04
「はぁ?体験入部?」
翌日、朝の教室にて。正和は累からの思わぬ提案に素っ頓狂な声を上げた。
「そう。柔道部に」
「……なんでまた唐突に」
「裸絞、って技の名前に心躍らない?」
「躍らない」
いきなり際どいワードを放り込んでくる累に、正和は呆れて頬杖をつき、隣の席の真菜は頬に冷や汗を浮かべて苦笑いした。
松田は朝練に参加中らしく、鞄だけが机の横に残されていた。
「……冗談はさておき。昨日マツケンくんが部活に行く時、妙に元気がなかったのを覚えてる?」
「え?そう、だったかな?つーか、それってお前のせいなんじゃ……」
正和の指摘を完璧に無視して、累は続ける。
「気になって調べてみたの。どうやら柔道部では、毎年恒例の一年生シゴキが横行しているらしいの」
「あぁ……成程」
正和は納得する。
体育会系の中でも格闘技部では、そういう前時代的な風習が色濃く残っている所があるのだろう。
弱気な松田などは、絶好の標的にされてしまっているかもしれない。
「で、なんでよりにもよってそんな部に体験入部なんか」
「正くんは、シゴかれたくない?」
「そりゃそうだろ!時間拘束されんのが嫌で帰宅部なのに、誰が好き好んでキツい思いしにいきたがるんだよ!」
「キツいところでシゴかれるっていう響きに、心躍らない?」
「踊るらない!」
「そこで噛むのね」
「くっ……!」
「真菜ちゃんも一緒よ。いいところ見せるチャンスだと思わない?」
「……は?!」
「……え?」
「私達三人分の体験入部届けを出しておいたの。どうせなら皆でと思って」
「え、ええっ?!」
思わぬ飛び火を受けて驚きの声を上げる真菜。
投技どころか、軽く押すだけでふらついて倒れてしまいそうな頼りない痩身を縮こまらせて怯えている。
「わ、私、柔道なんて、無理だよ……」
「道着を着て正くんのを軽くシゴいてあげるだけでいいんだけど」
「話がこじれてる!しかも何かマニアック!」
顔を真っ赤にした真菜の戸惑いの視線と正和のツッコミを涼やかに受け流して、累は微笑む。
「冗談よ。真菜ちゃんは、ただ立って見ててくれればそれでいいの。全ては、マツケンくんのためよ」
「マツケンの?……なんかイマイチよくわかんねぇけど……」
その時、道着を肩にかけた松田が教室に戻ってきた。
リストラを告げられたサラリーマンのように肩を落として、足に鎖を繋がれた奴隷のような足取りで自席に近づいてくる。
「よぉ、マツケン。朝練終わったのか?」
「……あ、うん……。おはよう、杉田くん」
答える声にもハリがない。
朝っぱらから相当こっぴどく絞られたと見える。
「あぁ……ど、どうしよう……」
着席早々、明日地球が滅びると宣告されたような絶望のオーラを漂わせながら、松田が頭を抱えて机に突っ伏す。
「な、なんだよ、どうしたんだ?」
「……さ、財布を、忘れちゃったんだ……。先輩にジュースを買ってこいって言われたのに……」
青い顔でブルブルと巨体を震わせる松田。
頼もしそうな体つきの彼がここまで怯えきっていると、周りで見ている側にまで不安が伝播していきそうだった。
「……は?んなもん、断わりゃいいだろ。パシらせる上に金も出さねぇなんて、なんつー先輩だよ」
義憤に駆られ、正和は声を荒げる。
松田は両目を潤ませて、口をへの字に歪ませた。
「うぅ……。でも……これでジュースを持っていかなかったら……僕は……」
恐らく、正和の言う正論が通用するような相手ではないのだろう。
従わなければ更なるシゴキとイジメの集中砲火を浴びるに違いない。
死刑宣告を受けた受刑者もかくやという様子の松田を見て、真菜が意を決したように鞄のポケットに手を伸ばす。
「……マツケンくん」
「……え?」
眼前に差し出された千円札に、真っ赤になった両目を丸くする松田。
「これ、使って。返すのは、いつでもいいから」
「…………花澤さん……。でも……」
「気にしなくていいから。急いだ方がいいんでしょう?」
その優しい声と微笑みに、松田の表情が生気を取り戻していく。
彼の視界の中で、真菜の背中に後光が指して見えているかもしれない。
「お、恩に着るよ!明日、必ず返すから!!」
二つ折りになった千円札を両手で受け取り、何度も何度も頭を下げながら松田はドタバタと教室を出ていった。
「……女の子からお金を受け取って男のご機嫌伺いに行くなんて、いよいよケツマン太郎ね」
「……お前、マジ容赦ねぇな」
「まあ、心優しい彼があまり非道い目に合うのは見るに忍びないわね。話を戻すわ」
累は改めて正和と真菜に向き直る。
「聞く所によれば、彼、かなりの実力らしいのよ。中学校では全国大会に出場しているって話よ」
「そうなのか?」
「でもあの通りメンタルが杏仁豆腐だから、実力を発揮する前に潰されそうになっている……」
「絹ごしよりも脆そうで甘っちょろそうだな……」
「せっかくの才能が上級生の横暴に潰されるなんて、間違ってるわ。ねぇ、何とかしてあげたいと思わない?」
突然真剣な声音で問いかけられて、正和は少し驚く。
昨日下校時の会話を思い出す。
「だ、だからって、俺たち三人で体験入部にいって、何ができるってんだよ?」
「簡単よ。マツケンくんの腕は確かなんだから。私に作戦があるの」
正和の席の上に数枚のルーズリーフが広げられ、累の作戦の概要が説明された。
「……上手くいくかな?」
ただ事の成り行きを見守っているだけでいいと言われた真菜が、眉根を寄せて心配そうに呟く。
「正くんがしくじらなければ大丈夫よ」
「地味に責任重大だな……」
「有望な柔道家の未来のためよ。頑張りましょう」
累の言葉に、正和と真菜は小さく頷いた。
放課後。
ホームルーム終了と同時に部活へと急ぐ松田の後を追うように、三人は柔道場へと向かった。
敷地の最北端にひっそりと佇むその別棟は、縁のなければ三年間一度も足を踏み入れることもなく高校生活を終える場合もある。
特に累や真菜のような女生徒は、余程特殊な事情がない限り近づくこともないような場所だった。
渡り廊下を進んで近づいていくと、気合のこもった掛け声や、畳を叩く音が漏れ聞こえてきた。
特に緊張する様子もなく、累はスタスタと歩を進めてスライド式の鉄扉を開け放つ。
場内の視線が累に集まった。
「ああ、堀江さん!いらっしゃい!」
よく通る声で彼女を呼んだのは、ベリーショートヘアの生徒だった。
骨太で筋肉質で、シルエットだけを見ると男子のようだが、妙に甲高いその声と、道着の下に白いTシャツを着ていることで辛うじて女生徒だと判断できた。
歓迎の笑顔を浮かべながら、累のそばに駆け寄ってくる。
「女子部長の釘宮さん」
簡潔に紹介する累の言葉に、正和と真菜は小さく会釈した。
「三人も体験入部に来てくれるなんて、驚いたわ。しかも女子が二人も!」
胸の前で両手を合わせてぴょんぴょんと跳ねる釘宮の様子を、真菜は複雑な笑顔を浮かべて見遣る。
この純朴そうな女子部長をぬか喜びさせてしまうことに後ろめたさを隠しきれない様子だった。
「兎に角入って。貸出用の道着を洗っておいたから、まずは更衣室で着替えてきて下さい」
正和が累に軽く目配せをする。
累が小さく頷いた。
「おーい!マツケーン!」
「あ、あれ?杉田くん……」
奥の畳の上で柔軟体操をしていた松田が、驚いて顔を上げる。
「ちょっと来てくれー!道着って、どうやって着るんだー?!」
大声で松田を呼ぶ正和に、十人前後の部員から訝しげな視線が飛ぶ。
最奥部に陣取って腕組みしている巨漢の男は、苛立ちを隠そうともせずに睨みつけてくる。
態度からして、部長なのかもしれない。
しかし、正和は空気の読めない体験入部員を装って松田を呼び続ける。
松田は肩を縮こまらせながら他の部員たちに頭を下げ下げ、正和のそばに駆け寄る。
「す、杉田くん、どうしてここに?道着って……どうして?」
「いやー、お前が毎日頑張ってるって聞いてさー。俺もちょっと触発されたんだよ。このズボンみたいなのって、下にパンツ履いたままで良いのか?」
「ちょ、ちょっと、とりあえず更衣室!こっち来て!」
道着を広げてしげしげと眺める正和の手を引いて、松田は入り口そばにある引き戸の中へ連れ込む。
「ご、ごめん、杉田くん。体験入部に来てくれたのは凄く嬉しいんだけど、今すごく部の雰囲気がピリピリしてるから、ちょっと相手してあげられるかどうか……」
「あー、なんかすっげー険悪なムードだったな……」
更衣室内の汗とカビの混じり合ったような匂いに顔を顰めながら、正和はしかつめらしく頷く。
「特にあの奥の筋肉ダルマみたいなの。ボスゴリラみたいな……」
「ぶ、部長の石塚さんだよ。杉田くん、失礼なこと言わないでね!体験入部でも何されるかわからないよ?」
「そんなにヤバい奴なのか?」
「ヤバいなんてもんじゃないよ!一年生はみんな一回は絞め落とされてる!」
「松田ー!!サボってんじゃねぇー!!」
更衣室の壁をビリビリと震わせるような胴間声が道場から響き渡る。
松田は弾かれたように背筋を伸ばして、同じく大声で返事をする。
「は、はいっ!!すぐ戻ります!!」
「……お前がビビってる相手って、あの部長なんだな?」
「そ、そうだよ!早く戻らなきゃ……」
「そんなに震え上がんなきゃならないような相手にも見えないけどな。お前だって柔道、相当強いんだろ?」
「あの人は三年生で、しかも全国大会の常連なんだよ!逆らったら骨の一本じゃ済まない!」
ふいに、正和は松田を睨みつける。
松田の反応も含めて、すべては累の脚本通りだった。
「いいのかよ。歳が上ってだけであんなゴリラに威張り散らされて。悔しくねーのかよ?」
「そ、そんなこと言ったって……」
「女に金借りてまでパシらされて、情けねぇなぁ。あんな野郎、投げ飛ばして黙らしちまえよ」
「そんなこと出来るわけ……」
「やってみなきゃわかんねーだろ!ビシっと見返してやんなきゃ、この先何ヶ月もやられっぱなしになるんだぞ」
松田の泣きそうな顔が強張る。正和はすかさず畳み掛ける。
「累が調べたんだよ。あの人、お前の寝技を警戒してるらしい。投げに拘って雑に仕掛けてきたら、返してやるんだ。できるよな?」
「ぼ、僕、別に寝技なんて得意じゃ……」
「いいから!実戦形式の練習になったら、お前からあのゴリラに挑んでいけ。……花澤さんも見てるからな」
「花澤さんは関係……!」
「また彼女の前で卑猥なあだ名で呼ばれたいのか?」
「…………」
「ほら、行くぞ」
「す、杉田くん!それ帯の締め方めちゃくちゃ……」
「すんませーん、お待たせしましたー!」
今度は正和は松田の手を引いて、道場に戻る。
松田はまたしても巨体を縮こまらせながら、畳の上に戻って柔軟を再開した。
釘宮のそばで、道着に着替えた累が何やら耳打ちをしている。
あちらも何やら根回しをしているらしい。
「……杉田くん。どうだった?」
同じく道着に着替えた真菜が、正和に歩み寄ってくる。
ウエストが細すぎるのか帯がかなり余っていた。
「言われたとおりにハッパはかけたけど……。こんなんで上手くいくのかな?」
不安げに黙り込む真菜の隣に、ポニーテールを揺らしながら跳ねるような足取りで戻ってくる累。
「正くん、胸元開けすぎ。イタリア人じゃないんだから」
「……着方がよくわかんねんだよ」
正和の鎖骨あたりを直視してしまった真菜が、軽く赤面して視線を逸らす。
正和もとりあえずいそいそと胸元を正した。
「で、どーすりゃいいんだよ。このあと」
「石塚さんと釘宮さんにお願いして、投げのデモンストレーションと練習試合を見せてもらえることになったわ。まずはじっくり見させてもらいましょう」
石塚部長がドスの利いた声で号令をかけると、畳の上に散らばっていた部員たちが板の間に正座して並んだ。
まるで軍隊のようだ。
男子部員は松田と部長を含めて十二名。部の方針なのか、全員洒落っ気のない短髪で揃えている。
女子は釘宮一人のようだ。
正和たち三人は部員たちとは少し離れた所に腰を降ろす。
「真菜ちゃん。出来るだけ熱心に見学して。技が決まったら拍手して」
「う、うん……」
畳の中央に石塚が陣取る。
部員を一人ずつ順に自分の手元に呼び寄せては、凄まじい切れ味の投技を披露していく石塚。
その迫力たるや、投げられた部員の体が畳に叩きつけられる振動が伝わってくるほどだった。
受け身に失敗して痛みに蹲る部員を叱咤の言葉とともに蹴り飛ばしたりと、さながら畳上の暴君といった振る舞いだ。
相手が女子部員の釘宮でも容赦はない。
松田などは一本背負いを食らって涙目になっていた。
「次!試合形式!」
部員たちを三巡、投げ飛ばしまくって満足したのか、石塚は板の間にどっかりとあぐらを組んで座り込んだ。
「一年、関!結城!前へ!」
名前を呼ばれた男子部員が、歯切れよく返事をして畳の上に上がる。
ピンと張りつめた空気の中、石塚の合図で試合が始まった。
組み合う男子部員二人。気合の声が飛び交い、二人はほぼ互角の渡り合いを披露してみせた。
しかし一瞬の隙をついて、関の体落としが決まる。
石塚が一本を宣言すると、二人はお互いに礼をして、畳から降りる。
投げられた結城は駆け足で道場の外へ出ていった。
多分、ペナルティとして外周でも走らされるのだろう。
累に肘で突付かれて、真菜がはっとする。
ぱちぱちという拍手の音が道場内に響いた。
「次!一年、三木!二年、子安!前へ!」
入れ替わりで、次の二人組が畳に上がる。
二人とも、ちらちらと横目で真菜を盗み見ている。
普段ほとんど女っ気のない部に所属する思春期の男子としては、意識するなという方が難しいだろう。
試合が始まって間もなく、二年の子安が背負投を決め、そのあと押さえ込みで勝負を決めた。
累にけしかけられた真菜が「すごーーい」と声を上げてまた拍手する。
三木は悔しそうに道場を出ていった。
数組が試合を終え、松田の出番が来る。
相手に指名されたのは、同じ一年の保志という部員だった。
松田は開始間もなく、豪快な内股を決めて一本勝ちを収めた。
累と真菜が揃って拍手を送る。
「……次。二年、石田。子安、審判やれ」
「は、はい!」
石塚が立ち上がり、指名した相手と畳の上で向かい合う。
石田と呼ばれた部員もがっちりとした体格の持ち主だが、石塚と向かい合うと一回り小さく見える。
身長差は軽く十センチ以上ある。
開始の合図。
お互い歩み寄って組み合うが、石田は襟を掴まれまいと石塚の手を払う。
「……ふん」
小さく鼻で笑う石塚。
左手で袖を引き寄せると、石田はあっさりと重心をずらされてたたらを踏む。
奥襟に伸ばそうとしていたはずの右手が、いつの間にか背中側の帯を握りしめている。
腰を支点に、石田の体がぐるりと回転する。
大腰一本。
松田の内股以上に豪快な決まりっぷりだった。
「次。二年、浪川」
「……はい」
連続で相手を指名する石塚。
一人目よりは健闘を見せたが、二十秒ほどで小内刈が決まり、またしても一本。
その後更に二人続けて二年生が石塚に挑んだものの、全て一本で仕留められてしまった。
そのあまりの迫力に、真菜は拍手も忘れて怯えている。
「情けない。毎度のことだが、練習にならんぞ」
石塚は畳の中央に仁王立ちして鼻を鳴らす。
どうやら二年は全員外周行きとなってしまったらしい。
正和がじっと松田を見遣る。
視線に気づいた松田は、小刻みに首を横に振る。
正和がちらりと真菜に目配せすると、真菜が胸の前で両手を組んで、期待に満ちた表情を作ってみせる。
「…………」
真菜の隣で、累が嘲るような冷笑を浮かべる。
三者三様のけしかけに、松田はしばしうつむいてから、やがて意を決したように顔を上げた。
「石塚部長!」
「……何だ、松田」
「……お相手、願えないでしょうか?!」
部員たちがどよめいた。
その雰囲気だけで、その申し出がどれだけ異例なことなのかが正和にも分かった。
石塚がぎろりと松田を睨みつける。
押しつぶすような無言の重圧がその場を支配した。
「……本気か?」
押し殺した石塚の声。
かすかにたじろいだ松田はしかし、一瞬真菜に視線を飛ばしてから、眦を決して頭を下げた。
「お願いします!」
普段おどおどしている彼らしからぬ、決意を滾らせた言葉だった。
石塚は眉間に深いシワを刻んだ顔のまま、道着の乱れを直した。
「……いいだろう。関、審判やれ」
正和は累に視線で、「大丈夫なのかよ」と問いかけるが、累は不敵に微笑むだけだった。
畳の中央で対峙する巨漢二人。
真菜が心配そうに眉根を寄せて固唾を呑んだ。
「始め!」
すり足で近づく松田。
石塚は両手を高く掲げて構える。
離れた場所で見ていてもかなりの威圧感だったが、松田は臆せず距離を詰め、果敢に横襟と袖を掴みにかかる。
相四つに組み合って、仕掛け合いが始まる。
柔道に詳しいわけではない正和の目にも、両者の駆け引きが高度なものであることが分かった。
知らぬ内に、両手を握りしめていた。
松田は負けていない。
ついさっきまで縮こまって恐縮していた姿が嘘のようだった。
積極的に足を飛ばし、体崩しを仕掛け、石塚を揺さぶる。
「……マツケン!頑張れ!!」
「マツケンくん!」
正和と真菜が応援の声を上げる。
石塚の表情が忌々しげに歪んだ。
石塚が強引に距離を詰め、松田の体を押し返す。
そのまま、左足を松田の足の間に滑り込ませ……。
「今よ!」
累の声が響く。
松田は刈られた右足を石塚の軸足にぶつけ、そのまま上半身を右後ろに回転させる。
巨体が畳の上に叩きつけられる音が響く。
大内刈りを仕掛けたはずの石塚が、松田の足元に横たわっていた。
見事な大内返だった。
投げられた石塚も、投げた松田も、何が起こったのか分からないという表情だった。
はっとした松田が石塚の上に覆いかぶさる。
一本を宣告されていないということは、試合は続行だ。
柔道家の反射とも言える動きで押さえ込みに入ろうとする。
「ま、待て。一本だ」
審判の関ではなく、石塚が声を上げ、松田の体を押し返す。
道場内を異様な空気が満たした。
部長である石塚が、一年の松田に負けた。
しかも、石塚があっさりと負けを認めたことが、普段の彼の傍若無人ぶりを知る部員たちにしてみれば前代未聞の出来事だったようだ。
「マ、マツケンくんの勝ち?」
真菜が累の道着の肩を掴んで聞く。
累は満足げに大きく頷いた。
「すごい!!部長さんに勝っちゃうなんて!!」
「だな……。マツケン、本当に強かったんだな……」
松田の金星も驚きだが、それ以上に正和は累の思惑通りに事が運んだ事に驚愕していた。
何やら自信満々な様子だったが、果たしてここまで期待通りになることを彼女は予測していたのだろうか?
「にしても、なんか、出来過ぎな気がするんだよな。あの石塚って人、他の人との試合の時よりちょっと動きが固かった?ような……」
「……種明かしをするとね」
訝る正和の様子に気付いてか、累がポツリと呟く。
「マツケンくんと正くんは、特殊な性癖を持つカップルだと石塚部長に伝えておいたのよ」
「…………は?」
「自分のパートナーであるマツケンくんが自分以外の男……特にマッチョなガチムチ系と、寝技で組んず解れつする姿に異常な興奮を覚える変態さんが見学に来ていると知らされて、普段通りではいられなかったんでしょうね」
「る、累……。お前何言って……」
「石塚部長!あ、ありがとうございました!」
畳の上では、感激の表情で瞳を潤ませた松田が、未だに起き上がれずにいる石塚に迫りながら感謝の言葉を繰り返していた。
「ぼ、僕、自信が持てました!部長は手加減してくれたのかもしれませんけど、今の大内返のイメージ、絶対に忘れないようにします!」
「わ、分かった。分かったから、離れろ!」
衆目も気にせず顔を引き攣らせて怯える石塚の様子に、正和はやっと累の言葉の意味を理解する。
結局石塚は、体裁も繕わずに道場から逃げ出していってしまった。
取り残された松田はひとしきりぽかんとした後、思い出したように明るい笑顔を浮かべて正和の元へ駆け寄ってきた。
「す、杉田くん!僕、やったよ!杉田くんの言うとおりにやったら、本当に勝てたんだ!」
「あ、ああ、よ、良かったな。良かった良かった」
「もう僕、どんな相手でもビビらないでちゃんと戦える気がする!杉田くんのおかげだ……!本当にありがとう!」
正和の手を握って瞳を潤ませる松田。
その様子を、何故か釘宮が頬を染めながら見つめている。
「ついでに、釘宮さんにも同じことを伝えておいたわ。彼女、BL好きらしいの」
「……なんてことを……」
かくして、正和と松田は固い友情で結ばれることとなった。
その代償としてその後数ヶ月に渡り、正和は松田との関係と自分の性癖に関する誤解を解いて回らなくてはならないこととなった。