四話 ゲーゲラの街①
旅が始まってざっと十七日後。
二人は『ゲーゲラ』にやってきていた。
このまま一気にゲオルの屋敷を目指したかったのだが、流石にそう簡単にはいかない。半月ずっと野宿の状態だったのだ。期限があり、時間は有限ではあるが、宿に泊まって一晩過ごすくらいの休息は必要だ。
二人が街に到着したのは夕方よりも少し前だった。
「さて、宿でも探すか」
「そうですね……あっ」
「何だ」
「いえ、その……宿代とかは大丈夫なんですか?」
「安心しろ。そこはジグル・フリドーから渡されたものがある。それに、今までワレが蓄えてきた分もな。心配するな」
あの時、ジグルから渡された額は相当なものだった。故にそれだけでも一年は稼がなくても楽に旅ができる。そして、ゲオルが所持しているのはその十倍。金銭面においては何ら問題はなかった。
しかし、この発言がまずかったのだろう、と後々で思うようになる。
「何やら、いい匂いがしますね」
言われてエレナが指差す方を見る。そこは裏通りだった。行ってみると確かに彼女が言うように雑多な店が寄り集まって屋台を開いていた。道の脇に店を構え、各々が様々な食べ物を売り込んでいた。まるで祭りでもあるかのような賑わいである。
果物はもちろん、鳥の肉を串に刺した物や飴細工の菓子等など、本当に多くのものを売っている。
「何だ、食べたいのか?」
「そういうわけでは……それにもうこんな時間ですし、早く宿にいかないと。空腹なのは確かですが、それも夕食のためにとっておきたいので」
「フン。それもそうか。なら、さっさと宿に向かうか」
そう言いながら裏通りから出ていこうとした瞬間。
どん、と何かにぶつかった。
見ると、どうやら子供がゲオルにぶつかっていた。
「ごめんよ」
帽子を被った少年は謝罪した後、そのまま立ち去ろうとするが。
「待ちなさい」
ふと、エレナがその腕を取って制止する。
「そういうことはダメですよ」
「え、な、何の……」
「いいから、その手に持ってる袋を返しなさい」
ふとエレナに握られている手を見ると、それはゲオルが懐にしまってあったものだった。流石というべきか、ゲオルよりも先に気づくとは。
子供は気づかれたかっ、と言わんばかりの表情を浮かべ手を振り払う。そして逃げようとするが、その背中を見せた途端、ゲオルの蹴りが叩き込まれる。
「がっ―――」
そのまま三回ほど転がりながら吹き飛んだ後、そのまま地面へと顔をうずめた。
エレナは何が起こったのか分からなかったようで、困惑の表情を浮かべる。
そんな彼女に対し「少し待っていろ」と言ってゲオルは子供の方へと向かい、その首根っこを掴み、路地裏へと連れて行った。
そして、地面へと放り投げる。
「おい童。起きているのだろう? 気絶しているフリなど意味はないぞ」
「けほ、けほっ、な、何すんだ……!!」
「人の物を盗んでおいてその言い草。なるほど、それなりの度胸があると見える。ならば、報復される覚悟もある、ということだな。まぁなかったとしてもそれはそれ、貴様の問題だ。ワレは知らん」
言いながらゲオルは子供を押さえつけた。そして、その指先に手をかける。逃げようとするが、しかしてそこは子どもの力。ゲオルの前では無意味であり、暴れまわっても全くびくともしない。
「な、何する気だ、まさか、指を折る気なのっ!?」
「何を言っている。それはあとだ。まずは爪の皮を剥ぐに決まっているだろう。指を折ってからでは痛みが半減してしまうからな。安心しろ、片腕だけではバランスが悪い。均等に両手ともちゃんと剥いでおってやるから心配するな」
「全くどこにも安心できる要素がないんだけどっ!! ちょ、ホントやめてごめんなさいっ!! 謝るからお願いやめてっ!!」
「そうか。反省はしているようだな。人間とは、そうやって反省し、学習していくものだ。よかったな。貴様は今、一歩前進したぞ」
その言葉に、子供は一瞬安堵した。同時、心の中でほくそ笑む。
自分は子供だ。大人とは違う。よく舐められもするし、馬鹿にもされるが、そこに油断が生じる。子供なのに、という隙が生じるのだ。そして、もしも失敗したとしてもこうやって平謝りしておけば大抵の大人は見逃してくれるものだのだ。
良識ある大人というのは存外甘い。それこそ、隙だらけ。この男もその例に漏れない。
今回は失敗してしまったが、次はもっと上手くやれば問題は―――
「そういうわけで、まずは小指からだ」
「っ!?」
驚きの表情を浮かべる子供。
だが、そんなものなど知ったことかと言わんばかりに小指に手をかけた。
それを見て、必死になる抗議の声がした。
「やめ、待って、どうして……やめるってさっき……!?」
「おかしなことを言うな。誰がやめると言った? まさか、子供だからしないとでも? 確かに普通の人間ならそうかもしれん。こんなことはしないのだろう。だが、生憎と貴様の前にいるのは長年を生きた外道でな。そんな正道の定石は通用せん。諦めろ」
そういって、今度こそ本当にゲオルは小指の爪を手にかけ、そのまま一気に……。
「何してるんですかっ」
と、そこで第三者の声によって止められる。
振り返ると、そこにはエレナが立っていた。
「待っていろと言っただろう」
「嫌な予感がしたので。それより、一体何をしているんですか、貴方はっ」
「良心的な指導だ」
「それは悪意ある報復というんですっ。いいから、その子を早く放してあげてください。取られたものは取り返したんでしょう? なら、それ以上その子をいたぶる必要はないじゃないですか」
「これはまた随分と間抜けな話だ。スリに対して些か寛大すぎるだろうに」
「間抜けなのはゲオルさんの方じゃないですか。スられるのが悪いとは言いませんが、もう少し注意をしておけばこんなことには……」
エレナの言葉を、しかしてゲオルは取り返した小袋の中身をその場に落とすことで遮った。
そこに落ちていたのは、ただの小石だった。
「ワレがただでスられる阿呆だと? 馬鹿を言うな。こんなことにならないよう、対策くらいはしてある。だが、問題なのはこの童がワレから盗もうとした事実だ。それはつまり、此奴がワレなら盗めると思ったからだ。つまり舐めているということだ。その考えを改めさせる必要はいるだろう」
「だとしてもやりすぎです。こんな年端もいかない子供に手をあげるなんて、器がしれますよっ」
「それを本気で言っているのなら、貴様は本当に甘いな。こういう年端もいかない子供がこんなことをする事自体がおかしいだろうが。こういう連中は見逃されれば、何度だってやるぞ。そしてその度に思う。よしやった、今回も切り抜けられた、と……そうして今度はもっと大物を、もっと上をと目指して最後には調子に乗って絶対に手を出しちゃいけない奴にちょっかいをかけて殺される」
「だから、それをさせないために、ここで痛い思いをさせると? そんなの勝手すぎるじゃないですかっ」
「別にそんなつもりはない。ただワレは此奴のやったことに腹を立ててる。それだけのことだ」
そう、結局は己のために過ぎない。
ゲオルという魔術師は結局のところ、そういう人間なのだ。
だというのに。
「やめてくださいっ。そんなの……そんなこと、ジグルさんの身体でしないでくださいっ!!」
その言葉と同時、ゲオルの手が止まってしまった。
固まる彼に、エレナは声をかけようとした。だが、何故か言葉が出てこなかった。
そして、しばらくそのままの状態でいると。
「………………はぁ」
大きな、深い溜息を吐くとそのまま子供から手をどけ、解放した。
何が起こったのか理解できない、と言わんばかりな子供に、ゲオルはいつも通り横柄な態度で言う。
「気が変わった。確かに泣きべそをかいている童相手にここまでする必要もないか。それなりに気分もすっきりした。寛大なワレに感謝するのだな、童」
「え……え?」
「さっさと行け。ワレの気がまた変わって今度は足の爪と指も折るかもしれんぞ」
半分脅すように言うと、今度こそ子供はそのまま走り去っていった。
その気配が無くなるのを感じた後、エレナはゲオルの方を向く。
「……ありがとうございます」
「何故貴様が礼を言う?」
「そう、ですね……。あと、すみませんでした」
「だから、何故そこで貴様が謝る。あれは単にワレの気が変わっただけだ。それ以上でもそれ以下でもない」
「いえ、そうではなくて……私、さっきとても失礼なことを言ったので……」
ジグルさんの身体でしないでください。
エレナの言葉を思い出しながら、ふん、とゲオルは鼻を鳴らす。
「別に。そんな言葉、気にしていない。ただ、その通りだとは思ったがな」
「え?」
「この身体は未だ完全にワレのものではない。一応は、ジグル・フリドーのものでもある。言うならば、貸してもらっている、ようなものだ。ならば、奴自身を汚す真似をするのは、義理に反する」
「ゲオルさん……」
「勘違いするな。これは、未だ貴様との契約があるからであって、それが切れればあとは好きにやらせてもらう。分かったな」
ゲオルの言葉に「はい」とどこか笑みを零しながらエレナは言う。
……が、何か思い出したかのようにふと言葉を続けた。
「そう言えば、さっきゲオルさん言ってましたよね。こんなことにならないよう、対策くらいはしてあるって……あれってつまり前に同じようなことをされたから、対策したってことですか」
「…………さて、宿に向かうか」
「あっ、図星なんですねっ。もう……やっぱり、ゲオルさんって抜けてますよね」
「貴様っ!! また根も葉もないことを……!!」
「大体、さっきだって私の方が先に気づいた云々言ってましたけど、本当はスられたこと気づいてなかったんじゃないんですか?」
「そんなわけがあるかっ!! ええい、貴様とは少しじっくり話し合う必要があるらしいなっ」
「ええそうですね。私ももうちょっとしかっかりしてもらいたいと思うので、宿に行ったら話し合いましょうか」
「望むところだ、小娘がっ!!」
などと言い合う二人。
互いの言い分を言うためにも早く宿を探しに行こう。
そう思っていたのだが。
「おいおい、何か聞き覚えのある雑音がするかと思えば―――何やってんの、お前?」
その声に、その言葉に、ゲオルは聞き覚えがあった。
いや、正確には、彼ではない。この身体の持ち主であるジグル・フリドーの記憶で嫌という程聞かされたものであり、ジグルにとってもゲオルにとっても聞きたくないものだった。
だが、現実というのはどこまでも面倒なものであることを、ゲオルは再三に渡って理解した。
「……タツミ ユウヤ……」
そこにいたのは、かつてジグルを追い出したタツミ ユウヤが立っていた。