16
六時限目は、芸術の時間だった。
美術の関教諭は非常にいい加減な人で、毎月適当なお題について、自由な画材で、好きなように絵を描かせて提出させるというスタンスだった。
六月のお題はポートレートだった。
課題を出すだけ出して、関は教室の隅でうつらうつらと船を漕いでいる。
累と真菜はお互いを描きあおうと決め、まず今日は真菜がモデルになることにしたらしい。
正和は松田に「ヘラクレスっぽいポーズ」を取るよう要求して困らせながら、横目で二人の様子を伺う。
案の定、描き始めると同時に、画材一式を抱えた桑島涼子が累の元へ駆け寄ってきた。
どうやら、まずは絵心について累に挑むつもりらしい。
「堀江……さん。私も、花澤さんを一緒に描いてもいいかしら?」
「…………」
ちらりと興味の薄そうな視線を涼子に向けて、累は黙り込む。
許可するか思案しているというよりも、彼女の魂胆を見透かそうとしているような表情だった。
「私、いつもは川澄さんとペアを組んでるんだけど、今日彼女お休みだから。いいでしょ?」
「……私は構わないわ。真菜ちゃんはいい?」
「え?あ、うん……。私で良かったら」
「ありがと」
お礼もそこそこに、いそいそと累の横に椅子を運び、スケッチブックを広げる。
累が鉛筆で描こうとしているのを確認して、張り合うように同じ鉛筆を手に取る。
モデルの真菜は、椅子に座って背筋を伸ばし、膝の上で両手を合わせているポーズだ。
累が真正面から描こうとしているのに対して、涼子は右斜四十五度の位置に陣取った。
涼子が、「見ていなさい」と言いたげな不敵な笑みを正和に向ける。
正和としてはどう反応していいか分からず、ただ頭を掻くばかりだ。
涼子の隣で、累が片眉をぴくりと上げた。
「…………」
正和は、今度は累から、何かを問いかけるような視線を受ける。
正和にはそれが、「やってしまっていいか?」と尋ねているように見えた。
何故自分に許可を取るのかと苦笑しながら、肩を竦めた。
彼としては、「ほどほどに」と返したつもりだった。
累の口の端からちろりと舌が覗く。
正和はその様を見て、獲物を前にした捕食者の舌なめずりを連想した。
鉛筆を走らせる二人。
マイペースかつ淡々と描く累に対して、涼子は穴が空くほどモデルを見つめ、スケッチブックに噛みつかんばかりの勢いで芯を紙に擦りつけていく。
その涼子の鬼気迫る描画ぶりに、真菜は若干居心地悪そうに身じろぎする。
「花澤さん!動かないで!」
「ご、ごめんなさい……」
「瞬きは私が目を逸らしている間に済ませてね」
「そ、そんな……」
「口を動かさない!」
「……はい」
「返事もしなくていい!」
「…………」
一部の生徒が、教室の一角に湧き上がる異様な熱気に気づき始めた。
松田も、筋肉を強調したポーズのまま正和に囁く。
「……桑島さん、どうしたのかな?」
「何か、累に食って掛かってるみたいなんだよな」
「えー。大丈夫かな……。なんか雰囲気がぴりぴりしてるけど」
「……多分、大丈夫だろ」
フラグが立っている、と正和は感じた。
彼の予感では、涼子の絵は累の絵以上の評価を得ることは出来ない。
涼子の絵の実力について何も知らない状態でも、何故かそのことを確信できてしまった。
やがて、好奇心に耐えきれなくなった女生徒の一人が、こっそりと涼子の後ろに回り込んで彼女の手元を覗き込んだ。
「うわ……凄い……」
息を呑んで感嘆する女生徒。
釣られるように、さらに四、五人の生徒たちが涼子の絵の周りに群がる。
皆一様に目を見開いて、その出来に驚いている。
正和と松田も彼らに続く。
「す、凄い……」
「うわ、マジか……」
まるで、モノクロ写真のようだった。
コントラスト豊かな陰影の表現が真菜の黒髪と白い肌を見事に再現している。
目の中の虹彩、睫毛の一本一本まで、精緻に描き出していた。
バストアップで切り取った構図も見事だった。
視線の先に真っ白な空間を設けて、真菜の憂いある表情に視線を誘導している。
スキルと計算に裏打ちされた、完璧な出来上がりのポートレートだった。
「完成よ……」
鉛筆をぎゅっと握りしめて、涼子は宣言する。
群がっていた生徒たちは思わず拍手を送った。
満足気に笑い、得意満面の涼子は、挑むような視線を右隣の累に向ける。
ちょうど累も、鉛筆をペンケースに仕舞うところだった。
自然な流れで、近くに居た全員が累の後ろに移動する。
少し遅れて、正和と松田も続いた。
「なっ?!」
「これは……」
その絵を目の当たりにした全員に衝撃が走る。
その驚愕ぶりは、涼子の作品が見た者に与えたショックとは比べ物にならない。
「な、なに?!まさか……私より……?」
腕と足を組んで勝ち誇っていた涼子が狼狽えながら、恐る恐る累のスケッチブックを覗き込む。
「はっ…………?!」
涼子が固まる。
数秒呆然とした後で、みるみるその頬が赤く染まっていく。
「堀江累……」
「……何かしら」
「どうして……どうして、は、裸なのよっ?!」
「ええっ?!」
モデルの真菜が青ざめて立ち上がる。
涼子の言葉通り、累のスケッチブックに描かれていたのは、一糸まとわぬ真菜の姿だった。
こちらはつま先から頭まで全てを構図の中に収めており、背景にはボディビルダーのようなポーズを取る松田と、それを描く正和の姿まで描きこまれていた。
恐るべきは、その表現力だった。
制服を隙なく着込んでいるはずの真菜をモデルにどうやってここまで、というほどリアルな裸体が写し取られている。
スレンダーな肢体と、ささやかながら柔らかそうな二つの膨らみが男子生徒たちの目を奪う。
絵自体の完成度としても涼子のそれに引けを取らない出来栄えな上に、モデルの表情のアレンジが絶妙だ。
教室の真ん中で裸体を晒していることを恥じらうような真菜の微笑みが、何とも言えず官能的だ。
隣で、松田がごくりと生唾を飲み込むのが分かった。
騒ぎを聞きつけた他の生徒が類の絵目掛けて殺到する。
「だ、ダメーーーっ!」
両手で赤らんだ頬を抑えて、真菜が絶叫する。
その声に、弾かれたように松田が飛び出す。
唸りを上げる両手が、累のスケッチブックをガッチリと掴んで引き寄せる。
「な、何だよ松田!見せろよ!」
「お前らだけなんてズルいぞ!」
「う、うるさいっ!こ、こんな、こんなものっ!」
男子生徒達にもみくちゃにされながら、松田は真菜の裸体が描かれた一枚を強引にむしり取る。
ぐしゃぐしゃと丸めて抱え込むのだが、多勢に無勢、両腕を掴まれて拘束される。
手の中身を奪われそうになった瞬間、松田は大口を開け、丸めた絵を口内に放り込んだ。
「うわ、コイツ、食いやがった!」
「まだ大丈夫だ、吐かせろ、吐かせろ!!」
そのまま、松田は持ち前の怪力で男子生徒たちを振り払って、猛然と廊下の外へ駆けていった。
十数人の男子が後を追って教室を出て行く。
残されたのは女生徒たちと数人の男子生徒、そして居眠りから目覚めたらしい関教諭。
涼子の絵のことなど、完全に忘却の彼方だった。
「……な、なんて卑怯なの……堀江累!」
「卑怯?なんのことかしら」
「せ、正々堂々と絵の出来栄えで勝負しなさいよっ!」
「いつから美術の授業が勝負になったの?私はただ純粋に芸術を追求しただけよ」
「この……授業をめちゃくちゃにしておいて、いけしゃあしゃあと……!」
「優れた芸術は人を狂わせるものよ。凡人には理解できない世界の話かもしれないけど」
「ぼ、凡人、ですって……」
「というか、悪いんだけど」
「何よ!」
「……貴女、誰だったかしら」
「なっ…………!」
わなわなと、涼子の体が震える。
「な、何事ですかぁ?何か男子が少ないですけど……何が起きたんですかぁ?あとそこ、喧嘩しないー!」
不穏な空気を感じ取って、関が涼子に注意を飛ばす。
完膚なきまでにやりこめられた涼子は、憤怒に全身を震わせていたが、やがて肩を怒らせて教室を出ていった。
「あ、あれ?桑島ー?どこ行っちゃうのー?!」
オロオロと狼狽える関。
収集がつかなくなった教室の中で、正和はジト目で累を睨む。
「……やりすぎ」
「ごめんなさい。彼女の反応が面白くて、つい」
「っていうか、お前絵上手かったんだな……」
「写生で私に勝てる人なんて、いると思う?」
「……何か納得」
悪びれる様子もない累は、松田が落としていったスケッチブックを拾い上げて埃を払い、改めて鉛筆を握った。
「正くん、誰か描いて欲しい?リクエストがあれば受け付けるわ」
「……今の騒ぎの後で、言えるか」
「竹達さん?それとも戸松さん?」
「言ってねぇって」
「内田さんもなかなかよ」
「どういう基準で選んでんだよ……」
脱力した正和のツッコミに、累は意味ありげに笑うのだった。