07
「じゃ、じゃあ……花澤さん、いくよ……?」
「あ!ちょっ……ちょっと待って!まだ……心の準備が……」
壁に手をついた状態の真菜の後ろに、正和が忍び寄る。
緊張した様子の真菜はゆっくりと深呼吸を繰り返して、よし、と声を上げた。
「いいよ、杉田くん。やって」
「……お、おう……」
しゃがみ込む正和。
その手には新品の、書き初め用の筆が握られていた。
正和はその白い毛先を、そろそろと真菜の膝裏に近づける。
先端が、白く滑らかな窪みにそっと触れる。
真菜はぴくりと体を震わせた。
「一分間ね。声を上げたら、カウントは最初からよ」
遠慮がちに筆先を上下させる正和。
スカートから伸びるすらりとした両足を凝視する訳にもいかず、何故かドアの蝶番に目線が固定されていた。
「……っ……。〜〜っ!」
身を捩らせ、おとがいを反らせてこそばゆさに耐える真菜。
噛み締めた下唇と、汗ばむ頬や額に張り付く長い髪の毛。
その様を、何故か正座の姿勢で凝視する松田。
荒くなりかける鼻息を、何とか押さえ込もうと必死だ。
「正くん、あなたのテクはそんなもの?書道歴六年の筆使いを披露するチャンスよ」
「……お袋……。ごめん……。字がうまくなるようにって習わせてくれてたのに……。何だってこんなことに……」
「ついでに言っておくと、その筆はおろしたてよ」
「……もうなんてコメントして良いのか分からん……」
一分間、全身を痙攣させながらも真菜は擽りに耐えてみせた。
勉強会も後半に差し掛かる頃には、三人共完全に意地になって際どい罰ゲームをクリアしつづけていた。
数学の学習を終えて教科が英語に移っても、未だに三人揃っての満点を達成できずにいた。
必ず誰か一人は、プレッシャーに負けて九点を出してしまう。
累の教え方が適切であるほどに、ケアレスミスをしてしまった自責の念と残りの二人に対する罪悪感が募った。
「……ごめんなさい、杉田くん、マツケンくん。次こそ……次は絶対、私も満点取るから」
息を弾ませたままテーブルについて、再びシャープペンを拾い上げる真菜。
案外彼女は負けず嫌いな性格なのかもしれない。
次のテスト。
単純なスペルミスで松田だけが満点を取り損ねた。
罰ゲームの内容は、『向かいの人にキャメルクラッチをかけられる様を、女子に凝視される(一分間)』というものだった。
うつ伏せに寝た状態の松田の背中の上に、正和がまたがる。
両手を松田の顎の下に組み、そのまま松田の上半身をエビ反らせた。
「う……ぐっ!」
柔道で鍛えられた体には、正和のプロレス技など痛くも痒くもないのだろうが、目の前に真菜と累が立って見ている。
頬を上に吊り上げられた無様な顔を、真菜と累に見下されるのは、確かにきつい罰ゲームに違いない。
「す、杉田くん!もっと思いっきりやってくれ!」
「はぁ!?ま、まさかお前、本当に!?」
一瞬ぎょっとした正和だったが、松田の顔と前に立つ二人の位置関係を確認して、その意図を理解した。
松田……。お前というやつは。
いや、ここは言うまい。
男の友情の価値とはこんなときに黙って願いを叶えてやれるかどうかにかかっている。
「そうだよな!罰ゲームなんだから、半端はよくないな!おりゃ!」
「うぐあっ!そ、そう!も……もう……少し……」
背骨が軋む痛みと引き換えに、きっといま彼の視界には素晴らしい光景が広がっているのだろう。
苦痛と屈辱と一緒に喜びを味わうと、また彼の中に妙な嗜好が根付いてしまうのではと心配にもなったが、本人がそうしろと言うのだから仕方がない。
その後一分、松田は激痛と共に絶景を味わって、とても安らかな表情でカーペットの上に横たわった。
結局罰ゲーム無しでテストをクリアできたのは、最後の最後、英文法のテストだけだった。
夜八時。
三人は8つの試験と7つの罰ゲームを乗り越え、やっと累の家を後にした。
正和と松田は十時間ぶっ続けで勉強したかのような疲弊っぷりだった。
そう考えるとこの勉強会は、果たして効率的だったのか否か……。
「……やっぱり、累になんか頼るんじゃなかったな……」
「……あまりに代償が大きすぎたような気がするよ……」
「…………」
「花澤さん?」
正和たちの愚痴に同調してくるかと思いきや、二人の先を歩く真菜の足取りは妙に軽やかだった。
「なんだか、変な時間だったけど」
髪の毛をなびかせながら、真菜は振り返り微笑む。
「楽しかったかも。私、クラスメートとこんなに変なことしたの、初めて」
「…………」
「…………」
「それにほら!最後は全員揃ってクリアできたじゃない?!私、凄く嬉しかった!」
顔を見合わせる正和と松田。
何となく、彼女の明るい表情を見ていると苦労も無駄ではなかったような気がしてくる。
「期末テストのときも、皆で勉強できるかな?」
可愛らしく上半身を傾げて、真菜は二人の顔を覗き込む。
何となく照れくさい気分になって、正和と松田は明後日の方向に顔を背けた。
「まぁ、いいんじゃない?」
「う、うん。花澤さんがそれでいいなら」
「やったっ!」
スキップしだしそうな足取りで、真菜は分譲住宅地の遊歩道を進む。
「期末は自分で頑張って勉強しておくしかないな。罰ゲーム受けなくて済むように……」
「何だか、凄くマニアックな罰ばっかりだったよね。変なアプリ作る人も居るんだね……」
「……途中で気づいたんだけどさ」
「え?何?」
真菜には聞こえないように抑えた声で、正和は切り出す。
「多分、あの罰ゲームアプリ、累の自作だ」
「……え??」
信じられないという顔で立ち止まる松田。
「じゃなきゃ、あんなに際どい内容の罰ゲーム、何度も続くはずないって」
累の言葉を思い返す。
罰ゲームは「足していない」。
彼女が作り出したアプリに、「最初から入っているもの」だった。
嘘ではないのだろうが、騙された気分だった。
「……堀江さんって、何者なの?」
「…………」
松田の呆然としたつぶやきが、妙に頭に残った。
今の累はまるで、正和の知る彼女ではないような気さえしてくる。
累の家を振り返る。
彼女が居るはずの部屋から、微かに蛍光灯の灯りが漏れていた。
後日談だが、その後三ヶ月間、三人は「ペペロンチーノ」という単語を聞くだけで赤面するという奇妙な体質に悩まされることになった。