49
累の視線は、いつもと何も変わらなかった。
何もかもお見通しなようでいて、何も考えていなさそうでもある瞳。
それに対して涼子は、涙を浮かべた両目を震わせながら、まるで恋する乙女のような表情で正和を見つめている。
いや、事実恋をしている乙女なのだが……。
直前の大喜利合戦が下らない内容過ぎて、覚悟をする暇がなかった。
考えてみれば、正和はつい先程、女子に告白をされたのだ。
生まれて初めての経験だった。
嬉しくない訳はない。
涼子は、負けず嫌いでおせっかい焼きな面もあるが、快活で、バイタリティに溢れていて、とても思いやりのある女の子だ。
高校一年の初夏、初めての彼女が出来るとしたら。
これから始まる夏が、眩しい青春の一ページになるであろうこと請け合いだ。
だというのに、どうしてすぐに回答が出てこないのか。
「……杉田……」
縋るような響きの涼子の声が耳に痛い。
何故だろう。
もしこの場に累がいなかったら。
きっと迷うことなく、正和は涼子と付き合う決心を口にしていただろう。
では、なぜ累がいると自分は戸惑うのか。
そのことの意味が、どうしようもなく引っかかる。
ずっと考えないようにしていた仮説。
「俺は……」
累のことが好き?
……それは多分、違う、はずだ。
彼女は、子供時代を一緒に過ごした幼馴染で。
一緒に高校に通うことになってからは、破茶目茶な言動で正和を振り回して、かつ何故か彼の望みを叶えてくれるという、行動原理の理解できない対象。
正和にとっては、好意を抱くにはあまりに計り知れない。
累本人しても、好いた惚れたなんて次元で他人を見ている気配は微塵もない。
「…………」
累を見つめ返す。
相変わらず揺らぐことのない視線。
しかしふいに、その顔にもう一つの面影が重なる。
もう一人の累。
正和はまだ、その存在について、真相を突き止めていない。
累が変わってしまった理由。
累の中にいて、時折その顔を垣間見せるもう一人の累。
そして、ここ数日正和を襲っている、過去の記憶に靄をかけられたような違和感。
それらが混然となって、正和の決断を鈍らせている。
その全てについての疑問を解消しないまま、涼子の気持ちを受け入れて良いのかどうか……。
「……ごめんね」
どんよりと曇る空の下に、ぽつりと小さな懺悔の言葉が零れる。
「……困らせるようなことして、ごめん。……杉田はさ、優しいから……はっきりとは断れないよね」
「あ……いや……」
「……わかってるよ……。私じゃ、累には勝てないって……」
「……桑島……」
「でも、いいんだ……。もしフラれたって、落ち込んだりしないよ。……杉田が後悔するくらい、もっといい女になってやるんだから」
空元気を絞り出すような言葉が、震えていた。
いつも勝ち気な彼女が見せる、臆病な一面。
それは、どんなことにでも人並み以上の努力を積み重ねて結果を勝ち取ってきた彼女の、もう一つの素顔なのかもしれなかった。
小さな膝が震えている。
その健気な姿を目の当たりにして、正和ははっとする。
(何やってんだ……俺は……)
涼子は、今目の前にいる。
勇気を振り絞って想いを伝えて、正和の返事を、胸が張り裂けそうな気持ちを抱えて待っている。
だというのに、正体すらわからない違和感に捕らわれて、黙り込んで狼狽えているなんて。
涼子に対してあまりに失礼だ。
どちらにしても、はっきりと答えを返さなければ。
「……桑島……」
「…………」
審判を待つような顔の涼子を見つめて、一度深く呼吸を済ませる。
「……俺は」
もう一度深呼吸……。
吸って、吐く。
次に酸素を吸い込んだら、それを返事と共に吐き出すと決めた。
「……俺は!」
「待って」
……その声に、正和と涼子は固まる。
二人だけの世界に、冷水をぶちまけられた気分だった。
「…………累?」
涼子の呆けたような声が、水を差した相手の名前を呼ぶ。
当人は、俯いて、自分の両肘を抱くようにして、震えていた。
「……累?…………どうしたの?」
「………………待って……」
震える声。
涼子の表情が困惑に染まる。
その声に聞き覚えのある正和は、まさか、と目を見開いた。
「…………待ってよ……。私を、置いてけぼりにしないでよ……」
そのまさか、だった。
弱々しくか細い声。
もう一人の、累の言葉だった。
「……何言ってるの……?累……何が……」
「正くん……。あれ、見てくれた……?」
涼子の問いかけを無視して、累が正和に尋ねる。
「……ああ……見たよ」
「最後まで……?」
「ああ。全部、最後まで読んだ。でも、お前が何を伝えたかったのか……」
「分からなかった……の?そんな…………」
「ちょ、ちょっと、待ってよ!何?どういうことなの?!」
全く自体の飲み込めない涼子が、叫ぶように言う。
その声に答えるように、かくり、と不自然な動きで顔を上げる累。
「……何でもないわ。気にしないで」
突然口調が元に戻る。
その顔は、人形のように虚ろな表情を浮かべて虚空を睨んでいる。
「……は?何なの……私の事馬鹿にしてるの?」
「馬鹿にナんかシていないわ……。わ、わわ、私たしわ、ワタしヲ置いていカなイデ……」
「………………」
合成音声のように、複数の声が重なって累の喉から発せられる。
隣で、涼子が身震いした気配が伝わってきた。
「りょウことツキあうノ……マさクん?それデ、マさくンがシアわセなら……ワタしハ……ワタしヲわスれテ……ワスれて……キえて……だマって」
「っ……」
あまりのことに、涼子は息を呑む。
異様としか言い様がなかった。
累の声が二つ重なり、微妙な音の高低差が不協和音を紡ぐ。
言葉の内容や口調も、まるで二人の別人の言が入り混じっているかのようだ。
視点の定まらない瞳が、小刻みに上下左右に震えている。
「……だまって……黙るのよ……黙りなさい」
やがて、無感情な累の声が、彼女の喉を支配した。
瞬き三つで、つい数秒前の、元通りの累に戻っていた。
「…………累……あなた……」
呆然と見つめる涼子と正和。
「良かったわね、涼子。正くんのこと、頼むわよ」
何事もなかったかのように、累は言い放って、校舎への入り口へと歩を進める。
「……お、おい!累?!」
恐怖にも似た困惑を振り払って、正和がその背中に呼びかける。
「そういえば……もう一つ、お願いされていたわね」
「……何?」
「待っていて。すぐに叶えてあげるから」
有無を言わさぬ迫力の籠もった言葉を残して、累は鉄扉を開き、校舎の中へ戻っていった。
「…………なんなのよ……。あれ…………」
薄気味悪そうに呟く涼子に、正和は答えを返せなかった。




