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階段を登ると、クリーム色の鉄扉が待ち構えていた。
この学校の屋上は、下校時刻までは生徒にも解放されている。
昼食時などは弁当持参の生徒たちが出入り可能だが、定刻になると鍵がかけられる決まりだ。
「……開いてると思いますか?」
「……どうでしょう。累ちゃんの狙い次第というところでしょうか」
松田との電話の中で、施錠という言葉が出て来ていたことを考えると、手段は不明だが、累はこの扉の鍵を手にしていると思われる。
そして、先に進んだはずの正和と釘宮の姿が見えないということは、彼らはこの先にいる可能性が高い。
累の狙いが正和一人ならば、用のない二人のためにこの扉を解錠しておくとは考えづらい。
「……」
丸型のドアノブに手をかけ、涼子が玲に目配せをする。
ゆっくりと手首を捻っていくと、ノブはスルスルと回り、ラッチ部分が引っ込んだ感触があった。
意を決して、涼子が扉に体当たりをするようにして体重をかける。
重い感触と軋む音を伴って、扉は開いた。
面積的には、五十メートルプールがすっぽりと収まりそうな広さだった。
校庭で灯っている投光器の明かりで、なんとか全体を見渡すことが出来る。
涼子たちが出てきた塔屋が、東側の端。
そして、西側の終端に、その姿はあった。
「…………累」
遠く薄闇の向こうで、こちらに背を向けている人影。
生ぬるい風にポニーテールの靡かせて、何をするでもなく佇んでいる。
その後姿からは、どんな感情も読み取ることは出来ない。
ただ、眼下に広がる街の灯を眺めているような、平穏な光景だった。
彼女の左右に磔にされた、二人の姿がなければ。
「真菜ちゃん!松田!」
たまらず、涼子は走り出していた。
呼び止めようとした玲も、結局何も言わずに後を追った。
たった五十メートルの距離が、やけに遠く感じる。
視界の左右に流れるフェンスの柵を無数に追い越して、やっと累の姿が大きくなっていった。
涼子の声も二人の足音も聞こえているはずだが、累は振り向かなかった。
立ったまま両手を金網に括り付けられてぐったりと項垂れる二人の間で、ただ黙して微動だにしない。
その背中までの距離、五メートル。
自然と、涼子と玲の足は止まっていた。
「…………どういうつもりか、聞かせてもらうわよ」
一瞬、言葉を選ぶような沈黙を作った後で、涼子が詰問口調で言う。
「…………累ちゃん……」
それでも反応のない累に、戸惑いがちに言葉をかける玲。
「……返事をしなさいよ。お姉さん、アンタを心配して来てくれたのよ」
「…………」
「っていうか、杉田は?!釘宮って人と、先にここにきてたはずじゃないの?……何とか言いなさいよ!」
声を荒げつつ、足が前に進まないことに戸惑う。
累は何もしていない。
こちらも見てもいなければ、声も上げていない。
ならどうして、それ以上近づくことができないのか。
冷や汗が涼子の頬を伝う。
「…………理解に苦しむわ」
いつも通りの声だった。
感情の起伏に乏しく、声量があるわけでもないのに妙によく通る声音。
「最初のうちは、特に疑問に思うことも無かった。そんな感覚を抱くほど、他人を見ていなかったからかもしれない」
まるで演劇の一幕のように、たっぷりと間を取りながら累は語る。
「……目的のために力を尽くすほど、妨げになりそうな存在が近づいてくるばかり。これでは、進んでいるのか戻っているのか分からない」
「…………」
「ねえ、涼子?」
呼ばれ、答えようとして、声が出せないことに気づいた。
呼吸が、いつの間にか止まっているせいだった。
「私は、貴女のことを認めていたわ。自分が望む結果のために愚直に努力して、好意がある相手には明け透けにそれを言葉にして……。貴女には、感情と行動の矛盾を感じなかった」
ゆっくりと、累が振り返る。
投光器の光を浴びて、その相貌には深い影が張り付いている。
そしてその瞳に輝きはなかった。
「そして案の定、ここまでたどり着いた。だから、貴女なら分かってくれると思うの」
「……っ……」
絞り出そうとしても、声が出ない。
それどころか、その顔を見てしまってからは、指一本動かせなくなっていた。
「…………この人達は、正くんにとってマイナスとなる事態を生むばかりだわ。だから、もう要らないと思うの。貴女も、そう思うでしょ?」
ぱんっと、手のひらを打ち合わせる音がして、涼子は息を呑んだ。
息と一緒に、粘着く唾液を喉に引っ掛けて、思わず噎せ返った。
ひどく息苦しくはあったが、呼吸は戻っていた。
体も、なんとか動かせるようになっている。
「気をしっかり持ってください、涼子さん」
手のひらを重ね合わせて、玲は嗜めるように言う。
累が、初めて玲に視線を向けた。
「……まさか、貴女が出向いて来るとはね」
「予想してませんでしたか?」
「いいえ。でも、限りなく薄い可能性だと思っていたわ。一体どういう風の吹き回し?」
「……累ちゃんに、気づいて欲しいことがあって」
二人の会話を聞いて、涼子は鏡を挟んだ同一人物が言葉を交わしているかのような錯覚にとらわれた。
一般的な普通の姉妹よりもずっと類似点は少ない。
声も口調も、外見も。
にも関わらず、二人の間に何か、切り離し難い繋がりを感じずにはいられなかった。
「……貴女も、私を苦しめるの?……もう訳のわからないことを言う人は、間に合っているんだけど」
「累ちゃんのことは、私が一番良く分かるつもりです。今あなたが直面してる葛藤のことも」
「葛藤……?随分まどろっこしい言葉を使うのね。……そんなものじゃないわ。私が抱いているのは」
親指の爪を噛む累。
ボロボロになった爪の先を通り越して、指の肉にまで歯が食い込んでいた。
赤黒い血がまとわりつく指先を舐めて、小さく舌舐めずりをする。
「明確な『怒り』よ」
「…………」
取り戻したはずの体の自由がまた奪われそうになっていることに気づいて、涼子は首を振った。
今の累が放つ空気には、抗いがたい吸引力のようなものがある。
少しでも気を抜くと、魂を抜かれるように意識や感覚が吸い取られてしまいそうだ。
「……正和くんは、どこに?」
そんな累としっかり目を合わせながら、平静を保ったまま、玲は問いかける。
「一旦、貴女達とは引き離させてもらったわ。先に涼子に会っておきたかったから」
「……この学校の仕掛けは、涼子さんを試すためのものですか?」
「そういう意図もあったわ。万が一途中で脱落してしまうようなら、この隣に並んでもらうことになっていたでしょうね」
ちらりと、興味の薄い視線を真菜の方に投げる累。
「もう一つ、正くんにこの学校で過ごす人達の実態を知ってもらうのが狙い。こちらのほうがメインと言えるかも知れないわ」
「っ、さっきから、わっけわかんないこと言ってんのはどっちよ……!」
歯を食いしばるようにしながら、涼子が言葉を絞り出す。
それを聞いた累は、心底意外そうに首を傾けた。
「……分からないの?涼子」
「…………だから、ちゃんと説明しなさいって言ってんのよ!勝手に私に何か期待しといて、勝手に話進めんじゃないわよ!」
自分の趣味を理解してもらえないことを嘆くように、累は嘆息した。
「ここにたどり着くまでに見てきた光景が、この学校のほぼすべてよ。原始的な力の誇示、利己のための二面性、肥大した自意識、没頭という名の逃避、他の犠牲によって成り立つ安寧……。余計な飾りを取り払ってしまえば、他者のことなどどうでもいいと思う人達ばかりの集団よ」
「……それで?」
「害にならないなら捨て置いてもいいと思っていたのだけどね、この人達を見ていて気が変わったの」
松田と真菜をそれぞれ一瞥しながら言う。
「正くんが望むから、私は二人を正くんの友人にした。でも彼らは、正くんに利益をもたらすどころか、惑わせ、傷つけ、好意を無にした上に自分たちの幸福を敢えて遠ざけるような選択までした。距離を置いていれば勝手に自己中心的に振る舞うだけだったはずの他人が、友人関係として繋がったばかりに彼にとってマイナスに作用したのよ」
「…………」
「だから、友人なんて関係に期待するのは止めることにしたの。正くんには、この学校にいる人達の正体をよく見てもらって、もう友人を作ろうなんて気を起こさないようになってもらおうと思って」
「…………何、言ってんのよ」
当惑と怒りに声を震わせて、涼子は頭を抱える。
「……っていうか、アンタ一体二人に何をするつもりだったのよ……。こんな監禁まがいのことまでして!」
「何って、正くんと友人だった記憶を消そうとしているだけよ。流石に処置に時間がかかりそうだったから、些か強引な手段になってしまったけど」
「……何考えてんのよ!!」
悲鳴のような涼子の声が、湿気の多い空気を震わせた。
「……友達とちょっとすれ違って喧嘩したってくらいで、記憶を消す?……ズレた奴だとは思ってたけど、どういう思考回路してんのよ……!つまり何?杉田には、友達なんか一人もいらないってこと?」
「意味不明な理屈で正くんを不幸にするくらいなら、そんな存在は必要ないわ」
「正気……?……アンタ、ホントにそんなんで、杉田が幸せになれると思ってんの?!」
「思っているわ。だって、貴女がいるもの」
「……は……?」
論理展開に全くついていけず、涼子はその顔に恐怖すら浮かべる。
「貴女は、貴女だけは、正くんに無償の行為をしてくれるでしょう?正くんを愛しているんだものね。正くんのためなら、今まで自分のためにしてきた努力と同じだけの献身をしてくれるでしょう?」
「…………」
「正くんの期待と欲求を、全て叶えてあげてね。彼が苦しむような努力や労働なんて絶対にさせないで。常に彼が笑顔でいられるように、ユーモアを絶やさずに。健康を損なわず、かつ幸福感を噛み締められるような食事をお願いね。愛されていると実感できて、性的嗜好を十二分に満たすセックスをして、彼が望む人数だけ子供を産んで、将来に対する不安を感じることがないように……」
止め処無く涼子に対する要求を並べ立てる累を、二人は呆然と見つめる。
もはや、言葉も出なかった。
風は凪ぎ、吹き溜まったような暗色の雲が、どんよりと空を覆い尽くしていた。




