二十七話 報復の時②
はっきり言ってしまえば、この時点でこの場にいる物皆全て、逃げるべきだった。
目の前にいる女は、どうみても人間の域を超えており、自分達が敵うわけがない。そして、守ってくれるはずの剣狼や衛兵も、既に残ってはいなかった。
ならば、あとは逃亡という手段しかない。
けれど、誰もそれができなかった。
蛇に睨まれた蛙、という言葉がある。天敵である者、そしてそれに匹敵する脅威を前にしては、どんな生き物も下手に動くことはできない。
つまり、ここにいる誰もが、蛙になってしまっていたのだ。
「……まぁ、これくらいですわね」
どさっとヘルは掴んでいたモノを落とす。
それは、ボロボロになったリストンだった。片目は潰れ、歯を砕かれ、両腕両脚は勿論折っており、両手両足の指先はなくなっている。口からは血だけではなく、胃液等といった奇妙な液体が出てきていた。無論、胴体は痣だらけであり、骨も何本かは確実に折れられている。
それでも、死んではいなかった。そう、死んですら、いなかったのだ。
それはリストンが耐えたからではない。ヘルがただ単純に、死なないように壊していっただけの話。そして、それも情けをかえたからでも、殺すことを躊躇ったわけでもない。
ただ、この男に見せつけたいだけなのだ
自分が犯した罪の重さ、そして真実というものを。
「さて。次はどなたにいたしましょうか?」
その言葉に、カイニスは息を飲んだ。
彼女は本気だ。本気で自分達を殺そうとしている。
皇帝を、国の主を殺すことに、普通はためらいというものがある。どんな傑物でも、その重大な責任や後悔が邪魔をするものだ。
だというのに、目の前の女には、その迷いが一切無かった。
「ま、待て。貴様、自分がやろうとしていることが、本当に分かっているのか!? 皇帝を……この国の主を殺すとは、どういうことか、本当に理解しているのか!?」
「ええ無論。これが終わりましたら、恐らくわたくしは捕まるでしょう。そして、処刑される。ええ、ええ。十二分に理解していますとも……けれど、それが何か?」
まるで。
まるで、そんなことなどどうでもいいように口にするヘルに、カイニスは今度こそ、理解が及ばなくなった。
「皇帝や貴族を殺そうとするのです。それくらいの覚悟ができずに、どうするというのですか。そして、その決意をわたくしは、当の昔に終わらせています。なので、あなた方を殺すことに、躊躇いはありません」
けれども、だ
「ただ、最後の懺悔くらいは聞いてさしあげましょう。自分のやってきた行いを悔い改めるというのは、どんな罪人にも許された行為です。故に、真実を述べ、神に祈ることくらいは許してさしあげますわ。ねぇ―――皇后様」
言うと、全ての視線が、皇帝の隣に座っている皇后の元へと集まる。
一方の皇后はというと、まるで小動物の如く、手で口を押さえ、震えながら言葉を告げる。
「な、何を、言って……」
「あなたは今、こう思っているではないでしょうか。どうしてこの王宮内で、自分の思い通りになっていないのか、と」
「い、意味が分かりません」
「この後に及んで、そんな猿芝居はおやめなさいな。あなたが全ての元凶であることは、こちらはとっくに気づいております」
男が見れば、その仕草は守ってあげたくなるような、そんな行為なのだろう。
確かに、彼女は可憐で美しつ、儚そうな容姿をしている。触れれば折れてしまいそうな、高嶺の花。そんな印象が窺える。
けれども、ヘルにはそんなものは、一切通用しない。
「そもそもの発端は、五年前のあの事件。クラウディア公爵令嬢が濡れ衣によって追放されたことが始まりでした。彼女の事件は、何もかもが曖昧。犯人の自供も、目撃者の話も、そしてクラウディア令嬢の侍女の遺書も。彼ら彼女らは、結局死ぬか、行方をくらましている。これは誰がどうみてもおかしいと言えるでしょう……しかし、そのことについて、誰も指摘せず、追及しなかった。まるで、誰か思惑が働いていたかのように」
そう。クラウディアの事件には、何者かの思惑があったのは、明白だった。
しかし、それを誰も追及しなかった。ならば、全員がグルだった、という可能性は無くはないが、しかし、ならばどうして騎士団長であるゼオンはクラウディアを助けるようなことをしたのか。いいや、そもそも、皇帝や貴族達がグルになってまで、クラウディアを追いやる利益がどこにある?
そして、一方でこうも考えられる。
あの時、クラウディアを追いやることで、一番特をしたのは、一体誰だったのか。
「それから剣狼騎士団。彼らの行動も、この五年間はおかしいものばかりでした。街の人々への暴力、強請、そして殺し。手柄を立てるためにという理由で、彼らの横暴は見過ごされてきた。けれども、いくら街を守る騎士団であったとしても、そんな問題を一つでも抱えれば、即座に解散されるのが普通でしょう。けれど、彼らの横暴は今日まで許されてきた。それは恐らく、何者かが自分の手足になる駒が欲しかった、と望んだからでしょう」
そう。剣狼騎士団の悪行は、いくら何でも度が過ぎていた。それは誰の目からみても明らか。
自分達に逆らう者は、誰であろうと容赦はしない。恐怖による治安に、街の人は無論、貴族すらも辟易していた。そして、それは同じ剣狼騎士団の中の者も同じであり、時には皇帝に直訴する者もいたはずなのだ。
なのに、一切改善されず、何も罰を受けることもなく、解散しないまま、逆に力をつけてきた。
そして、だ。思い出して欲しい。
あの頃、剣狼騎士団の結成を後押ししたのは、一体どの家だったのか。
「それが……私だというのですか。そんなの、ひどい言いがかりではないですかっ!!」
「ええそうですわね。言いがかりにも等しいでしょう。そして、いくら公爵家の娘だからといって、そんなことはできない。皇帝陛下にもできないでしょう……それが、ただの人間ならば、の話ですが」
その言葉がきっかけだった。
皇帝は自らの伴侶に視線を寄せながら、ヘルに言う。
「どういう、意味だ、それは……」
「お分かりになりませんか、陛下。あなたの隣に座っている女は、ただのか弱い、公爵家の娘ではないということです。いいえ、むしろ人間と呼ぶことすら、正しくないかもしれませんが」
ヘルの言葉に、マリアは目を大きく開き、そして立ち上がりながら、叫ぶ。
「デタラメです、でまかせです!! 貴女が言うことは何一つ証拠がない!! 陛下、このような女に耳を傾けてはいけません!!」
「ここまで来て、証拠も何も必要ありませんよ。わたくしにとって、その態度が、何よりの証拠。それで十分ですわ。どうやら、自分の魔術が効かない事に、相当動揺していると見えますわ。自分の縄張りに入られ、そして全く自分の思い通りに動かないことに、余程腹が立っているのでしょう」
魔術、縄張り……一体何を言っているのだ?
ここにいる他の者達が全員思っていることを、カイニスは口にして問う。
「ま、魔術、だと……?」
「ええ。お気づきになられていないでしょうが、今、この城は一種の魔術に汚染されています。いいえ、構成されている、というべきでしょうか。術者の思いを具現化した魔術……異界魔術、というのですが」
「異界、魔術……」
その単語が出た瞬間、マリアは一歩前へと出る。
そして、噴火の如き怒号を浴びせた。
「口を閉じなさい、下郎! そして、今すぐ縛につくか、この場で謝罪し、自害しなさい!!」
そこには既にか弱い皇后の姿はなかった。
自分に従え……そんな、上から目線の言葉に、しかしヘルは首を左右に振り、呆れたように言葉を告げる。
「無駄ですわよ。そんなことを命令しても、あなたはわたくしを操ることはできません。実を言いますと、このヴェールと服は特注の魔道具でしてね。相手に自分の素顔を見せないだけでなく、相手からの干渉的な魔術を一切遮断する効果がございますの。まぁ、自分は魔術を使えない、という条件がございますが」
彼女が魔術を使えない体質、というのはまさにこれが原因だった。
魔術が使えない、というのは大きな縛りになるが、しかしそれ故にその効果は絶大。異界魔術という魔術を極めた代物であったとしても、その効果を受け付けないようにしたのだから。
「あなたの異界魔術の効果は、自分の思い通りに事を進める、というものですわね。実際は、完全な催眠や洗脳程の作用はなく、何とも中途半端な能力ですが、影響力がある。誰もが自分の意思で動いているつもりが、誰かの思惑の上に乗っていると気づかないのですから……けれど、それもここまで。わたくしの知り合いに、魔術に詳しい人がいまして。そういった人の意思に干渉してくる能力というのは、その能力を口にしたことで、効力は薄まるらしいですわ」
だからマリアはヘルの口を塞ごうとした。
しかし、悲しいかな。いかに彼女の力が強く、人を気づかれない内に操れるものだったとしても、今のヘルには通用しない。
「マリア、お前……」
「ちが、違います、陛下。違うのです!! 私を信じてくだ―――」
「それから陛下。そこにいられるのは、マリア様ではありませんわよ?」
何度目かの衝撃か、ここに走る。
「なん、だと……?」
「いいえ、正確には身体はマリア様のものですが、中身は別の者の魂が宿っていますわ。彼女は何百年もの間、この国の陰に潜んで生きた、かつて王妃だった方。その時に、結界を張ると言い張って、この城を寄り代に異界魔術を発動させた……それから身体を取り替えては生き延び続けてきたのです。加えて、彼女はもう一度、皇后になるために、自分の娘を二人、犠牲にした」
「自分の、娘……まさか!?」
その言葉に、思わず、カイニスは席を立ち、マリア……いいや、マリアの姿をした女から離れる。
そうして、誰からも疑いの目を向けられる女に対し、ヘルは告げる。
「そろそろ自分の正体を明かしてくださいな―――エレノア・フロウレンス公爵婦人?」
それは、クラウディア、そしてマリアの母である、フロウレンス公爵婦人の名前だった。




