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「なぁ、嘘だろ……。ちょっと……おい、累……」
累の体は、ゆっくりと闇夜に吸い込まれるように薄らいでいく。
暗示によって意識を元に形作られた世界で、その姿が消えることに果たしてどんな意味があるのか。
累の言葉を反芻してみるまでもない。直感的に理解できる。
それはきっと、現実の世界における消失。
彼女の死を意味しているに違いない。
血の気が引いていく。
視界が歪む。
酷い目眩がして、膝が震えだした。
「……俺のせいなのか……」
喘ぐような声で、答えを求めるでもなく呟く。
累がその意識を保っていられたのは、混じり気のない願いを核にした強力な自己暗示の効果だとして。
彼女の中に別の願いが芽生えてしまったことが、その暗示に翳りを生じさせてしまったということなのか。
「……致し方のないことよ。……気に病むことはない、と言っても、無理なのかもしれないけど……」
落ち着き払った声で言って、苦笑する累。
別れを拒んで駄々をこねる子供を見るような、そんな表情だった。
そして、正和の見たことのない顔だった。
「……やめろ……。そんな顔すんなよ……」
「正くん」
「……冗談、だよな?……暗示が解けたら、お前も元通りあっちに……」
「聞いて。正くん」
朧気になりつつある気配とは裏腹に、力強くその名前を呼ぶ累。
正和は悲痛に顔を歪めながら、口を噤む。
「……本当に、正くんが自分を責めるようなことではないわ。すべては、私が抱えていた矛盾がもたらした結末よ」
何も嘆くようなことではないと言いたげに告げながら、累はゆっくりと立ち上がった。
すでに足首まで輪郭と色を失ったその両足で立ち、正和と向かい合う。
「もしこうして正くんの本心に触れることが無かったとしても、早かれ遅かれこうなっていたはずなの。だから」
「…………」
「……どうか、笑って見送ってもらえないかしら」
両手の指先からも、色素が溶けて漏れていく。
累を構成していた何かが、まるで真冬の朝のため息のように、風に流されて掻き消えていく。
「……勝手なこと、言ってんなよ……」
正和は、自分の胸の中を怒りで満たした。
声と拳を震わせて、他人事のように平然としている累を睨みつけた。
そうでもしなければ、まともに立っていることすら出来なくなってしまいそうだった。
「さんざ人のこと振り回して、人のダチをあんな目に遭わせて、そんで自分はこのまま煙みたいに消えちまおうってのか」
「……ごめんなさい」
「ごめんなさいじゃねぇよ。そんなもんで済むはずねぇだろ。ふざけんな。……元に戻せよ、その気持ち悪ぃ姿」
「…………」
「……許せるかよ……。認められるわけねぇだろ……。このまま何もかもほっぽっていなくなろうなんて……」
喉が震える。
ともすれば嘆きに裏返ってしまいそうなその声を、無理矢理尖らせて堪える。
「……どんだけ自分勝手なんだよ……。毎日毎日、朝から人のこと叩き起こして、所構わずボケかまして、飯もおちおち食ってらんなくなるような嫌がらせしてくれやがってよ……」
「……なんだか、凄く昔のことみたいね。そんな風にしていたことが」
「罪の意識とかねーのかよ。お前のせいで俺は、学校でホモだって噂流されて、死にそうなほどの高熱出して、何回も痛え思いして……。……ってか、俺の部屋から勝手に持ってったもん、どうしてくれんだよ」
累が吹き出す。
そんな反応も、初めて見た。
素直に笑う累の仕草は驚くほど可愛らしくて、泣き出したくなるほど魅力的だった。
「安心して。正くんのコレクションなら、私の部屋のクローゼットの中にあるから。勝手に入って持っていっていいわ」
「……何、笑ってんだよ……。抱えて持って帰る立場にもなってみろよ……。もう、いらねぇよ、そんなもん……」
「…………そう」
「……俺が考えてること、わかったんだろ……」
「……ええ」
「なら、なんで……なんで消えちまうんだよ……!」
どんなに心を張り詰めさせても、怒りは嘆きへと塗り替えられてしまう。
累本人にも抗えない事態であることに薄々気づきながら、消え行こうとしていく面影を懇願するように見つめる。
「なぁ……どうにかなんねぇのかよ……」
その問いかけに累は答えず、代わりにその手からシュシュが落下した。
消失を受け入れ、穏やかに微笑んでいた累の顔が、微かに曇った。
靴や衣服は累の体と一緒に薄らいでいく。
なのに、何より思い入れの強いはずのそれは、彼女と一緒に消えることはなかった。
透けた指先で拾い上げようとしても、異なる次元に存在する物質であるかのようにすり抜けて、彼女の手には収まらなかった。
「…………」
それでも、累は諦めようとしなかった。
地面に膝をついて、指先がダメならとまだ実体のある腕を使って、シュシュを抱え上げる。
胸元に抱きとめたそれは、二の腕まで消失が進むと、またしても虚しく足元へ落ちてしまった。
悄然と俯く累の目前から、シュシュを拾い上げる指先。
ずっと正和の後ろに無言で佇んでいた、もう一人の累だった。
驚きに目を丸くして、自分自身を見上げる累。
彼女を生み出した本人である過去の累は、笑顔とも泣き顔とも付かない表情で一瞬だけ視線を合わせて、そしてすぐに俯いた。
無言で後ろに回り込み、髪束にシュシュを通す。
慣れた手つきで輪を折り返し、ポニーテールの根本に寄せて形を整える。
「……よく、似合ってるよ」
胸に渦巻く様々な感情を全て押し込めたかのような言葉。
それは、状況に対して的外れなようでありながら、不思議と救いに満ちた響きだった。
シュシュは、そこに収まっていることがごく自然なことであるように、彼女の髪を飾っている。
「……安心したわ」
累は再び、安らぎに満ちた笑顔を湛え、正和を見上げた。
「正くん」
「…………」
正和は一度手の甲で目元を擦ってから、胸元まで消えつつある累と向き合い、彼女の視線を受け止めた。
「……これから先、私の意識がどうなるのかは、私自身にも見当がつかないけど……それでも、言い切れるわ。私は、絶対に忘れない」
目を細めて、累は笑う。
まるで、日向に咲いた向日葵のように。
「私の頬に、貴方が触れてくれたこと。いたわるように、私の頭を撫でてくれたこと。……そして、私を悼んで涙を流してくれたこと」
「…………」
言葉が出せなかった。
何か言おうとすれば、抑えつけている嗚咽が漏れ出してしまいそうだった。
今の正和に出来ることと言えば、下手くそな作り笑いをしてみせることくらいしかなかった。
「……ありがとう」
それでも累は、心底満足気に感謝の言葉を口にして。
まるで全てをやり遂げたかのように、穏やかに目を閉じて。
夜の風に溶け込むようにして、その姿を失った。




