十八話 魔術師と青年①
目前に広がるは真っ白な空間。それは比喩でも何でもない。本当に何もない場所だ。空も地面も存在せず、自分が立っているのか、浮遊しているのかすら分からない状況だ。死んでいるのでは、という錯覚さえ覚えてしまう。まさに、何もない自分に相応しい場所だ。
しかし、自分が死んでいない、というのを再認識させる存在が、目の前にいた。
「―――何をしに来た」
ゲオルは、やってきた青年……ジグルに対して、短く言い放つ。
ここは、ダインテイルが使用した短剣の中。魂のみが出入りする場所だ。ここに来る直前、ゲオルはジグルの魂を人工体の中に置いてきた。つまり、彼が間違って、ここにいる、というのは有り得ない。
だが、現にこうしてジグルは目の前にいる。
それが一体、何を意味するのか。
「貴方を連れ戻しに来ました」
刹那、ゲオルの拳が、ジグルの頬に炸裂した。力強い一擊。本来ならば、ゲオルの一擊は人間を半殺し、または戦闘不能に陥らせるもの。
だが、幸か不幸か、ここは魂の世界。そういう常識が通用しない世界だ。
故に、ジグルは一歩後ろへ下がっただけであり、未だ立っている。
そんな彼に、ゲオルは言う。
「……何故、殴られたか、言うまでもないな」
低い口調に交じるのは、確かな怒りだった。
「ワレは貴様のことを、お人好しだと理解していた。ああ、そうだとも。貴様の身体を乗っ取った時から、そんなことは知っていた。分かっていたとも。だが……ここまで阿呆だとは思いもしなかったわ」
ジグルの記憶を見たときから、彼がどんな人間なのかは把握していた。一言で言うのなら、好青年。誰に対しても優しく、できることなら困っている人間を助けてたいと思える、そんな男。
どこまでも馬鹿で、阿呆で、お人好し。
確かに、そこまで理解しているのなら、彼がゲオルを助けに来るという予測ができないわけではない。だが、それは有り得ない。あってはならない話だ。
何故なら、彼には大切な者がおり、ゲオルを助けるという行為はその者とまた離れ離れになるということなのだから。
「さっさと帰れ」
「嫌です」
ジグルのきっぱりと反対に、ゲオルは睨みを効かせて続けて言う。
「阿呆なことを抜かすな。貴様、自分のしていることが本当に分かっているのか? せっかく自由の身になれたというのに、それをみすみす放棄するだと? 呆れてものが言えんどころの話ではないぞ」
そう。ジグルがしている行為は、どんな言葉で言い繕うとも、自殺行為以外の何者でもない。
そもそも、彼がゲオルと魂の融合をし始めて、数ヵ月がたち、エリザベート・ベアトリーとの戦いで、それはさらに加速してしまった。
結果、残りの期限は既に七ヶ月を切っている。
「一度魂の融合から解き放たれたからといって、期限が変わることはない。貴様とワレがもう一度融合をし始めれば、残り日数は七ヶ月弱。そんな危険な状態に、再び戻ると言うつもりか」
それは、あまりにも無茶であり、無謀すぎる。
残りの『六体の魔物』を倒し、魔王を倒し、ゲオルの元の身体を取り戻す……言葉にするだけなら簡単であるが、それを実行するのは極めて困難なことだ。絶対にできない、とは言わないが、達成できる可能性は限りなく低い。
それでも今までは旅をしていてきたのは、自分の身体を取り戻すため。そして、エレナとはその身体を取り戻せば、ジグルに人工体を授けるという約束をしていたから。だから、困難だろうと旅を続けてきたのだ。
しかし、その約束ももう果たす必要はなくなった。
何故なら、ゲオルは敗北し、ジグルの魂が人工体の主となり、彼らは元通りの状態になったのだから。
「もう一度言う。さっさと帰れ。そして、あの小娘とどこへなりと行けばいい。貴様らは、もう自由なのだから」
一見、冷たい言葉に思えるが、しかしゲオルの口調はどこか、説得するようなものだった。
そう。もう彼らは自由なのだ。ジグルがゲオルに身体を提供する契約をしたのはエレナを守るため。エレナがゲオルと危険な旅をしてきたのは、ジグルを取り戻すため。言ってしまえば、彼らは仕方なく、ゲオルという魔術師と契約をした形となったのだ。
だが、その契約も履行する必要はない。
ゲオルは、自分の問題で勝手に戦って、そして勝手に敗けた。それは、ジグルやエレナのせいではない。魂の状態になったのはジグルのせい? ふざけるな。そんなものただの言い訳に過ぎないし、するつもりもない。あの戦いは、誰がどう言おうとゲオルの力不足でしかないのだから。
故に、ジグルやエレナが魔術師を連れ戻す責任はないし、必要性など皆無。
だというのに。
「それでも……嫌です」
強い意思を宿した、否定の言葉を口にする。
再び魔術師の眼光がジグルに向けられるが、彼は全く怯むことなく、言葉を返した。
「ここに来るまで色々と覚悟はしてました。罵倒を浴びせられることも、殴られることも。貴方が怒っている理由も、分かっているつもりです。けど、その上で、何をされても貴方を連れ帰ると覚悟してきたんです。たとえ、貴方が嫌がっても、無理矢理でも、僕は貴方を連れて帰ります」
その言葉に嘘はなく。その瞳に偽りは感じない。
ああ、分かっている。彼は本気だ。本気でゲオルを連れ戻そうとしている。本気で自分を助けようとしている。
その決意が、信念が分かるからこそ、理解できるからこそ。
「ふざるなっ!! この阿呆が!!」
火山が噴火した如く、ゲオルの怒号が飛んだ。
「ワレを連れて戻る? 戯けたことを抜かすな!! それがどういう意味なのか、何度も言ったはずだ!! 自己犠牲も大概にしろ!! そんなことをしても誰も喜ぶ者はいないっ!! いいや、むしろその逆。貴様の行動のせいで、悲しむ者が、涙を流す者がいるのが分からんとほざくつもりかっ!!」
ゲオルとて、ジグルがそこまで愚かではないと知っている。
その誰かが、分からないわけがないのだから。
「以前にも言ったはずだ。あの小娘が、どれだけ貴様と会いたがっていたか、貴様は知っているはずだ!! どれだけ貴様とまた一緒になりたがっていたか、貴様は分かっていたはずだ!!」
エレナは旅を始めてからというもの、ゲオルに対し、ジグルを返せとは言ってこなかった。
自分の大切な人が、目の前にいる。なのに、触れることも、語り合うこともできない。魔術師によって奪われている状態をまざまざと見せつけられている。
それが、どんなに辛いことか。悲しいことか。ゲオルには計り知れない。
そして、それはジグルにも言えることのはずだ。
「貴様は……あの小娘を愛しているのだろう? ずっと一緒にいたいと思っているのだろう? 自分の命を懸けても、何があっても、守りたいと切に願っているのだろう!? ならば何故そうしない!! 何故ワレの魂を取り戻そうとする。何故自らの命を危険に晒すような真似をする!? どうして……どうして、そこまでして、ワレのような男を助けようとするっ!?」
分からない。本当に分からない。
どうして、危険になってまで、自分を助けようとするのか。
どうして、自由を捨てて、自分を救おうしているのか。
こんな外道に、こんなクズに、こんな何もない男に。
どんな理屈を持って、手を差し伸べるというのか。
「……約束したんです」
「約束、だと……?」
怪訝な表情を見せる魔術師に、ジグルは面と向かって言い放つ。
「あなたを連れて、必ず一緒に帰ってくるって。エレナと約束したんです。そして、彼女にお願いされました。どうか、ゲオルさんを助けてくだいって。自分がここにいるのは、貴方のおかげでもある。でも、自分はままだ何もしてあげられてないって」
刹那、魔術師は言葉を詰まらせた。
その言葉が、その表情が、あまりにも真っ直ぐ過ぎたのだ。
「どうしてって、ゲオルさんは言いましたね。なら、答えを言います。僕たちが、そうしたいと思ったからです。僕やエレナにとって、ゲオルさんは大事な恩人で……おこがましいかもしれませんけど、友人なんです。恩人を助けようすること、友人を救おうとすることは、当たり前のことじゃないですか」
当たり前のこと。
ジグルは、はっきりと確かに言い切った。
「貴様らは、本当に……」
反論しようにも、言葉が出てこなかった。
恩人、とゲオルは言った。しかし、それは結果論でしかない。事実、ゲオルは最初、自分の身体を探すつもりはなかったのだから。エレナのことだってそう。どこか、安全な街や村にでも引き取ってもらって、それで終わりにするはずだったのだ。
それが何の因果か、一緒に旅をするようになり、そして身体を奪った者を見つけることができた。
しかし、それは全て偶然のこと。後付けの理由でしかない。
故に、恩人や友人などと言われるべきではないのだ。
ならば、それを口にして言えばいい。いつものように、傲慢な口調で言い放てばいい。
しかし……何故だろうか。今のゲオルには、それができなかった。
「……どうしても、ワレを連れて帰るというのか」
「はい」
「……何があっても、ワレとともに帰るというのか」
「はい」
「なら、何度でも言ってやろう。断る」
代わりに口から飛び出したのは、拒否の言葉。
「貴様の願いに、付き合う道理は今のワレにはどこにもない。ワレは敗北し、納得した上でここにいる。それを覆すつもりは毛頭ない」
何を言っても、自分の意思は変わらない。いいや、変えられない。言葉では最早どうしようもないところにきてしまっている。
ならば、それ以外の方法で解決するしかない。
そして、そのことはジグルもよく理解していた。
「分かりました。なら、言葉じゃない方法で、説得します」
言いながら、彼は拳を握る。
分かっている。互いに互いの意思を曲げられない。だから、二人はこうしてぶつかりあっている。そして、言葉でどうこうできないのなら、できることなど一つしかないではないか。
即ち、力づく。
「……いいだろう。やってみるがいい。できるものならな」
静かに言葉を口にしながら、ゲオルもまた拳を握った。
馬鹿馬鹿しい、と思う者がいるかもしれない。阿呆らしい、と考える者がいるかもしれない。一見すればどうでもいいものであり、無駄で無意味な代物と口にする者がいるかもしれない。
だが、それは第三者からの視点。
ゲオルにとって、ジグルにとって、これは避けて通れない戦い。
いいや、違うか。これは、ただ単純に、互いに互いの決意と覚悟を貫き通すための、闘争という名の喧嘩であり、彼らにとっては何よりも重視する事柄。
故に、ぶつかり合うのは必然だった。
そして。
「「ぉぉぉぉぉぉおおおおおおっ!!」」
互いの間合いに入った途端、魔術師と青年の信念が交差した。