六話 ゲーゲラの街③
普通、人を殴った場合はやってしまった、と思う者が多い。
その場の勢い、突発的な感情に任せての行動は、一瞬ではあるが人を狂気に陥れる。ゆえにそれが覚めてしまうとすぐ様後悔するという。人間社会故の制限というべきか、だからこそ人間はあと一歩というところで踏みとどまれる生き物であるのだ。
だが、ゲオルの場合は違う。
元々人でなしである彼は、喧しく暴言を次から次へと吐きちらす男に対し、殴って申し訳ない気持ちなど全くこれっぽちも感じてはいない。むしろ、久々に人を殴って清々しい気持ちになった。
吹き飛び、地面に沈んでいるユウヤを道ゆく人々が見ており、さらにはその原因となったゲオルに視線を寄せていた。
しかし、そんなものなど知ったことかと言わんばかりにゲオルは言う。
「ふむ。手加減はしたはずなのだが……今の一擊でまさか立てなくなったとは、拍子抜けもいいところだな」
振り向きざまの一擊は、見事なまでにユウヤの顔面に直撃した。だが、それでも威力はたかが知れている。というより、相手は勇者。不意をついたのは確かだが、まさか防御も回避もせず馬鹿正直に殴られるとは思ってもみなかったのだ。見るからに死んではいないようだが、それにしても呆気なさすぎる。
「これが勇者だと? 世も末、とはまさにこのことだな」
「ゲオルさんっ」
ふと後ろからエレナの声がかかる。
彼女が何か言う前に、ゲオルは先に口を開く。
「文句がありそうだが、それは全て奴に言え。あまりに煩かったのでな。べらべらと雑音を撒き散らし、挑発してきたんだ。ならば、それに乗っかってやるのが礼儀というものだろう?」
「だろう、じゃないですっ。全くもう、本当考え無しなんですから、貴方は!」
「考えなしとは何だ。ちゃんと手加減はしたぞ。っというか、ワレは驚いてるのだぞ。あの程度の攻撃、普通なら避けられるだろうに」
少なくとも、ジグル・フリドーならば簡単にさばけるであろう。彼の剣術については、その記憶から読み取れるため彼の実力がどの程度なのかも把握している。そして、目の前の男は、そんな彼を邪魔物、クズ、お荷物などと呼んだのだ。ならば、それ以上の腕前であるというのは当然のはず。だというのに、結果はこのざまである。歯ごたえないどころか、噛んだことにすら気づかない程のものだ。
「それにもう少し遅ければ、貴様に先を越されるところだったからな。誰かが殴った後に拳を振るうというのは、まるで残飯を漁る獣のような行為だ。あまり好かん」
「ゲオルさん……」
気づいていたのか……そんな表情を浮かべるエレナ。
ゲオルは彼女との付き合いは短い。しかし、彼女がジグルのことを好いているのは知っている。にもかかわらず、最初は自分を抑えてさっさとその場を去ろうとしたのは、大人の対応とも言えるだろう。だが、それを止められたあげく、ジグルのことをあれほどまで馬鹿にされ、貶されれば黙っていないことくらいは分かっていた。
まぁ何にせよ、最終的に殴ったのはゲオルになった。
ならば、自分が対応するしかない。
「とは言うものの、どうやら向こうはもう戦えないときた。呆気ないにも程があるが、仕方ない。倒れている相手を一方的に嬲る趣味もないしな。この場を離れて今度こそ宿に……」
「誰が、呆気ないだと、あぁんっ!!」
そこでようやく倒れていたユウヤがむくりと身体を起こし立ち上がってきた。
顔面に直撃したせいか、鼻血が出ており、口の端からも血が流れている。加えて怒り心頭らしく、こちらを射殺さんと言わんばかりな視線を向けて叫ぶ。
「テメェ、テメェテメェテメェテメェッ!! よくもやってくれやがったな、やりやがったなっ!! ふざけんなよクソがっ。何調子こいてんだよ、テメェみたいなクズが、生きている価値もないゴミが勇者である俺を殴るだと? それがどんだけ重い罪なのか分かってんのか? ああ、分かってないんだよな、そうだよな。分かってたら、んなことできねぇもんな、そもそもテメェにそんな頭ないものなぁ。ああ、悪い悪い。あんまりにも高尚なことだから理解できねぇよな。テメェみたいなクソにはっ!!」
憤慨するユウヤ。その瞳は殺気に満ちており、こちらをギロリと睨んでいる。
が、ゲオルにとってはそんなもの何の脅しにもならない。憤慨? 殺気? 阿呆か。この程度のものなど何度も向けられてきた。ユウヤが放つものはその中でも最底辺のものだ。彼はゲオルに怒っているのではない。自分が殴られたという事実に怒っているのだ。絶対で最強で無敵な自分に、他人が逆らった。言うことを聞かない人間がいた。そのことが、どうしようもなく赦せないのだ。
まるで暴君のような性格。いや、暴君にすら失礼だろうと思えてしまう。そんな男が世界の命運を持つ勇者だという事実が、本当に理解しがたい。
もしもここにジグルがいたのなら、彼をどう思うのか。怒るか、それとも呆れるか。はたまた哀れむのだろうか。
「いいかよく聞け。お前は負け犬なんだよ。グズで弱くて何の役にも立たない馬鹿だ。そしてパーティーからも逃げ出した臆病者だ。そんな奴が今更俺の前にのこのこ現れてんじゃねぇよっ。しかも、それだけじゃあきたらず、俺に逆らいやがって……。もしかして、あれか? 修行して強くなって帰って来たとでもいうつもりか? だったら思い込みだ、そんなもんに意味はねぇよ。負け犬はどこまで言っても負け犬なんだよ。テメェがどれだけ努力したところで、そんなもん無価値なんだよ。お前がどんだけ強くなったところで生きてる価値なんかねぇんだよっ」
「……言いたいことはそれだけか?」
ゲオルの言葉にユウヤは「は?」と呟き怪訝な顔を浮かべる。その顔から自分の言葉に反論されるとは全く思っていなかったのだろう。けれど、ゲオルはというとこれまた大きな溜息を吐きながら面倒くさそうに続けた。
「グチグチと煩い奴だ。しかも内容がほとんど同じことの繰り返し。語彙力が無いにも程がある。そこらの子供の方がまだ言葉を使えるぞ」
「……何だと?」
ユウヤの顔がさらに険しくなる。自分がここまで脅しているのに、怯えるどころかさらに上から目線で物を言うゲオルに腹を立てているのだろう。
「テメェもう一度言ってみろ。今何て言いやがった? 俺がそこらの子供以下だと?」
「そうやって威嚇しようとしても無駄だ。どれだけ殺気を放とうとそれが小物ならば意味はない。そういうのは、実力があって初めて意味を成す。形だけを真似ても何の意味もない。程度が知れるというものだ」
本来、殺気を放つというのは強者にしか許されない代物だ。
何故ならそれは自分が今から殺すぞと相手に伝えているようなもの。故にそれだけの自信、実力が伴って初めて意味を成すのだ。そして重要なのは後者。たとえ自信があったとしても、実力がなければそれは虚勢にすぎず、逆に自分が小物であることを晒しているようなものだ。
そして、目の前にいる男は間違いなくその類の人間。だというのに、ここまで己の力を誇示するかのような態度を取れるのはなぜなのか。
その理由は恐らくは勇者という肩書きであり、彼が腰に携えているモノだろう。
正に虎の威を借りる狐、といったところか。
「ああそうか。そういうことか。テメェどうやら死にたいのか。それなら先に言っとけよ。そうすりゃよ―――最初からちゃんと殺してやったのによぉっ!!」
刹那、抜かれた聖剣が輝きを放つ。周りにいる者にはそれが何なのかは分からないだろうが、しかし魔術師であるゲオルにはそれが何なのか、一瞬で理解できた。それ故に目を丸くさせた。
それは聖剣の輝きを武器として放つ技。威力がどれほどのものかは定かではないが、少なくとも人を十人や二十人、消し炭にできるだけの熱量はあるだろう。
ゲオルが驚いたのは、そんな技が放てること……ではなく、そんな技をこんな密集地帯で放とうとする神経にだ。
大きく振りかざした一擊。それを避けるのは簡単だ。だが、確実に周りには被害が出て、ここにいる何人かは絶命する。
ゲオルがそれを確証した瞬間。
突如として、ゲオルとユウヤの前に一本の槍が突き刺さった。
「―――そこまでよ」
聞こえてきたのはメリサの声。
彼女は二人の間に割って入った。するとユウヤの聖剣から輝きが失われると同時にその視線が彼女へと向かう。
「おいメリサ、どういうつもりだ」
「それはこっちの台詞。今のを街中で使おうとか、どういう神経してるの。周りをよく見なさい、ここにはアンタ達以外にも大勢の人がいるのよ。それを巻き込む気?」
言われて、ユウヤは周りを見渡す。
屋台の商売人や、それを買いに来ている客、他にも通行人が何人もいる。
それを見たユウヤは流石にまずいと思ったのか。振り上げられた聖剣をゆっくりと下げた。
しかし、未だに彼の怒りは収まっていない様子だった。
「だが、こいつはどうする? このまま何もしないで見過ごすとか、ありえないこと抜かすなよ?」
「そうだと言ったらどうする?」
「メリサ、テメェ……」
「冷静になりなさい。明後日は討伐決行の日よ。こんなところで余計な体力使って当日に支障をきたしたらどうするのよ」
「俺が、こんな奴に負けるとでも言うのかよ」
「さぁ? そんなことはどうでもいい。けど、少なくとも余計な体力を使うことは確かよ。別にいいじゃない放っておけば。それとも何? 子供みたくだだをこねてまで倒すべき相手なわけ?」
メリサの言葉にユウヤは未だ何か言いたげだった。しかし、周りの視線や彼女の言葉から一応の冷静さを取り戻したのか、ここで無理やり戦うのはまずいと悟ったのだろう。下ろした聖剣を今度こそ、自らの鞘に収めた。
「そうだな。メリサ、お前の言うとおりだ。こんな奴に聖剣を使う価値なんてない。こんなゴミクズに使ったら、聖剣が汚れちまう。良かったな、クズ。命拾いして。だからさぁ、さっさと出て行けよ。俺の目の前に二度と現れるなよ? どうせこの街にお前の居場所なんてないんだがな」
そう言い放つとユウヤはそのまま立ち去っていく。捨て台詞のつもりなのだろうが、殴られた顔で言われても全く説得力がないと彼は理解しているのだろうか……いないのだろう。
ユウヤの姿が完全に見えなくなったのを確認するとメリサはその場で息を吐く。
そして、振り向き、ゲオルの方を見た。
「……アンタ、何やってくれてんのよ」
唐突な言葉にゲオルは何も言わない。
「アイツがああいう性格だって、アンタだって知ってるでしょ? いくら挑発されたからってそれに乗ってどうするのよ。先に手を出すなんて、アンタらしくない。前のアンタならあれくらい流せてたでしょ? 何があったか知らないけど、これ以上あいつにちょっかいは出さないでよね。ホント、そういう空気が読めないところとかは相変わらずのようだけど」
全く、と呟きながらその視線は後ろのエレナへと移る。
「それと、何その子。どういう関係なのか、じっくり聞かせてもらえる?」
メリサはエレナを指差しながら言う。
彼女の中では事情を聞けると確信していたのだろう。自分にはその権利があると言わんばかりな口調であり、むっとした表情は早く答えろと言っている。
故に、ゲオルは口を開く。
「断る。見ず知らずの赤の他人にどうしてわざわざこちらのことを喋らなくてはいけないのだ?」
え? とメリサは虚をつかれた声を出した。
彼女にとってゲオルの言葉は予想外であり、ありえないものだったのだろう。
それを追撃するかのように、ゲオルは続ける。
「先程の蠅もそうだが、貴様も中々存外に面白い勘違いをしているらしい」
「……何その喋り方。気持ち悪いんだけど。っていうか、勘違いってどういうこと?」
「そのままの意味だ。貴様の目の前にいるのは、貴様のよく知る人間ではない、ということだ。ただの人違い、というやつだな。今度から気をつけるがいい」
ゲオルの言葉にメリサは顔をしかめながら言う。
「……何それ。まさか自分を追い出した腹いせ? やめてよね。あれはあんたが勝手に出て行ったことで……」
「知らんものは知らん。この身体の前の持ち主が貴様とどういう関係だったのか、興味はないし、聞くつもりもない
「それ、どういう―――」
「そら、小娘。さっさと行くぞ」
「え、でも……」
「何をしている。早く宿に向かうぞ。色々と面倒な事に巻き込まれて、ワレは疲れたのだ。それにこの娘の傍にはいたくないとこの身体が訴えているのだからな」
エレナに言いながら、ゲオルは身を翻した。
最早彼にはメリサがどんな顔をしているのか、どんな表情をしているのか、わからないし、知りたいとも思わない。
ただ、彼は無性にここから立ち去りたかった。
でなければ、目の前の少女に何をしでかすか、分からなかったから。
「ではな、名も知らぬ娘。もう会うことはないが、一応言っておく―――死にたくなければ二度とワレの前に現れるなよ」
「ちょ、待っ―――」
メリサの言葉を無視し、ゲオルはそのまま歩き、去っていく。
ゲオルは人間性に欠ける男だが、それでも思うのだ。
昼間から、女を殴り飛ばしたくはない、と。