02
県立高岡高校は、正和と累の家から徒歩十五分ほどの距離にある。
徒歩通学が可能なエリアには広い公園や市立博物館、市民ホールや美術館などが並んでおり、一帯はクリーンでアカデミックな雰囲気だ。
開放感と統一感のある景観を、正和は密かに気に入っていた。
西洋モダン風デザインの校門をくぐって、校舎を目指す。
途中クラスメイト達と軽く朝の挨拶を交わす。
男女で登校する正和たちには興味の視線が絶えない。
二人の関係を勘ぐってくるような輩も何人かいたが、面倒なのでただの幼馴染だと回答するようにしている。
下駄箱で靴を履き替えて数メートル進めば彼らが所属する一年三組だ。
挨拶とともに窓際奥から二列目まで進み、一番後ろの席に腰掛ける。
どういうめぐり合わせか、累の席は正和のすぐ前だった。
下手をすると朝起きてから家に帰り着くまで、常に累の姿を視界に入れながら過ごすことになる。
別に苦ではないが、たまにツッコみ疲れる日もある。
何となく、隣に累がいることで、正和はクラス内の同性グループに溶け込めていないような気がしていた。
友だちがいない訳ではないが、シャイな年頃の少年たちは累の存在に気後れしてしまうのか、あまり彼に深入りしてこない。
そうこうしている間にクラス内はどんどん親交を深めていく。
目下のところの正和の悩みだった。
とりあえず、最初の授業の教科書を取り出そうと鞄のジッパーを開く。
中に、見慣れない、分厚い雑誌を見つける。
背表紙にはジューンブライド特大号の文字。
カラーページをふんだんに使ったその雑誌の表紙には、幸せそうな笑顔を浮かべてブーケを掲げているウェディングドレス姿の女性。
正和は両手でその雑誌を振りかぶり、前の席に座るポニーテール頭の上部に振り下ろす。
「重いと思ったんだよ。何入れてくれてんだ」
「……今頃気づいたの?」
「何の嫌がらせなんだよ。しかも何故ゼ○シィ?」
「物理的に重いだけじゃつまらないと思ったの」
「確かに重いけども!女がこれを、気楽な動機で使うんじゃねぇ。一生に一回の超必殺技だぞ」
渋々という様子で、累は雑誌を受け取って机の中に押し込む。
「それはそうと、正くん、英語の課題やった?」
何事もなかったかのように、累が聞いてくる。
学校でその呼び方はやめてほしいと常々思っているものの、累に「やめてほしい」なんて言ったらどんなボケを返してくるか分からないので、何も言えずにいる。
正和が嫌がるところ、累の悪ノリありだ。
「あれ、課題なんてあったっけ?」
記憶を遡る。
前回の英語の授業は、何曜日だっただろうか……。
「英文の和訳だよ。やってないの?」
「あー、うん……。そんなのがあったような……やばいな。和訳とか面倒だ……。わりぃ、累、見せてくれ」
「……しょうがないなぁ」
「脱ぐな。黙ってノート出せ」
累からA4ノートを受け取り、正和はルーズリーフに内容を書き写し始める。
『Does that hurt?……それは、痛いですか?』
『You don’t have to wait anymore……もう待たなくていいんだよ』
『You can, but I’m sure it’s completely wet inside……いいけど、中はずぶぬれだと思う』
『Do you mind if I ask you to move?……ちょっと動いてくれる?』
『They fit perfectly!……サイズがぴったりだ!』
『I need two more Yukichis……あと二枚諭吉が必要です』
「……なんだこのギリギリの英文?!」
「あ、ごめん、違うノート渡しちゃった。英語のノートはこっちだった」
「じゃあこのノートは何なの?!」
「ちなみに英語の課題なんてなかったから、安心して」
「……何だったんだこの時間」
全く実りのないやり取りの末、教室に担任が登場し、朝のショートホームルームが始まった。
「えーーー、今日は転校生を紹介します」
初老の担任教師、谷村の読経のような声が教室に響く。
発音は平板だが、言っている内容はかなりの大ニュースだった。
教室内にどよめきが満ちる。
「……随分中途半端な時期だな」
「物語の都合上登場する転校生なんて、そんなものじゃない?」
「あー、まあなぁ……。……物語?」
前の席の累と、ヒソヒソと話す。
「……ところで、正くん。私、転校生が誰なのか、心あたりがあるんだけど」
「……お前も?実は俺も」
「では、入ってきてくださーい」
谷村の声に応じて、教壇側の引き戸を開いて教室に入ってきたのは、見覚えのある制服姿の彼女だった。
「やっぱり」
正和は複雑な表情で頬杖をつく。
「……主人公と登校中にぶつかって、パンツを見せつけてくる女はほぼ間違いなく転校生の法則。また一つサンプルが増えたわ」
「そういうコメントも、もはやありがちだな」
「どうせ、席は主人公の隣よ」
言って、累は自分の左斜め後ろを指差す。
「うーん、このレイアウトだと、そうなるのが自然なんだろうけど……。ってか、主人公って何?」
二人のやり取りを尻目に、並木道で正和と衝突した女の子はゆっくりと登壇する。
谷村がチョークを拾い上げて、黒板に大きく『花澤真菜』と書く。
「初めまして。花澤真菜、といいます。今日からこの学校に転入ということになりました。よろしくお願いします」
か細い声で極めて無難な自己紹介を済ませた痩身の少女――真菜は、体の前で両手を重ねて深々とお辞儀をする。
パラパラと拍手が起こった。
男子たちは表面上興味がないという素振りで、女子たちは「かわいー!」とか「ほっそーい!」とか「縞パンとかあざとーい」とか声を上げる。
最後のはもちろん累だ。正和は一応その後頭部を軽く叩いておく。
「席は、この列の一番後ろにしましょう。杉田。悪いけど空き教室から机と椅子持ってきてくれ」
「あ、はい」
累の予想通りとなった。
一年三組は三十五人のクラスだったので、窓際の一番後ろ、つまり正和の左隣が一つ空きスペースになっている。
正和は教室の後ろ側の引き戸から廊下に出て、二つ隣の空き教室から机と椅子を運び込む。
「ありがとうございます」
窓際の一番後ろで自分の席が用意されるのを待っていた真菜は、少し緊張気味な声で正和に礼を言ってからその席に腰掛けた。
どうやら、朝にぶつかった相手が隣に座っていることには、気付いていないようだった。
「杉田、堀江、松田。花澤さんが困っていたら、助けてあげるように」
言い残して、谷村は教室を出ていった。
真菜の前の席に座る大柄な男子生徒が後ろを振り返る。
タワシのような短髪頭を掻き掻き、照れくさそうに言う。
「僕、松田健太郎。よろしく。何でも遠慮なく言ってね」
柔道部に所属している松田は、百八十センチオーバーの巨体の割に物腰が柔らかく、人当たりと面倒見のいい男だ。
真菜はその威圧感に少し気圧されつつも、礼を言って軽く頭を下げる。
「……松田君、下の名前健太郎っていうのね」
転校生よりも何故かそっちに食いつく累。
「えぇ?!ひどいよ堀江さん!もう一ヶ月以上も隣に座ってるのに!フルネームくらい覚えてて欲しいな!」
最もな抗議だが、その口調はちょっと弱々しくなよついている。
仕草も妙にくねくねしていて中性的だ。
「まつだけんたろう」
「そう!覚えてくれた?」
「頭文字を入れ替えると、けつだまんたろう」
「……」
絶句する松田と真菜。
朝っぱらからクラスメイトの女生徒の口から聞くには、ちょっとパンチの効いた響きだ。
「うん、何だか急に仲良くなれそうな気がしてきた」
「そ、そう?なんだかちょっと、複雑だけど……」
「改めてよろしくね、ケツだマン太郎くん」
「……文字変換に悪意があるぞ」
慌ててツッコむ正和。
彼の知る限り、累が正和以外にこういう絡み方をするのは初めてだった。
転校生を前にしてはしゃいでいるのだろうか?
「……ごめん、花澤さん。こいつ、実はちょっと変なやつでさ」
妙な空気を持ち直そうと、フォローに入る正和。
「は、はぁ……お、面白い方なんですね」
少し顔をひきつらせながらも、真菜も笑って場をとりなそうとする。
「そうね。一見ありふれているようで、ちょっといじっただけでこんなに卑猥な感じになるなんて、面白いわ」
名前を卑猥呼ばわりされた松田が固まる。
隣の女生徒の突然の豹変に、頭がついてきていないらしい。
「そっちじゃなくて。お前のこと言ってんの」
「あだ名はケツマン太郎でどうかしら」
「もう伏せ字が必要なんじゃないか……それ」
慣れている正和でも引いてしまうほどの遠慮のなさだった。
いくら温厚な松田でもあまりに失礼が過ぎる。
席が近い松田とはおいおい仲良くなっていけるだろうと期待していたのに……。
というか、柔道部の男子相手にどれだけ攻め込むつもりなんだ。
「ま、松田。ごめん。累も悪気があるわけじゃなくて……ちょっと舞い上がってるっていうか……」
「う、うん、僕のことは、いいよ。全然、気にしてないし」
言っている内容とは裏腹に、ちょっと目が潤んでいる。
怒るかと思いきや、軽く傷ついている様子だった。
見た目に反してナイーブな奴らしい。
「ほら、僕よりも、花澤さんのことだよ」
「そ、そうそう。転校生っていう話題がブレるから。松田の名前イジりは置いといて」
なんとか話題を立て直そうとする正和を無視して、累は真菜の席に向けて体を乗り出した。
「冥王星が惑星から外されたことについて、どう思う?やっぱり危機感とか、ある?」
「……え?」
「分かりづらい」
ポニーテール頭を軽く小突いて、席に座り直させる正和。
くだらなすぎて、不覚にも少し笑ってしまっていた。
「こ、高校一年のこんな時期に転校なんて、珍しいよね。何か事情があったの?」
だいぶ強引にではあるが、松田が真菜に話を振る。
やっとまともな質問を受けた真菜は、少しほっとしたように答える。
「両親の仕事が、ちょっと特殊なんです。昔から、転校続きで」
「へぇ。なんか大変そうだね」
累が余計なことを言い出さないように視線で牽制しながら、正和は無難に会話を続ける。
「もう流石に慣れてきちゃいましたけどね」
苦笑しながら答える言葉は諦めと、少しの寂しさを滲ませていた。
どことなく人との距離を保とうとするような仕草と言葉遣いは、もしかしたら転校を続ける内に染み付いてしまった予防線のようなものなのかもしれない。
「またすぐ転校ってことになるかもしれないから、この学校にもどれだけいられるかわからないんですけど……」
両手の指先を合わせて視線を落とし、語尾を窄ませる真菜。
その様子を真剣な表情で眺めていた松田が、軽く身を乗り出す。
「花澤さん、ほんとに何でも遠慮なく言ってね!そういう事情なら、一日でも早くクラスに馴染んで、ちょっとでも多く思い出を作らなきゃ!」
累に名前をディスられたこととはまた別の理由で目を潤ませながら、同意を求めるように正和と累の顔を見遣る松田。
いかついナリをして「思い出」とは、なんともおセンチな言葉のチョイスだ。
しかし、その言には正和も手放しで同意である。
「そだな。折角席も近いんだし、困ったことがあったらすぐ俺らに相談してよ」
深く頷く松田。
累も、澄ました顔で小さく首肯した。
「……ありがとう。初日からこんないい人たちと知り合えて、嬉しい」
少し大げさに感激してみせる真菜。
この口調が少し砕けたことに気付いて、正和も悪い気はしなかった。
「じゃあ、お互いの距離を縮めるためにあだ名で呼び合いましょう」
累の提案に、松田の笑顔がピシっと音を立てて強張る。
「ケツマン太郎は決定として」
「決定しないで!」
「花澤さんは、いつもどんな風に呼ばれてた?はなちゃん?まなちゃん?」
「え、えーっと、あだ名なんて、つけられたことなかった、かなぁ」
照れた様子の真菜の反応は、あだ名で呼び合うような親しい関係に対する密かな憧れを垣間見せていた。
「堀江さん、何かいいあだ名、つけてくれない?」
松田のやられっぷりを目の当たりにしておいて、累にあだ名を考えてもらおうとするとは、中々チャレンジングだ。
真菜にしてみれば、同性の累とは特に距離を縮めたいのかも知れない。
少し考え込んだ累の横顔を、正和は祈るような気持ちで見つめる。
呼びやすくて可愛い、彼女に似合う名前をなんとか考え出して欲しい場面だ。
その一方で、半ば諦めてツッコむ準備を固める自分を自覚していた。
「はなざわまな……を、並び替えて、”ハナワ・THE・生”」
「待て。並び替えって手法を捨てろ。松田の犠牲を無駄にするな」
「えー、良いと思ったんだけど」
「大体、呼びづらいだろ。普通文字を略したり取りだしたりして、呼びやすくするもんだろ、あだ名って」
「じゃあ花澤真菜の母音だけを取って、”ああああああ”ってどうかしら」
「切り口が独特!」
「音読みすると”カタクシンサイ”」
「遊んでるだけだろ、お前」
「カタクシンサーイ!」
「気に入ってんじゃねーよ!」
結局、無難に真菜ちゃんと呼ぶことにしたらしい。
松田は必死の抗議の末、こちらも無難なマツケンという呼び名を獲得した。