動かない相手に叩きこむのは容易なことだ。
ゲオルの行動は、もはや蹂躙そのもの。一方的な虐殺。一見すれば、弱っている女に一切の容赦もせず、必殺の攻撃を与えるというものであり、嫌悪する者もいるだろう。
もうやめろ。
もういいだろ。
もう十分だろ。
そんな言葉をかけ、ゲオルを止める善人も世の中にはいるかもしれない。相手は女なのだからと言って、邪魔をする者もいるかもしれない。そもそも、彼女は既に十分な罰を受けたのだから、これ以上は必要ないと口にする連中もいるかもしれない。
もしも、そんな者達がいたとして、そしてゲオルの前に立ちはだかったとするのなら、恐らく今のゲオルなら彼らごとなぎ払うだろう。
そして、幸か不幸か、ここにはそんな偽善者は存在しなかった。
「あ、あぁ……消える、消えていく……私と、あの人の記憶が……あの人との思い出が、あ、あぁ……!!」
既に『お兄様』ではなく、『あの人』となっていることから、ゲオルは既に記憶の消去は最終段階に入っているのだと理解する。
エリザベートにとって、フーケは何よりも大切な存在。その彼の記憶が欠落しているのだから、他の記憶などもうほとんど残っていないだろう。先程から、まとも立つことすらできていない。それだけではなく、腕すらだらんと下ろしているだけで、全く動いていない。恐らく、身体の動きさえ、忘れかけているのだろう。
だが、逆に言えば、身体の動きという無意識下の点よりも、彼女にとってフーケとの記憶は大きく、そして重要なのだと再認識させられる。
「……そんな様になりながら、未だ完全に奴のことを忘れないとはな」
ここまで来ると、呆れを通り越して、ある種の感心さえ覚えてしまう。
しかし、それももう残りわずかだ。
「やめて、やめてよ……お願いだから……」
「知らん。今更泣き事など聞く耳持たん」
エリザベートの懇願を、ゲオルは一蹴する。
「貴様は今まで何をしてきた? あの二人に何をしてきた? すでに忘れたか? だが、貴様が忘れたところで、貴様の所業が無くなるわけではない」
何百、何千、何万という命を殺し、弄び、そして奪った女の言葉などもはや耳に入れるだけでも度し難い。ましてやその願いなど叶えるわけがなかった。
ゲオルが憤るのは、フーケやフィリアに対してだけではない。自分の魔力を増やすため、魔物の餌にするためとかき集め、殺した人間達。彼らが死んでしまったのは、ゲオルがかつて、彼女を完全に滅していなかったからであり、責任の一端はあると言えるだろう。
彼らにも守りたいものがあったかもしれない。大切にしていたものがあったかもしれない。それを、たった一人の女の我儘のせいで、全て台無しにされたのだ。
その清算を行う。
それが、ゲオルができる、顔も名前も知らない彼らへの責務だった。
「自分の大事な物をもう一度失う……それが、ワレが与える、貴様への罰だ」
数多の罪を重ねたエリザベート。その罪が、ゲオルが殺すことで償われるわけではない。だがしかし、それでも彼女は罰を受けなければならない。
そして、その罰こそが、彼女にとっては効果覿面だった。
「罰……罰ですって……?」
ゲオルの言葉に、エリザベートは乾いた笑みを浮かべる。
そして次の瞬間、目を見開きながら、言葉を放つ。
「笑わせないで!! 貴方に、貴方なんかに何が分かるっていうの!! 私には分かるのよ? 貴方は誰も愛したことがない。愛されたこともないってことが!! だってええ、そう。貴方と私はよく似ているもの。傲慢で、自分勝手で、どうしようもなくて、人でなし!! そういう人間だものね!! ええ、認めてあげるわ!!」
ここに来て、エリザベートは自分自身のことを人でなしだとようやく自覚したらしい。そして、自分達はよく似ているのだと。
それを理解した上で、彼女は言うのだ。
「でも、私は違う。だって『あの人』がいたから、『あの人』を愛せていたから!! だから、私と貴方は違う……!! 誰も愛したことがないくせに!! 誰にも愛されたことがないくせに!! そんな奴が、私の……私があの人を想うことの、何を分かるというの!! 愛を知らない奴が、愛が分からない人間が罰を与えるなんて、ふざけるんじゃないわよ……!!」
もはや完全に床に横たわり、首を少ししか上げられない程度にまで追い詰められた女の叫び。
あと一擊。あと一発。それを叩き込めば、今度こそエリザベートは絶命する。再生することはなく、本当の意味で彼女は死を迎えるのだ。
彼女の言っているのは、最早負け犬の遠吠え。今更何を口にしようが、無駄。
だから、さっさと止めを刺す。
そうするべきなのだが……。
「……そうだ。ワレは誰も愛したことがなく、愛されたことがない。ワレは魔術師だ。そんなことができる程、まともな人生を送ってはこなかった」
拳を握りながら、ゲオルは呟く。
「加えて言うのなら、この性格だ。そんな人間が、それ程までに誰かを愛するなどとできるわけもなく、逆に誰かに愛されることなどあるわけがなかった。そして……恐らくこれから先もないだろう。故に、だ……同じ魔術師として、貴様がそこまで誰かのことを想えていたことだけは……羨ましいと、思っていたかもしれないな」
そう。ゲオルはその点についてだけは、認めざるを得なかった。
たとえ誰が相手だろうが、たとえ世界が相手だろうが、関係ない。何が何でも、必ず自分の好きな男と一緒にいる……そんな想いを抱いたことがない故に。だから、ゲオルはある意味において、エリザベートには敗北していると言えるだろう。
そして同時にこう考えるのだ。
「何故、そこまでの想いを持っておきながら、真っ当なやり方で示さなかった」
ゲオルの言葉は、ある種の悔しさが混じっていた。
この会話に意味はない。エリザベートの記憶はほとんどなく、この今の会話さえ、すぐに忘れてしまうだろう。
本当に無意味な問いかけ。
けれども、ゲオルはそれを口にしないわけにはいかなかった。
「兄だから? 妹だから? 阿呆が。貴様の間違いはそこではない。そんな些細なことなど、どうでもいい。どうでも良かったのだ。貴様の間違いは、ただ一方通行だったことだ。相手の気持ちを理解しようとせず、自分の想像通りで世界が回ると確信していること。その一点だ。本気で愛しているのなら、相手のことも考えるべきだ。本気で好きなら、相手がどうして欲しいのか理解するべきだ。貴様はそれを放棄した。だから受け入れられなかっただけだ」
誰かを想う……その気持ちを持つ者達をゲオルは知っている。
ある男は、家を飛び出しながらも妻のため一生懸命働き、見ず知らずの者すら助けていた。
ある女は、夫を愛し、子供を愛しながらも、どこぞの魔術師を最後まで看病していた。
ある青年は、己の命を賭して、最期の最後まで自らが想う少女を守り続けた。
ある少女は、自分の想い人を取り戻すために、目が見えないながらも懸命に旅を続けていた。
彼らを間近に見ながら、ゲオルは思い知らされる。人を想い、愛するということは、こういうことなのだと。
そして同時に理解する。
自分には絶対にできないことであると。自分には絶対に向けられないものであると。
だからこそ、それが尊く、儚く、けれども―――美しいと思えたのだ。
エリザベートは、結局のところ、一方通行ではあったものの、逆に言えばもう一方の想いを理解すれば、その領域に入れたかもしれないのだ。
ゲオルが絶対に立ち入ることができない領域に。
「……羨ましいなんてこと、誰にも言われた覚えがないわ……」
「当然だろう。貴様はもう記憶のほとんどを失っているのだからな」
「ええ……でも……どうしてかしら。何だか、こう……納得したような気分になったのは……」
羨ましい……それはつまり、相手が自分を認めてくれたということ。
エリザベートはほとんどの記憶を失っているが、だからこそ、その僅かな部分を、他人が理解してくれたことに、納得する他なかった。
もしかすれば、彼女は誰かに理解して欲しかったのかもしれない。自分が兄を想う気持ちを。
けれど、それももはや誰にも分からない。エリザベート自身にも。
そして。
「これで終わりだ。エリザベート・ベアトリー。今度こそ、永遠に眠っていろ」
「ええ……そうするわ。さようなら、名前も知らないどこかの誰かさん」
その言葉が言い終わると同時。
振り下ろされた一擊は、轟音と共に魔女の身体を四散させ、地面を抉り、隕石でも落ちてきたかのような痕を残す。
けれど、先程までとは違う点が一つ。
エリザベートの体は、粉々に砕けたまま、再生することはなかった。
こうして。
魔術師のかつての契約は今度こそ果たされたのだった。
※多分、幕間入れて後二話くらいで三章は終わります!




