一話 目覚め
エレナが目を覚ますと、目の前には何もなかった。
当然だ。自分には視界がない。故に目を覚ます、という表現も本当なら不的確な言葉だ。それでも自分が意識をはっきりとさせた、というのは理解できる。
むくり、と上半身を起き上がらせると、近くから熱を感じた。パチパチッと弾ける音がする。どうやら焚き火をしているらしい。下に手をつけると堅く、冷たい感触があった。遠くからは水滴が落ちる音がした。その音が響いてくる、ということはここが洞窟内であるというのが分かった。
洞窟、その単語で思い出す。
自分が高熱を出したこと。それを治すためにジグルと一緒に森へ入ったこと。そして、その薬を飲んだはいいものの、魔物に見つかり、ここまで逃げてきたこと。
そして。
ジグルが自分を助けようとして―――。
「っ!! ジグルさんっ!!」
「うわっ!?」
大声で叫ぶエレナの言葉に返ってきたのは端的な驚いたと言わんばかりな言葉だった。
確かに名前を呼んだが、しかしまさかすぐさま返事がくるとは思ってもみなかったので、エレナは「え?」と驚いてしまう。
「じ、ジグルさん? そこにいるんですか……?」
「? いるけど……どうかした?」
まるで緊張感がない言葉を口にする。しかし、その声は確かにジグルのものだった。もう一年の付き合いになる青年の声を流石に間違えるはずはない。
ふと、そこでエレナは自分の熱が下がっていることに気がついた。ジグルが作ってくれた薬が効いたのだろう。
「熱は下がったみたいだね。良かった。薬を飲んでもう三日も眠りっぱなしだったから。心配したよ。街に連れて行こうとも考えたんだけど、この森の中をうろうろするのはあまりよくないからね」
「三日、ですか……」
それは随分と眠っていたものだ。
「心配をかけて、すみません……」
「いや、いいんだ。元々、僕が君を連れてきたようなものだからね。もしも、僕が薬草やキノコを採りに言っている間に何かあるかもしれない……そんな浅はかな考えで君を危険に晒した。こっちこそ、悪かった」
「それは違いますっ。元はといえば、私が風土病にかかるのがいけなかったんですから……っと、それより、魔物の群れはどうしたんですか?」
朦朧とした意識ではあったが、魔物の群れが襲ってきたことはエレナも覚えている。それもかなりの数。目が見えなかったからどれだけの数がいたのかはきちんと把握できなかったが、あの遠吠えや足音から察するにエレナの村を滅ぼした群れよりも多いのは確かだ。
そんな数の魔物を相手に自分達は逃げていた。そうしてこうやって無事でいられる。
それはなぜなのか。
「自分が追い払った……と、言いたいところだが、実際は助太刀があったんだ。通りすがりのギルドの人たちが助けてくれたんだよ」
「ギルド、ですか」
「ああ。何でもあの群れの中に狙っていた魔物がいたらしく、それを追ってきたら僕が戦ってるところに出くわしたんだ。それで一緒になって魔物と戦って追い払えたんだ。お礼がしたかったけど、用事があると言ってすぐにどこかへ行ってしまったけどね。おかげで名前も聞けなかったよ」
「そう……ですか」
「流石に僕でもあの数は一人じゃ厳しかったから、本当に助かった……あっ、今スープ作ったから、よかったら食べて」
そう言うと、スープが注がれる音がする。そして「はい、どうぞ」と手に椀が渡された。匂いからしてハーブが使われていた。恐らく、ジグルが得意とする鹿の肉を使ったいつものスープだ。
それを一口飲む。
「……、」
「? 美味しくない?」
「い、いいえ。とっても美味しいです。いただきます」
エレナはそのままスープを食した。予想通り、中には鹿の肉が入っており、他にも野菜やキノコが取り入れられており、美味しかった。
スープを全て食べ終えると、エレナは椀を地面に置いた。
「……ジグルさん。一つ、お願いがあるんですけど……」
「何かな」
「手を……握ってくれませんか。ちょっと……魔物のことで怖いことを思い出したので」
それは、あまりに唐突な提案だった。
怖いから手を握って欲しい……本来ならば大袈裟すぎる対応なのかもしれない。子供、と言われるかもしれない。しかし、エレナにとって魔物とは家族の仇であり、恐怖の対象。故に他の人間よりも敏感に反応してしまう。
それをジグルは知っている。
エレナの言葉に少しだけ間が空いたかと思うと、ジグルは「いいよ」と言って手を握ってきた。
「ほら、これでいいかい?」
小さなエレナの手がジグルの手に覆われる。
手触り、感触、伝わってくる温かさ……どれをとってもジグルのものだ。エレナがよく知る、自分の恩人であり、大切な青年のものだった。
目の前にいるのは確かにジグル・フリドーだ。
そのはずだ。
そのはずなのに。
「―――貴方は、誰、ですか」
握られていた手を放しながら、震える声で少女は訊ねる。
エレナに目の前の何者かが本当はどんな顔をしているのかは分からない。だが、ジグルの振りをし続けているのなら、今は驚愕の表情を浮かべているのだろうと思った。
「どうしたんだ、急に。一体何を……」
「最初におかしいと思ったのは、ギルドの人たちが助けてくれた、というところです」
惚けようとする言葉を遮り、エレナは自らが導き出した答えの経緯を口にする。
「この森は魔物が大量に出現するということで本来ならば封鎖されています。だから街の人たちは誰も近づこうとはしません。そして、それはギルドも同様です。本来ならギルドによって魔物討伐がなされるはずですけど、あまりに数が多いということで上級のギルドに依頼がされたということになっており、それ以外のギルドが介入することは固く禁じられています。そのギルドが到着するのは私たちが森に入った日から一週間後とされていました」
何故そんなことを知っているのか。それは他でもない、ギルドの関係者に話を直接聞いたからだ。本来なら、依頼として薬草やキノコの採取を手伝ってもらおうとしたが、先の理由で断られてしまった。だから、ジグルとエレナは自分達で何とかする他なかったのだ。
だからこそ、ギルドの者が偶然助けにきてくれた、という可能性はかなり低いのだ。
「もちろん、封鎖を知らないギルドの人や知ってて敢えて森に入った人もいるかもしれない。けど、そのことについて、貴方は一切触れなかった」
「……、」
「次に、怪しいと思ったのは、スープです」
と、近くに置いてあった椀を片手に持ちながら、エレナは続ける。
「確かに、これはいつものジグルさんのスープです。使われている食材、隠し味、そして私が熱すぎるのを苦手だと知ってて少し冷ましていたこと……それらはいつも通りだった。けど、味が違ったんです。少し、本当に僅かな違いですけど、ジグルさんの作る料理よりも濃い味付けになっていた。食材と作り方は知っているけど、別人が作ったかのような、そんな風に感じたんです」
ジグルもエレナも薄味が好みだ。だから普通、料理をすれば薄い味付けになってしまうことは多々あった。けれど、一方で味が濃くなったことは一度もない。正直なところ、普通の味覚をしている人間が食しても違いは分からないだろう。だが、目が不自由なエレナは耳や舌の機能が異常に発達している。だから普通では見分けられない味の違いもわかってしまうのだ。
そして、他にも鋭利な感覚になっているものがあった。
「そして、決定的だったのは貴方に触れた時。感触も、大きさも、そしてぬくもりもジグルさんのものでした。……けど、手を握る程、近くに寄ったことで貴方の気配を感じることができた。貴方から感じる気配、空気はジグルさんのものです。けど、それとは別のものも感じる。まるで、ジグルさんの中に別の何かがいるような」
エレナの特殊な技能の一つ。視界を持たない彼女は、剣の達人が持つ気配を察知する能力をその身に宿していたのだ。だからこそ、彼女は目が見えなくともある程度なら一人でも街中を歩くことができる。
手を握ったのは身体や手の感触を確かめるためではなく、それだけ近くにいれば気配をじっくり観察することができた。最初は眠りから覚めてすぐだったせいか違和感を覚えることはできなかったが、しかしそこでようやく気づいたのだ。
ジグルの気配はする。けれど、それを飲み込むような、もっと強大で膨大な何かがジグルの身体の中に蠢いていた。
それだけ分かれば、もう疑う材料は揃っていた。
「もう一度聞きます……貴方は、誰ですか。ジグルさんを、どうしたんですか」
エレナの言葉に返答はない。
この時、彼女の中には疑いはあっても確信はなかった。自分の前にいるであろう人間がジグルではない、というのは可能性の話であってそれが本当だという確固たる証拠はどこにもない。
だからこその確認。だからこその問い。
エレナは願う。自分の疑いが外れていることを。とんでもない馬鹿げた空想であることを。
そして、「そんなわけないだろう」とジグルが言ってくれることを。
けれど。
「―――成程。ジグル・フリドーの記憶にある通り、確かに聡明らしい。まさか、こんなにも早く見抜かれるとはな」
真実とは、どこまでも残酷なものだと少女は思い知らされる。
違って欲しかった。嘘であって欲しかった。
そんな少女の願いを踏みにじるかの如く、現実が少女を打ちのめす。
「あな、たは……一体……」
信じられない、信じたくないと言わんばかりな声音に対し、しかして男は容赦なく告げた。
「ワレは『魔術師』。この度、ジグル・フリドーの身体を貰い受けた者である」
エレナには男の表情は見えない。
だが、この時、確かに目の前の人間が笑みを浮かべていることは、なんとなく分かってしまったのだった。