特別編:いえないきもち。(寄稿作品)
斎藤なめたけ先生にいただいたものです。
「ちょ、ちょっと、有里紗ちゃん。いつまで走る気!? もう三周目じゃない」
うちに呼びかけられて、恋人いちねんせいである有里紗ちゃんは、がむしゃらに動かしていた足をようやく止めてくれた。ペース配分を考えない走法は、彼女の呼吸器官を大いに疲労させたようで、膝に手をやりながらぜえぜえと息を荒げていた。
うちこと犬飼志乃と、一年後輩である長木屋有里紗ちゃんは、秋のとある休日に、星花女子学園の近くの大きな公園に出かけた。いい天気だから自然豊かなところで走り込みをしようと有里紗ちゃんのほうから誘ったのである。うちは大きな池を半周しただけでベンチでぐったりとしていたが、マラソン部所属である有里紗ちゃんはさすがにそのていどではバテたりはしなかった。だが、先輩から「何があった?」と心配されそうなデタラメな走りぶりを見て、有里紗ちゃんの「走り込みをしよう」という誘い文句が口実であることがわかった。陸上部のうちにもおぼえがあることだが、彼女は何らかの憑き物を振り払おうと無我夢中に駆けていたのだろう。
暴走を静めた有里紗ちゃんはふらふらとした足取りでベンチに沈み込み、「燃え尽きたぜ……」と言わんばかりの勢いでがっくりとうなだれる。うちは水分供給の必要を感じ、近くの自動販売機でスポーツドリンクを買って彼女に手渡した。ついでにタオルも差し出すと、有里紗ちゃんは汗まみれの顔面を拭き、ジャージの上を脱いで首から鎖骨まわりの汗も拭い始める。
汗ばんだインナーの中にタオルをすべり込ませる。それを見て、うちの心臓はトクンと高鳴り、血流が熱くたぎる思いだった。
スポーツドリンクを一気にあおって、有里紗ちゃんはようやく人心地ついたようである。うちのほうを見てささやかに微笑んでくれた。
「いやー、ほんとありがとうございます志乃先輩」
「ううん、別にいいの。それより、うちに相談できない悩みごとでもあるわけ?」
大きな池のまわりを二周までしてもんもんを吹き飛ばそうとするなんて、じゃあうちはなんで呼ばれたわけ? という気持ちも無きにしもあらずであったが、有里紗ちゃんのほうも心底困ったような苦笑を浮かべていた。
「い、いやあ……ど、どうなんでしょ? 志乃先輩に相談できないって言われたら、まあ、すこぶるできないって感じですし、ってか、先輩にだけは相談したらひじょーにマズいっしょ的な問題なんすけど……」
「歯切れが悪いなあ。いちおう、うちら、恋人なんでしょ? それでもダメなの? そもそも、それならどうしてうちを公園まで巻き添えにしたわけ?」
先輩カゼを吹かして、うちは迫った。そこまで強気に迫れるのは有里紗ちゃんの表情が明らかにシリアスそうなものに見えなかったからだ。にへらにへらな笑みを口元に張りつけ、目は水泳部のエース並に泳いでおり、顔は疾走からだいぶクールダウンしたはずなのにまだ真っ赤だ。
「い、いやスゴまないでくださいよ先輩……。恋人だから言いづらい問題っていうか、もしあたしの言葉を聞いたら先輩のほうが大変なことになりますよ」
「ここまで聞かしといておあずけとか言ったら、うち、好奇心が暴発して池まで吹っ飛んじゃうからね。打ち明けるためにうちのことを誘ったわけなんだし、責任とって全部話してよね」
「そのオドシ文句はどうかと思いますけど、確かに志乃先輩の言うとおりかもしれないっすね。じゃあ、覚悟して聞いてくださいよ」
どう覚悟を決めればいいのかわからないが、有里紗ちゃんのほうもさっさと話して楽になりたいという雰囲気であった。
わずかにうちのほうから視線を外して、有里紗ちゃんが切り出す。
「昨日、美海さんに借りた本を返しに文芸部室に向かったときのことなんすけど……」
「美海さんって、クラスメイトの須川さんね? 話だけは聞いたことはあるわ。有里紗ちゃん、本なんか借りたりするんだ?」
「き、傷つくっすよ先輩さすがにそれは。あたしだって恋愛小説を読むことくらいありますからね。ってか、あたしが本を借りたのは、この際問題じゃないですって!」
「じゃあ、何が問題なの?」
「返しに来たとき美海さん、一組のエヴァさんと立ち話をしてたんすよ。本を返した際、なぜかあたしまでそれに巻き込まれちゃって……マラソン部のこととか志乃先輩のこととか話しちゃったわけですハイ。あ! 先輩のプライベートのこととかは話してませんから! さすがにそれを話すわけには……」
「それなら別にいいじゃない。何で黙る必要があったの?」
「問題はここからっすよ……」
心労に満ちあふれた有里紗ちゃんの声。マラソンとは別ベクトルでまいったという愚痴である。
「彼女、目をキラキラさせながら言うんすよ。汗かいた後、肌を密着させたらどんな気分になりますかしらだの。共同浴場に入る際、部員仲間を意識したりすることはありませんのだの。ブルマを穿いてポージングとってくれませんことだの聞いてくるんですよ……」
「それはすごいね。星花じゃなかったらセクハラ案件じゃない」
「問題はここからっすよ……」
普段の快活さからはほど遠い溜息が漏れ出す。うちは眉をひそめた。さっきの話でも、じゅうぶん腹八分目レベルまで到達したんだけど。
「さっきと同じ台詞を聞いた気がするけど……まだあるの?」
「……先輩、耳を貸してください」
何やら重々しい口調に、うちは自然と耳をそばだてていた。有里紗ちゃんは耳に口元を寄せて、かぐわしい吐息とともに運命の言葉を投げかける。
「……い、一回の……っくす……ってジョギング十五分の消費カロリーに匹敵するそうですわ、って……」
「!!」
勢いよく有里紗ちゃんから離れてしまった。その子、いったい何を言い出すの!? 見れば、有里紗ちゃんもすごく恥じらった顔で視線を逸らしている。確かに、有里紗ちゃんが戸惑うのもよくわかる。
だが、ある事実に気づいて、うちは有里紗ちゃんの肩を掴んでしまった。
「ま、まさか、その消費カロリーを確かめるために十五分間、池のまわりのランニングを……!」
「いやいやいや、そんなわけないっすよ! あれはエヴァさんが寄越した煩悩を振り払うために……。で、でも……」
有里紗ちゃんは顔を赤らめたままだが、まっすぐにうちを見つめた。や、やめて。……っくすの話をしたばかりで切ない表情をするのは……!
「でも、恋人になった以上……いずれ、あたしたちもするん、でしょうかね……?」
「い、言わないでぇ。うちらには、まだ、それは、早いはず……」
しどろもどろになった。そもそも、っくすに対してはどちらも知識はキスやハグ以上の域を出ていないのだ。まあ、お互い裸になる時点で池に飛び込みたくなるほど恥ずかしいのだが。
ううう、帰りの共同浴場、どうやって振る舞えばいいんだろう……。