18
精神的な動揺から立て直す暇を与えず、相手陣地から掬い上げたシャトルを手に、サーブの姿勢に入る累。
そこからは、まるで前半戦のリプレイだった。
ただし、シャトルは例外なく全て涼子の陣地、または累の陣地の外に落ちる結末に書き換えられていた。
まるで漫画のように出来すぎた猛追劇に、田村も悪い夢でも見ているかのような表情だ。
他の生徒は自分たちの試合など投げ打って、再び観戦モードに入っていた。
累の点数が涼子に迫り、一点、また一点と加算されていくごとに、歓声はその音量を高めていった。
「……トゥエンティ・オール」
今日一番の大歓声。
ついに、同点。
涼子は自陣に呆然と立ち尽くして、荒い息を吐きながら青ざめている。
「……かしい……こんなの、絶対……おかしい……。ありえない……」
うわ言のように繰り返す涼子を憐れむように見遣りながら、累はまた自分の陣地外に落ちたシャトルをラケットで掬い上げる。
「これで、いわゆるデュースとかいうやつね。二点差をつけないと勝負はつかない。そうよね?」
突然聞かれて、田村はびくりと肩を震わせた。
「え?あ、ああ、そうだね」
「了解。じゃあ、続けましょうか」
その確認が、涼子にまた地味な衝撃を与えていた。
ポイントについて完全に把握もできていないような素人を相手に、涼子は二十連続得点を許したのだ。
累からサーブが放たれる。
醒めない悪夢の只中に居るように顔を歪めながら、それでも涼子はシャトルを打ち返す。
点を取りに行くでも、姿勢を立て直すだけの滞空時間を稼ぐでもない、何とも中途半端なショットだった。
しかし、そのシャトルは累の靴のすぐ横に落ちた。
累は、ラケットを振ろうとすらしなかった。
「…………え?」
その場に居る誰もが、目を疑った。
観客たちの当惑を無視して、累は平然と足元に転がるシャトルを拾い上げて、涼子の方へと渡した。
呆気にとられる涼子の胸元に、シャトルのコルクがこつりとぶつかって落ちる。
「……さ、サービスオーバー。トゥエンティワン・トゥエンティ」
我に返った田村がポイントをコールする。
「今の……どうしたのかな、堀江さん」
言葉も忘れて見入っていた松田が、久しぶりに口を開いた。
「まさか……」
累の狙いに気づいたのは、正和ともう一人。
累と対峙する、涼子だった。
「い……いや……」
涼子の膝が震える。
これから自分が受ける仕打ちに気づいてしまった彼女は、まるで鬼か悪魔でも目の当たりにしたかのように怯え出した。
もう涼子に、勝ちをもぎ取ろうという気概は残されていなかった。
「……どうしたの?桑島さん。チャンスよ。あと一点で、貴女の勝ち」
眼前に勝利という餌をぶら下げて、より深い絶望へ引きずり込もうと手招きするような、それは魔性の囁きだった。
「ほら。サーブを打って。もしかしたら私は、空振りするかもしれない。あっさりとレシーブをミスしてネットにかけるかもしれない。そんな偶然一つで、私を下せるのよ」
「う……ぅ……」
心ここにあらずという手つきで、涼子がサーブを放つ。
よろよろと力なく飛ぶシャトルは、ネットに当たって落ちた。
落胆のため息が体育館を満たす。
「……サービスオーバー。トゥエンティワン・オール」
「……ダメじゃない。折角のチャンスを棒に振っちゃ。さあ、もう一度。今度はこっちから行くわ」
まるで幼児をあやすような口調で、累は告げる。
もう一度デュース。
累からのサーブが上がる。
ただの山なり、浅い軌道。
スマッシュを叩き込んでくださいと言わんばかりのサービスショットだ。
反射的に、涼子の右腕が上がる。
力任せに、肩を振り回すだけのスイング。
全くキレのないスマッシュの出来損ないが、明後日の方向へ飛んでいった。
もう、彼女の中の感覚はズタズタだった。
累が放ったシャトルを打ち返す度に、彼女が描くイメージと少しずつ異なる結果が訪れていた。
絶対に決まったと思ったスマッシュがアウトになり、加減を補正すればネットに引っかかり……。
やがて、何をどう打っても点が取れなくなっていた。
まるで、練習で培っていった経験を巻き戻されているかのような感覚だった。
自分が長い時間をかけて積み重ねていった自信が……何よりも自分を支えてくれるはずのものが、切り崩されて失われていく。
足元が崩れていくような絶望が、涼子を蝕んでいた。
「……アウト。トゥエンティツー・トゥエンティワン」
あと一点。
あと一点失えば負け。
その事実に、涼子の心は葛藤する。
こんな拷問のような時間が続くくらいなら、負けてしまったほうがまだマシなのではないか、という思いが過る。
「…………」
諦観に支配されかかる涼子を見て、薄っすらと笑みを浮かべていた累の顔から、表情が消える。
「……だから言ったのに。負けを認めなさいって」
氷のように冷たい声が、涼子の鼓膜に突き刺さる。
「でも、あれだけ好き放題言ったんだから、こんなもので終わると思ってもらっては困るわ」
サーブの構えを取る累。
放たれたシャトルは、ネットの中央にぶつかり、コトリと床に落ちた。
「さぁ、これでまたデュースよ。貴女のサーブ……」
「おい、累!」
突然二人の世界に割り込んだ声に、その場に居る全員が向き直る。
体育館を二分するグリーンのネットの向こうから正和は累を睨みつけていた。
「やり過ぎだっつってんだろ。桑島さん、学校来れなくなっちまうぞ」
「……それはないわ。あれだけ大見得を切ってきたのだから、この程度で心折れたりするはずないわ」
「この程度って……。見てみろ、震えてんじゃねえか……可哀想に。どーやったらバドミントンでここまでビビらせられるんだよ」
「私は普通にやっていただけよ」
「嘘つけ!さっき思いっきりわざとサーブミスしてただろうが!」
「それが私の普通なの」
「あのな!そういうのはスポーツマンシップにも反してるし……!」
そこまで会話して、違和感を覚える。
おかしい。
これだけやりとりをして、累の返答に『おかしいところがない』。
ボケも冗談も軽口もない。
この二ヶ月、毎日のように顔を合わせて会話をしてきたが、こんなことは一度もなかった。
「…………とにかく、もうやめろ。こんな悪趣味なこと、さっさと終わらせろ」
「…………」
累は青ざめた顔で立ち尽くしている涼子を一瞥した。
「……正くんが、そう言うなら」
ラケットを握っていた手をゆっくりと降ろして、累はコートの外に出る。
スコアはデュースのままだったが、もう涼子にサーブを上げるような気力がないことは誰の目にも明らかだったし、何より試合の経過でどちらが上なのかは嫌というほどはっきりしていた。
涼子は田村に連れられて保健室へ消えていった。
残りの授業時間、累は何をするでもなく、壁にもたれてクラスメイトたちの試合の様子を眺めていた。
—
その日の帰り道。
正和は累と二人帰路につきながら、今日の出来事について聞くべきか否か、思い悩んでいた。
累に覚えた違和感。
その正体が掴めずに、魚の小骨が喉につかえているような気持ち悪さが残っていた。
「……お前さ」
「何?」
意を決して、とりあえず言葉を発してみたものの、どう尋ねて良いのかが分からなかった。
何かを言いかけて黙り込む正和に、累は澄まし顔で言う。
「……言いたいことは分かっているわ」
「え?」
「『窓側あたり』と表現したことが引っかかっているのよね?四列シートの場合と五列シートの場合があるし」
「……何の話?」
「私はEカップよ」
正和の目が点になった。
完全に時間切れと自覚しながらも、一応ツッコむ。
「…………ちょっと何言ってるかよく分かんないですね」
「どちらかはっきりさせないと今夜眠れないんじゃないかと思って。……それが気になって黙っていたんじゃないの?」
「前も言ったけどさ、お前の中の俺って、どんな変態に仕上がってるの?『幼馴染のブラのサイズが気になって眠れない』って、病気だよそれ。カルテに書かれる病状」
「違うの?」
「違うの!!」
「……そう。……まぁでもそうね、正くんならDかEかなんて簡単に判別できるわよね」
「人をおっぱいマイスターみたいに言うんじゃねぇ」
「パンチラハンターに続いて新しい称号ね」
「そんなもん獲得してねぇ!」
気づけば、いつもの調子だった。
何となく気を使うのが馬鹿らしくなって、正和は直球で聞いてみることにした。
「俺が聞きたかったのは、桑島さんのことだよ」
「あのまな板チキン女がどうしたの?」
「……お前、桑島さんのこと大嫌いなんだな」
絡んで勝負を挑んでいった彼女にも責任がないわけではない。
しかしあそこまでコテンパンに打ちのめした上に、ここまでこき下ろすというのは、どうも累らしくないという思いは拭えなかった。
「こき下ろすって、素敵な響きの表現ね」
「心読まないでー」
「でも私、桑島さんのこと別に嫌いというわけじゃないわ」
「嘘つけ。じゃあなんであんな容赦ない仕打ちしたんだよ」
正和の質問に、昼食にラーメンを選んだ理由を聞かれたくらいの軽いテンションで答える累。
「正くんに色目を使ってるように見えたから」
「……はい?」
「私に突っかかってきたのも、多分私を正くんの彼女だと思ったからなんじゃないかしら?」
「…………」
「私を打ち負かして、正くんをものにしようとしてるんだと思ったら、ついムキになってしまって」
正和は耳を疑い、立ち止まった。
なんだその理由は……。
ボケることも忘れて涼子をやりこめたのは、涼子が正和に言い寄って居るように見えたから。
だからあそこまでムキになった。
(それじゃ、まるで……)
不覚にも、正和はどきりとする。
「あんな女を、正くんの彼女にするわけにはいかないのよ」
「……うん?」
微妙なニュアンスの表現に、正和は首を傾げる。
「いくら胸が洗濯板でも、童貞の男なんて色仕掛けで簡単に落ちるじゃない。穴さえ空いてれば」
「ここ二ヶ月で一等えげつない発言だな」
「きっとあの女は一回の肉体関係で彼女気取りしてくるわ。正くんはお人好しだからそれを邪険に出来ないでしょう?」
「でしょう?って言われても」
「でもきっと正くんは、すぐにそんな貧乳じゃ満足できなくなって、必ず巨乳に浮気するでしょう?」
「でしょう?って言われてもパート2」
「そんなの、お互い不幸なだけじゃない。だったら徹底的に遠ざけておいたほうが良いと思って」
「…………」
色々ツッコみたいところはある。
童貞がどうとか、色仕掛けで楽勝とか、巨乳に浮気確定とか。
一つ含まれている動かしようのない事実を含め、それらは際置いておくとして。
要するに、累は正和に近寄る女の子をふるいにかけようとした、ということになる。
何故かそのふるいの目は、胸のサイズになっているようだったが。
「……正くんには、幸せになって欲しいから」
夕暮れの遊歩道。
五、六歩先を歩く累が、さらりとそんなことを言う。
「…………」
発言の真意を聞き出したいのに、正和はその場を動けなかった。
ただただその言葉の響きだけが、耳にこびりついて離れなかった。