01
「毎朝悪いわね、累ちゃん」
「もう慣れてますから」
「あの子、どうせまたグズグズしてたんでしょ」
「いえ、どちらかと言えば、ムクムクしてました」
「朝から下すぎんだろ」
いつも通りの食卓。
二十平米ほどのLDKは、バタートーストとコーヒーの香りに包まれている。
爽やかな朝だと言うのに、飛び交う会話はあまりに品がない。
正和はスクランブルエッグを口に放り込んでもぐもぐと咀嚼しながら、向かいに座ってカフェオレをすする少女を睨みつける。
少女の名前は堀江累。
正和の小学校時代からの幼馴染で、同じ高校に通うことになってからはちょくちょく彼を起こしにやって来ている。
正和自身別段寝起きが悪いわけではなく、七時にはちゃんと目覚ましで起きて遅刻せずに登校することが出来る。
そう知ってから累はわざわざ、六時半ごろ、彼が朝のまどろみを楽しんでいる時間に部屋に侵入してくるようになった。
眉の上でパッツンと切り揃えられた前髪と、快活な印象を与えるポニーテール。
笑顔の似合う爽やかな容姿は、普通に振る舞っていれば美少女と言っても異存はない部類なのだが……。
「あ、正くん、トーストにジャム塗っといてあげるね」
言って、焼きたての六枚切り食パンを拾い上げる。
イチゴジャムの瓶を開けて、スプーンで中身をすくい上げ、きつね色のパンの表面に塗りつける。
少々おせっかいだとは思うが、その動きに特に不審なところはない。
しかし、皿の上に戻された食パンの上には、器用に赤い文字が書かれていた。
『赤痢♡』
「……食欲失せたわ」
フォークを投げ捨てる正和。
なんで?というすっとぼけた顔を作りつつも、彼のリアクションには満足げな累。
そう、彼女はちょっと普通ではない。
どのように普通でないかは、ご覧の通りだ。
パンの表面が見えていないらしい彼の母親は、息子を嗜める。
「これ、正和。何よその態度。こんなに可愛い幼馴染が甲斐甲斐しく面倒見てくれてるのよ。贅沢だと思いなさい」
「アンタも少しは、こういう人間が息子のそばにいることに危機感を持ったらどうなんだ……」
朝っぱらから年頃の男子の部屋に上がり込んでズボンを脱がし、やれ陰部だ変形だリーサル・ウェポンだと宣う幼馴染を、どこの誰が贅沢だと感じるのか。
いや最後のは正和の言葉だが。
「ほら、正くん、早くして。モタモタしてると私まで遅刻しちゃうわ」
「人の食欲を粉々に粉砕したのは誰だ……」
ダイニングチェアの背もたれにぐったりと寄りかかってボヤく正和。
入学以来累には振り回されっぱなしだ。特に睡眠や食に対しての被害が著しい。
「残るは性欲だけね」
「何が聞こえたんだお前」
「でもそこだけは、私も歯が立たないかも」
「ちょっと言葉のチョイス考えようか。話題的に」
「え、それってどういう意味?」
「……言わせんな」
うんざりしつつ食卓を離れる。
とりあえず、登校の準備を済ませなくては。
脱衣所に行って、寝間着から詰め襟に着替える。
歯を磨き、トイレを済ませる。何故かトイレットペーパーがない。
しかしそれは初めてのことではないので、もう半ば諦めていた。
「紙がいる方じゃ無かったのね」
トイレの前で、両手の人差し指にトイレットペーパーを差し込んだ累が何故か残念そうに言う。
「……せめて大小で言ってくれ」
「三大欲求コンプリート、失敗」
「さっそく仕掛けてきてたのね……」
この上排泄まで邪魔されたら敵わない。
次からはマイトイレットペーパーを持ってトイレに入ることにしようと決意しつつ、出発することにした。
玄関を出ると、期待したとおりの五月晴れ。
麗らかな陽光の中、女の子と連れ立って登校。
それだけ聞くと人も羨むリア充っぷりかもしれないが、あまりに相手が悪すぎる。
寝覚めの悪さと朝食摂取不足のせいか、肩にかけた通学カバンが酷く重く感じる。
高校一年の五月半ば。
新生活に対する不安も減っていって、楽しい学校生活に期待を膨らませていてもいい時期のはずなのに、どうしてこんなことになってしまったのか……。
マロニエが並び立つ遊歩道で、正和はちらりと隣の累を盗み見る。
揺れるポニーテールは、小学校時代から彼女のトレードマークだった。
そして、小学校時代はこんなにおかしな娘ではなかったのだ。
少し引っ込み思案なところはあったが、振る舞いは常識的だったし、下ネタなんて口が裂けても言うような女の子ではなかった。
私立中学に入学して正和とほとんど顔を合わせなかった三年間に、一体何があったというのだろうか。
「正くん?どうしたの?……私の顔、何か吹いてる?」
咄嗟の会話でこのボケっぷり。
どう考えても普通ではない。
「……何でもない」
「十代だと、ニキビっていうんじゃない?」
「俺何も言ってないよ?そんでいつから吹き出物の話?」
確かにそんなワードは頭を過ぎったものの、うまくツッコむフレーズがすぐには出てこなかった。
今のは完全に累がフォローしてくれていた。正和は口惜しさに足元の石を蹴る。
はっとする。
違う。
悔しがらなくていいはずだ。
体に染み付きつつある悪習を振り払うように頭を振る。
「きゃっ……」
十字路の塀の影から、何かが正和の右肩にぶつかる。
軽くよろめいた彼の体を、累が支える。
「あ、ご、ごめん」
飾りレンガの地面に尻餅をついた女の子を見て、正和は慌てる。
完全に前方不注意だった。
女の子は、自分の身に何が起きたのか分からないというような表情で虚空を見つめている。
見慣れない制服に身を包んだ、ロングヘアの少女だった。
年の頃は正和や累と同じくらいだが、線が細く、どこか儚げな印象を与える風貌だった。
傍らには通学用らしい鞄が落ちていて、マグネット式の蓋が開いて中からノートや書類が覗いている。
「立てますか?どこか痛めたりしてませんか?」
スカートから覗く白く細い足が、正和の不安を煽る。
手荒に扱えば折れてしまいそうな危うさが、少女の肢体にはあった。
「だ、大丈夫、です」
外見から想像するイメージ通りのか細い声で答えて、少女はゆっくりと立ち上がる。
少し怯えたような視線を正和達に向けながら鞄を拾い、スカートのお尻を軽く叩いて払う。
「ホント、ごめん。前見てなくて」
「……こちらこそ、すみませんでした」
微かに低頭して、正和の横をすり抜けていく少女。
逃げるように脇道へと駆け込んでいく背中を見送って、二人は顔を見合わせる。
「……縞々」
「……どこみてんだよ……」
ラブコメのテンプレートのような展開の中、彼女の視線が向いていた先があまりに予想通りでげんなりした。
男の正和の場合はもう反射のようなものだから仕方ないにしても、何故累まで。
「通じたってことは、見たってことね?」
「……他に言うことないのかよ……」
彼女のボケに若干の切れ味不足を感じ、正和はツッコみながらも首を傾げるのだった。




