06
正和と松田は、つっかえながらも少しずつノートに解答を並べていく。
累の言葉通り、先に教わっていた十問の解法のどれかを当てはめれば、自然と答えを導き出すことができる問題ばかりだった。
しかし、同じレベルで理解していたはずの真菜は、ペンの進みが芳しくない。
その表情は緊張に強ばり、指先は微かに震えてさえいる。
結局、累のスマホがタイムオーバーを告げても、真菜の解答欄は八問目までしか埋まっていなかった。
「はぁ……」
「……花澤さん、やっぱり緊張しちゃった?」
「うん……。ダメね、私。時間が限られてると思うと焦っちゃって。ゆっくりならちゃんと解けそうなのに、早くしなきゃって思うと頭が真っ白になっちゃって……」
累が三人のノートを集めてスラスラと採点する。
その手つきはベテラン教師真っ青の滑らかさだった。
「正くんとマツケンくんは、全問正解ね。真菜ちゃん、バツが一つ、空欄が二つ。七点」
判決を言い渡すように言い放って、累はスマホの画面を罰ゲームアプリに切り替える。
「な、なぁ累。最初だから、大目に見てやれよ。緊張しちゃったんだよ」
累の視線が冷ややかに正和を射抜く。
「そのためのテストなのよ。緊張を乗り越えて正解を出せてこそ意味があるの。甘やかすのは、真菜ちゃんのためにならないわ」
「ぐ……」
その口調の妙な迫力に正和も黙らざるを得ない。
「いいの、杉田くん。気を使わせちゃってごめんなさい。累ちゃんの言うとおりだもん。約束は守らないと」
「……真ん中のボタンを押して」
潔く意を決して、真菜はスマホに手を伸ばす。
指先が赤いボタンをタップすると、やたら本格的なドラムロールと共に罰ゲームルーレットが回転する。
じゃん、というヒット音と共に、真菜への罰ゲームが画面に表示された。
「『……右隣の人の顔を五秒見つめて……ゆっくり”ペペロンチーノ”、と言う』?」
「……なんだこれ」
あまりに奇妙な罰ゲームの内容に、正和は顔を顰める。
これの何処が罰ゲームだというのか、彼には理解できなかった。
真菜の右隣には、松田が座っていた。
「これを、やればいいの?」
「そうよ。きっかり五秒、マツケンくんと目を合わせてからね」
「…………」
室内に充満する微妙な空気。正和は松田と首を捻る動きをシンクロさせた。
「はい、用意。……スタート」
有無を言わさぬ迫力を込めて、累がキューを出す。
正座のまま右に体を向き直させて、松田のどんぐり眼を覗き込む真菜。
松田も狼狽えながら、真菜の視線を受け止める。
「…………」
「…………」
累の右手の指がゆっくりと、一本ずつ立っていく。
人差し指、中指、薬指、小指……最後の親指が立った。
「……ペ」
「ちょ、ちょっと待って!!」
何故か、松田が茹でダコのように赤面して顔を逸した。
「中断したら、やり直しよ」
「何だよ、マツケン」
「……ご、ごめん」
両手で顔を覆って揉みほぐし、バチンと音を立てて頬を叩いてから、松田は真菜に向き直った。
「……はい、もう大丈夫」
再開。
累の合図で、見つめ合う二人。
が、今度は三秒で松田が耐えきれずに目を逸らし、崩折れた。
「何やってんだよ、マツケン!」
「……ご、ごめん、ホントごめん、なんか変なスイッチが……」
困惑する真菜。
自分が口にしようとしている言葉が、松田に異変をもたらしている理由が理解できない様子だ。
「マツケン!早くしろよ!さっさと終わらせて次教えてもらおうぜ」
「わ、分かってる!……おっけー、大丈夫。今度こそ」
再トライ。
松田は秒を追うごとに顔の赤みを悪化させつつも、何とか五秒を耐え抜いた。
「……ぺ、ペペロ……」
今度は、真菜が赤面して最後まで言い切れなかった。
「……花澤さん?」
何が起こっているのか全く分からない正和は、訝るしかない。
「ご……ごめんなさい……。何だか、そんなに深刻な顔で見られると……恥ずかしくて……」
染まった頬を両手の指先で隠してイヤイヤをするように頭を振る真菜。
頬に留まらず首筋まで赤みがさして、額にはうっすら汗が浮かんでいる。
その恥じらいの仕草に、正和の胸にも妙な感覚が芽生えていた。
「マツケンくんが無理なら、正くんが相手でもいいわ。どちらかを相手に完遂するまで不等式の講義はおあずけよ」
グラスにお茶を注ぎながら、累は涼しい顔で宣告する。
相手を正和に替えて、再度挑戦。
しっかりと目を合わせると、カウントが始まる。
顔を赤らめた真菜と正面切って見つめ合っていると……長い。
こんなに長い五秒は、いまだかつて経験したことがない。
ぷっくりと瑞々しい真菜の唇が、最初の「ペ」を発音するために、スローモーションで噤まれる。
両唇破裂音の動きが、こんなにも艶かしく、いやらしいものだとは……。
「……ぺ」
「ごめん!無理!」
自分の顔が赤くなっていることをはっきりと自覚して、顔を背けずには居られなくなった。
松田の失態を詰ったことを反省する。
「ほら!杉田くん、分かった?!」
「わ、分かった、これは……俺達にとっても地味に罰ゲームだ……」
赤らんだ顔で見つめ合っていると、そのあとに真菜の口から発せられる言葉が、とんでもなく淫靡な単語であるように思えてきてしまう。
そんな気がすると、直視に耐えられなくなってしまうのだ。
結局、その後数回チャレンジしたものの、どうしても真菜はその単語を言い切ることが出来なかった。
きっと彼女の頭の中にも、口にするのが憚られるような印象が根付いてしまったのだろう。
「仕方ないわね。初回は大目に見るわ。不等式の試験では、罰ゲームを受けないように頑張ってね」
恩赦を受けて、不等式の勉強を始める。
因数分解のときと同じく、例題を用いて問題のパターンを理解したら、その後は十五分の確認テスト。
三人は罰ゲームの恐怖から、脳をフル回転させペンを走らせる。
採点。
結果は正和と真菜が満点、松田はケアレスミスが一箇所あり、九点だった。
松田の顔が恐怖に歪む。
累は無慈悲にスマホを差し出した。
「……『左隣の人に土下座して頭を踏まれる。左隣の人が画面のセリフを読み終わるまでその姿勢をキープ』……」
「…………」
画面に表示された文面を確認して、真菜の顔から血の気が引いていく。
おそらく、彼女のキャラクターとは正反対にあるような言葉が並んでいるのだろう。
助けを求めるように累を見遣るも、ゆっくりと首を振られる。
「今度は、完璧にやりきってもらうわ」
「お、おい、累!いくらなんでもこれは悪趣味なんじゃ……」
「……納得して始めたことのはずよね。二言があるのかしら?」
「それにしても……友達同士でこんなこと!」
「最初の勢いは何処に行ったのかしら。乳頭蛇尾とはこのことね」
「何か頭文字が間違ってる気がするけど……」
「いいよ!杉田くん!間違えた僕が悪いんだ!」
松田は決意を決めた顔で、真菜の前に膝と両手をつく。
怯んで頭を振る真菜。
「ま、マツケンくん……ダメ……私、そんなこと出来ない……」
土下座される謂れもなければ恨みの欠片も持ち合わせていない友人の頭を踏みつけるなど、彼女は想像したことすら無かっただろう。
「……花澤さん。嫌だろうけど、やってくれ。男に……まして武道家に二言なんてあっちゃいけないんだ。ケジメは、つけなきゃいけない!」
男らしさの滲む松田の言葉に、正和は微かな違和感を感じる。
(もしかして、アイツちょっとやられたがってないか……?)
思いながら、おろおろと狼狽える真菜の姿に、正和もこれから目の前で繰り広げられる出来事を想像する。
人を蔑むような言葉など、絶対に口にしないはずの美少女が、男を足蹴に「させられて」罵倒の言葉を口に「させられる」光景。
(ちょっと……見てみたいかも)
「……二人とも、素質ありね」
『なんのこと?』
とぼける正和と松田の言葉が重なる。
そのタイミングの合致ぶりで、男達はお互いの胸中を完璧に分かりあった。
罰ゲームに本気で反対している人間は、真菜たった一人になっていた。
「わ……私に……その、踏んでもらえることを、光栄に……」
「声が小さいわ。もっとはっきりと罵ってあげて。これは、松田くんのための罰ゲームなのよ」
「そ、そうだよ、花澤さん。中途半端は良くない。やるなら思いっきりやって。屈辱的だけど、それが僕のやる気に繋がるように!」
「うぅ……」
真菜は、あどけない顔を歪ませて目を潤ませている。
その横顔とスラリと伸びた脚線美に、正和の脈は自然と早くなる。
黒いハイソックスに覆われた足先は、松田の後頭部に押し付けられていた。
「……わ、私に踏んでもらえることを光栄に思いなさい!この……豚っ!本当ならお前みたいな汚らわしい変態は、私に触れることなど死んでも許されないのよ!」
手の中のスマホに表示されているセリフを、半ば自棄になりながら読み上げていく真菜。
「ほら、嬉しいでしょ?豚は豚らしく、鳴いて喜びを表現してご覧なさい。あなたがいつも盗み見ていた私の足の感触はどう?」
半泣きの状態で口にする罵倒の声が、加虐と被虐の間で揺れる。
正和は腕組みした姿勢のまま、定まらない視線を室内のあちこちに彷徨わせている。
「興奮しているの?この……変態っ!」
「うぐっ……」
正和と松田が同時にうめき声を上げる。
ショックなはずなのに、不思議な余韻が胸に残る。
「へ……変態っ!変態!へんたい!」
いけない。
第三者としてこの二人の様子を見ていると、非常に特殊な趣味に目覚めてしまいそうになる。
もぞもぞと落ち着かない正和の横で、累は平然とお茶のグラスを傾けている。
恐るべきはその表情の平静さだった。
友人同士が普通ならありえない位置関係とポーズで眼の前に居るのに、一縷の動揺もない。
この少女が自分の幼馴染であることに、正和は軽い戦慄を覚えていた。
「OK。上出来よ。マツケンくん、やる気は出たかしら」
「……うん」
真菜の足がどけられても、額をカーペットに付けたままの姿勢で松田は短く答えた。
「……次は、絶対間違えないぞ!」
決意の言葉とともに顔を上げる松田。
額を赤くしたその表情は、どことなく満足げにも見えた。
正和はそれにツッコミを入れることも出来ずに、居心地悪そうに飲みたくもないお茶を口に含んだ。
「マツケン改めマゾケンね」
「ぶっ」
盛大にお茶を吹き出す正和。
「正くん、汚いわ」
「ぇほっ!げほっ……!……お、お前、いま絶対タイミング狙っただろ……」
「なんのことかしら」
柔道では自信をつけさせたと思いきや、今度は変な性癖を植え付けて、一体累は松田をどうしたいのだろうか。
いや、どうしたいなんて狙いはきっとない。
ただ単純に楽しんでいるだけなのだ。
「さあ、どんどん行きましょう。言っておくけど、目指すは全員満点。罰ゲームなしでのテストクリアよ」