89
次の日。
正和は体調を崩して、学校を休んだ。
精神的な疲労から来るものだろうと高をくくったのか、美幸は午前中に正和を小児科に受診させると、午後には仕事の呼び出しに応じて職場に出かけていった。
直後、意識が朦朧とするほどの高熱が正和を襲った。
正和は這うようにしてリビングの電話機のところまで辿り着き、母の携帯に連絡した。
しかし、繋がらない。
留守電にメッセージを残したものの、すぐに応答は望めなさそうだった。
致し方なく、堀江家に電話をかける。
電話に出たのは、何故かいつも家にいる玲だった。
—
「……四十度五分……。喉の腫れが酷いわね。結膜炎も併発しているところを見ると……アデノウイルスかしら」
「……あでの……?」
「いわゆるプール熱というやつよ。名前の通りウイルス性で、有効な抗ウイルス薬はまだないわ。大人しく寝ているしかないわね。処方された薬は?」
「……机の……上」
「抗生物質と解熱剤と、胃薬ね。少し待ってて。何か食べてから飲まないと」
玲はパウチ入りのお粥を温めて正和に食べさせ、三種類の錠剤を服用させた。
氷枕を準備し、額に吸熱シートを貼り、枕元にストローを挿したスポーツドリンクのペットボトルを置く。
「一眠りしなさい。おばさんが帰ってくるまで、ここにいるから」
「……さんきゅ」
玲はベッドの側面を背もたれにして、何やら分厚い専門書のような本を読み始めた。
正和は目を閉じてすぐに眠りに落ちたらしく、規則正しい寝息が聞こえ始めた。
二時間と少しが経過した。
時折本から顔を上げて、正和の顔色を確認する玲。
彼の顔に汗が浮かんでいるのを見て勝手にタンスを開き、着替えのTシャツとハーフパンツを取り出して手元に置いた。
「…………累……」
紙パック入りのカフェオレを啜っていた玲が、正和の声に視線を上げる。
微かに聞こえたそのつぶやきは、どうやら寝言のようだった。
酷く寝苦しそうな彼の表情に、玲は手元の本を閉じた。
「……もう……泣くなよ……」
「…………」
「…………俺が、いるから……」
玲の口元に小さな笑みがこぼれる。
熱にうなされていても、正和の思考はブレていないらしい。
「……どうしたら……いい……?」
「…………?」
「……お前のこと……助けたいのに……」
「…………」
漏れ聞こえてきたのは、正和の苦悩の声。
揺るがない目的を持ちながら、いかんともし難い障壁に阻まれているかのような、ジレンマの気配だった。
玲はその寝顔を見つめながら考える。
彼の動機に、不純な部分は見当たらない。
本当にただ単純に累を守りたいと思っていて、下心も、特に見返りを求めているような節もない。
同じく累の幸福を願う立場としては、頼もしくもあり、心配でもあった。
「…………」
玲はゆっくりとベッドの端に腰掛け、両手を正和の両耳のそばに置いた。
そして、交互に指を鳴らす。
正和の意識の中に、規則正しく揺れる振り子のイメージを作り出す。
「……貴方に、力をあげるわ。不安に打ち克って、目的を果たすための強い意志の力」
囁く声は、染み入るようにして正和の脳裏に吸収されていく。
「……貴方なら出来る。自分の願いを、叶えるのよ」
少しずつ、正和の眉間によっていた皺が薄らいでいった。
呼吸も楽そうになり、玲は自分の暗示が成立した手応えを感じた。
玄関の扉が開く音が聞こえた。
美幸が帰ってきたのだろう。
「……頑張ってね。小さなヒーローさん」
玲は正和の頬に、軽く触れるだけのキスを残して、部屋を出ていった。
—
目を覚ました正和は、不思議とすっきりした気分だった。
熱はまだ三十八度前後あるようだったが、寝付く前より格段に楽になっていた。
そして、何故か胸には溢れ出さんばかりのやる気が満ち溢れていた。
自分が思い悩んでいたことが些末な問題でしかなく、なすべきことのためにただ動けばいいのだと、道筋が示されているような気がした。
—
まるで舞台の観客になったような気分で、正和は幼少期の自分の様子を眺め続けていた。
虫食いになっていた記憶が補完され、全体像が明らかになっていくのを感じる。
まるで神経衰弱の終盤のように、次々と伏せられたカードが裏返っていく。
「…………」
そこから先は、もう見るまでもなかった。
早送りのように、シーンが流れていく。
告白をする正和と、失望したような顔でそれを切り捨てる玲。
玲に暗示を解除され、ただただ混乱する正和。
泣き崩れる累。
そこから先の顛末は、玲がマンションでしてくれた説明に繋がる。
正和自身にとって最大の疑問だった箇所が、氷解した。
何故自分は、玲に想いを寄せ、告白などという真似をしたのか。
あの時の正和は、『累が本当に自分の妹だったら』と夢想していた。
もしそうであれば、彼女を守る立場として矛盾なく居られる。
そして、暗示によって背中を押されるように、願望を実現する方法を模索し、行動に移していったのだ。
つまり、『玲と結婚すれば、累は正和の妹になる』という理屈だ。
「……馬鹿だよな……。なんだってそんな考え方、しちまったんだろうな……」
玲自身のことを悪からず思っていたこともあるだろう。
累との関係を周囲に冷やかされるうちに、意固地になって累に対する想いを直視せずにいたことも影響しているかもしれない。
それにしても、あまりに滑稽な論理展開だった。
幼い子供の思い込みによる暴走と言って片付けるには、その行動はあまり多くの余波を産んでしまった。
正和は両手で自分の顔を覆う。
自分の愚かさや、いろいろな物事のすれ違い、掛け違い……そうしたあれこれを、ただただ嘆きたくなった。
自分たちはひたすら、誰かのために。大切な相手を想う気持ちのままに在ろうとしただけなのに。
脳裏によぎる、傷ついた玲の姿や、狂気に染まる累の顔。
どうしてこんなことになってしまったのか。
誰を恨んで良いのかも分からない。
このまま全てを忘れて消え去ってしまいたいとさえ思った。
「……お兄ちゃん?」
突如聞こえた声に、正和ははっとする。
立っていたのは、夕暮れの公園。
目の前には、幼い累の姿。
「……え……?」
また場面が切り替わっていた。
累が声をかけてきているということは、今の正和の姿は彼女にも見えているらしい。
「……泣いてるの?」
心配そうに眉根を寄せて、累が歩み寄ってくる。
正和は慌てて涙の滲む両目を擦り、無理矢理笑ってみせた。
「大丈夫、だよ」
「……本当?」
「あぁ、本当!」
胸中を隠して、空元気を振り絞って笑顔を作る。
きっとその行動の理由は、彼女に対する後ろめたさだった。
何も知らない累の無垢な視線に、心がチクリと痛んだ。
「……良かった。私ね、お兄ちゃんにお礼を言いたかったの」
「……お礼?なんで?」
「だって」
累は、にっこりと満面の笑みをその顔に咲かせた。
「探し物、沢山見つけてくれたから」
「…………」
「正くんがね、すっごく喜んでくれたの。だから私もすっごく嬉しくて!」
日向に咲く向日葵のような天真爛漫な笑顔に、正和は言葉を返せなかった。
「……そっか……」
きっと、この顔が見たかっただけだった。
どんな見返りも、感謝の言葉だっていらなかった。
その場に膝をついて、泣き笑いのような顔を浮かべて、累を見つめる正和。
「ごめんな……」
「……お兄ちゃん?」
とても言葉で言い尽せるような感情ではなかった。
まるで、六、七年の時間に積み重ねた過ちのツケを一挙に背負わされたような気分だった。
「俺は、こんな大事な気持ちを、ずっと忘れちまってたんだな」
累に幸せを願ってもらえるような立場ではない。
例え彼女の暗示によって、二度と目覚められない夢の中に閉じ込められてしまったとしても、文句の言い様がない。
「……でもさ」
思い出した。
自分は、累を守りたかった。
彼女が笑う顔を、誰よりそばで見ていたかった。
「まだ出来ること、あるはずだよな」
累の頭に手のひらを置く。
正和の言葉を理解できずに呆けていた累が、照れくさそうに笑った。
「……最後の探し物、手伝ってくれるの?」
正和は笑って、一つ大きく頷いた。
「もちろん。……お兄ちゃんに、任せろ」




