17
翌日の五時限目。
一年三組は体育の授業だった。
体育館を半分に仕切って、男子はバスケットボール、女子はバドミントンをやることになっていた。
午前中教室で過ごしてるときから、涼子は敵意むき出しの視線を累に送り続けていた。
累があまりにナチュラルに彼女の存在をガン無視するものだから、すぐ後ろに座っている正和はいたたまれなかった。
体育の授業が始まったら、きっと涼子はすぐに累に勝負を挑むだろう。
松田に聞いたところによると、涼子は勉強のみならずスポーツも万能で、特にラケットを用いる競技が大の得意らしい。
勉強時間が削られることを嫌って特定の部活には所属していないらしいが、複数の部からスカウトを受けるほど、彼女の運動神経は非凡なものだと噂だ。
「累さえいなきゃ、最強の文武両道委員長だったんだろうな……」
「堀江さんって、運動も凄いの?」
準備体操をしながら、正和は松田と二人で女子の様子を密かに伺う。
「……実は、よく知らない。小学校のときは超がつくほど鈍臭かったはずなんだけど」
「そうなんだ。……でも、僕さ……。何でかわかんないけど、堀江さんと一対一の勝負って、絶対したくないな。柔道だったとしても」
松田の意見には、正和も手放しで同意だった。
スポーツはもとより、チェスや将棋、トランプ、テレビゲーム、どんなジャンルでも心理的駆け引きの要素がある勝負は、累に挑む気にはならない。
一体どんな屈辱を味わわされるか、想像するだけでも怖気が走る。
「堀江累!」
そんな男子二人の意見の合致を知る由もなく、準備体操を終えるや否や、涼子はラケットを累の眼前に突き付けた。
「……何も言わなくても、わかってるわね?」
「ごめんなさい、私レズのケはないわ」
「何の話よ?!」
「あったとしても、まな板と付き合う気にはなれないわ。何だか損した気分になりそうだもの」
「ま……」
さらりと禁句を突き付けて、累は値踏みするような目で涼子の体操服の胸元を眺める。
「……見たところ、新幹線だったら窓側の席ね」
「……よく分かんないけどディスられてることだけは伝わってきたわ……」
「ちなみに私は反対側の窓側あたりよ」
「聞いてない!いいから勝負よ!」
「その胸で?」
「胸は関係ない!」
「ところで、貴女誰?」
「桑島!くーわーしーま!!」
周りにいる女子たちだけでなく、仕切りのネットを隔てた男子たちにも二人のやり取りは丸聞こえである。
男子たちの脳裏に漏れなく二つのアルファベットが浮かんでいた。
「あーあ、やっぱりこうなった……」
「なんかもう、始まる前から手玉に取られてるね」
「……累のやつ、またやりすぎなきゃ良いんだけど……」
舌戦では勝ち目がないと見たのか、涼子はコートに立って再びラケットを累に向ける。
「ごちゃごちゃ言ってないで勝負なさい!受けないなら不戦敗よ!」
「揺れんパイ?」
「……ぶち殺すわよ、この下ネタ垂れ流し女……」
「はいはい……。分かったわ。付き合ってあげる」
ため息混じりに、ネットを挟んで涼子と対峙する累。
「二十一点先取の一ゲームマッチ。サーブ権もコートも選ばせてあげる。そっちが好きに決めていいわ」
「コートはこのままでいいわ。サーブも、そちらからどうぞ」
「誰か、審判お願い」
「あ、私やる」
バドミントン部所属の田村が審判に立候補し、ポールの傍らに立つ。
「オンマイライト、桑島さん。オンマイレフト、堀江さん。桑島さんトゥサーブ、ラブ・オール、プレー!」
田村の宣言で、試合が開始される。
累と涼子が陣取るコートの他に三面のコートが用意されており、それぞれ試合や練習が行われ始めたが、ほとんど全員が二人の試合の様子に意識を奪われていた。
「……吠え面かかせてやるわ、堀江累」
不敵に微笑みながら、涼子が対角線上にサーブを放つ。
手首のスナップを効かせたラケットの扱い方は、間違いなく経験者のものだ。
「…………」
顔面当たり目掛けて飛んできたシャトルを、累は直立不動の姿勢のまま右腕の肘の先だけを動かして弾き返す。
涼子のコートの角に向けて、シャトルは大きな放物線を描いて落ちていく。
「……っ!」
バックステップの後、小さく呼気を漏らしながら、涼子は飛び上がって空中のシャトルを鋭く叩く。
猛烈な速度で、シャトルはほぼ直線の軌道を描き、累のコートの右後方の角に叩きつけられた。
累はシャトルの軌跡を目で追っただけで、ラケットを握った右腕はピクリとも動かなかった。
「ワン・ラブ」
田村が得点をコールする。
見物してた生徒たちがどよめき、涼子はニヤリと笑う。
累が返した高い軌道のショット――ロビングは、決して甘いコースではなかった。
アウトを疑って手を出すことを躊躇うほど際どい落下点を正確に狙っていた。
しかし涼子は意にも介さず、自コートのほぼ後端から累のコートのライン際へ、正確無比なスマッシュを返したのだ。
田村でさえ感心するほどの見事なフットワークとラケットさばきだった。
累は失点に動じた様子もなく、ゆっくりとシャトルを拾い上げ、涼子に返す。
「意外と鈍いのね、堀江累。そんな様子じゃ、ラブゲームで終わっちゃうわよ」
「…………」
涼子の挑発の言葉に応じることもなく、レシーブ側コートで棒立ちする累。
続けて、涼子がサーブを放つ。
累は右手の肘を折りたたんだ独特なフォームで、勢いを殺すようにシャトルをガットで受け止める。
ネットをギリギリ超えるドロップショット。
「甘い!」
その返し方を読んでいた涼子は、ネットとの距離を詰め、シャトルが自陣に入り込んだ直後にそれをほぼ真下に弾き返した。
「ツー・ラブ」
連続得点。
ラケットを口元に当てて、涼子は高笑いする。
「口ほどにもないわ、堀江累!私に二度と舐めた口をきけないように、このまま完封してあげる」
一昔前の少女スポ根漫画の悪役のような台詞回しで、涼子は累を嘲笑う。
一方の累は無言のまま、落ちたシャトルをラケットで掬い上げて、ガットの上で二、三回弾ませた後、涼子のコートへ返す。
涼子の言葉など全く耳に入っていない様子で、何やらシャトルの動きをつぶさに観察しているようだ。
その後も、涼子の連続ポイントは続いた。
少しずつラリーが長く続くようにはなっていたものの、涼子のスマッシュやドロップは容赦なく累のコートの四隅に落ちた。
「トゥエンティ・”マッチポイント”・ラブ」
気がつけば、すでにマッチポイントだった。
遠巻きに様子を伺っていた野次馬たちも、あまりに一方的な展開を見るに忍びなくなったらしく、自分たちの試合に集中し始めていた。
「本当に一点も取れないなんて、惨めね、堀江累。まあ、赤っ恥の時間もこれで終わりよ。安心しなさい」
最後のサーブ体制に入る涼子。
その表情が強張る。
開始直後と同じく棒立ち姿勢の累が、笑っていた。
不敵さも不遜さもない、何やら達成感を滲ませた笑みだった。
「あなたの負けよ、桑島さん」
「は?……状況わかってる?一方的にやられすぎておかしくなったの?」
「サーブを打ってごらんなさい。あなたのいう赤っ恥を倍返しされる覚悟があるならね」
「……ガキくさいハッタリね。痛々しいわ、今のあなた」
「ハッタリじゃなく、忠告よ。プライドを粉々にされるのが嫌なら、引き下がりなさい」
堪えきれず、涼子が笑い出す。
「最高よ。傑作だわ。幼稚園児だってそんな見え透いた脅しはしないでしょ」
「でもあなたは負けるのよ。その相手に」
「寝言は寝ていいなさい」
「……いいわ。理解出来ないなら、見せてあげる」
(何だ、このバトル漫画みたいなやりとり……)
一人心中でツッコむ正和。
ゆっくりと、累のスタンスが広がる。
試合開始からずっと棒立ちだった彼女が、初めて構えらしい構えを作る。
見るからに隙がなく、威圧感すら漂うその姿は、普段の捉えどころのない振る舞いとは真逆の気配を放つ。
しかし、涼子は臆することはない。
点差は圧倒的だ。
もう一点も落とせない累に対して、彼女は心理的にも遥かに有利な立場にいる。
だからという訳でもないだろうが、彼女が放ったサーブは若干鋭さに欠け、コースも安易だった。
緩慢な速度でネットを飛び越えたそのシャトルを、力強く打ち上げる累。
跳ね返った軌道だけを見れば、試合開始直後のロビングと大して変わらない。
しかし、インパクトの音が明らかに違った。
すぐそばで審判をしていた田村と、何か仕掛けるはずと信じていた正和だけが、その変化に気づいていた。
「これで終わり……よっ!」
まるで一ポイント目の再現のように、後方に飛び退いてジャンプスマッシュを放つ涼子。
猛スピードで累のコート右奥隅に吸い込まれていくシャトル。
勝利を確信してラケットを掲げかける涼子。
しかし、田村の声がそれを静止させた。
「アウト!」
「……えっ!?」
「サービスオーバー。ワン・トゥエンティ」
信じられないという声を上げる涼子。
彼女の感触とタイミングでは完璧なコースに決まったはずのスマッシュは、田村のコール通り、微かに横方向に逸れてラインの外側に落ちていた。
「サーブ交代ね。やるからにはさっさと済ませるわよ」
「……」
狼狽える涼子を急かしてレシーブ位置に着かせる。
累のサーブが放たれる。
特に工夫のある打球ではなかったにも関わらず、ありえないはずの自分のミスに狼狽える涼子は、それを漫然と打ち返した。
相手がネットとの間に距離を取っているのを見て、累はドロップショットを選択する。
「……っ舐めないで!」
気合の声一閃、瞬く間に前進してネットに張り付く。
二ポイント目の再現だ。
涼子がネット際ギリギリにシャトルを叩きつけ返して試合終了、のはずが。
シャトルはネットの縁にぶつかり、涼子のコートへ落ちた。
「……つ、ツー・トゥエンティ」
「……なんで……?」
またしても、過去の再現は失敗に終わった。
受け入れ難い事態の連続に、涼子は動揺を隠せない。
「どう?続ける?今ならまだ、実得点は貴女のほうが上よ。もちろん、ギブアップするからには私の勝ちになるけど」
「……馬鹿言わないで。偶然が二度続いただけで、何勝ち誇ってるのよ!」
「降りないのね?」
「当たり前でしょ!……もう油断なんかしない。全力でやって、さっさと終わらせるわ!」
「……そう。ならいいわ」
聞き分けのない子供を前にしたように、累は深いため息を漏らした。
そしてぎらりと、その瞳が輝く。
「あなたに、最高の理不尽というものを教えてあげる」