15
六月第一週の水曜日。
その日は、中間考査の成績上位者が発表されることになっていた。
昼休みになると、一年生の教室が並ぶ廊下にはささやかな人だかりが出来ていた。
掲示板に貼り付けられたA2サイズの表を眺めては、生徒たちは喜んだり悔しがったり、羨望の声を上げたりしている。
その中でも一際生徒たちの目を引いていたのは、誰あろう堀江累の名前だった。
全教科総合第一位、数学一位、英語一位、現代文一位、古文七位、現社一位、世界史一位、物理一位。
そして英語、現代文、物理は満点だった。
「……古文、苦手なのか?」
「あんなものは老人が死ぬまでの暇つぶしでやればいいのよ。この国の毛穴に溜まった膿みたいなものだわ」
正和の質問に、あくまで冷静に独特な毒を吐く累。
「……島津先生気ぃ失っちまうぞ。まあそれでも八十九点で七位ってあたりはすげぇけど」
「それよりも、気になることがあるわ」
「ん?何だよ?」
「……総合で二位の人」
言われて、正和は表内の累の名前から少し視線を下げる。
「桑島さん?うちのクラスの女子だよな」
「ええ、桑島涼子。……何故だか知らないけど、物語の途中で死ぬ運命にありそうな名前ね」
「何言ってんだかさっぱりわからん」
「ジンクスってやつよ」
「伝わらん人には全く伝わらないな」
「気になるのは、名前だけじゃないの。ほとんどの教科で、私と同率一位か、私より二、三点低いだけの二位に居るのよ」
「……あ、ほんとだ」
桑島という女生徒の名前を表の中で追う。
英語と物理、そして古文が満点だった。
二位というだけでインパクトは薄れてしまうが、三位以下とは大差をつけた好成績であることに間違いはない。
「金魚のフンみたいにくっつかれているようで、あまり良い気はしないわね」
「相手からすりゃ、お前は目の上のタンコブだろうけどな」
「お尻に張り付いた上に私を腫れ物みたいに言うなんて、失礼な話だわ」
「ただの比喩表現だっつの」
とりとめのない会話を交わしながら、正和と累は教室の中に戻った。
角の席で、真菜が文庫本から視線を上げて、手を振ってくる。
「累ちゃん、凄いね。学年一位なんて」
「真菜ちゃんも。転校直後であれだけ取れれば大したものよ」
「私は、みんなと一緒に勉強したおかげ。累ちゃんの教え方も凄く分かりやすかったし」
正和の脳裏に勉強会と罰ゲームの記憶が蘇る。
真菜はあまり気にしていない上に「楽しかった」とまで言っていたが、正和としてはあまり繰り返したくない経験だった。
なんとなく、テストの点数と引き換えに自分の中の趣味嗜好を捻じ曲げられたような気がするのだ。
結果だけを見るなら、正和、松田、真菜の三人も、全員学年二十位以内に入っていた。
学年全体の生徒数が百二十人ということを考えると、これは驚きの成績だった。
それだけ累の教え方は的確だったし、彼女の開催する勉強会は高効率だったと言える。
試験期間中に風邪でまる二日欠席した正和でもこれだけの結果を残せたのだから、その威力は折り紙付きだ。
廊下から、松田も自席の方へ戻ってきた。
なにやら上機嫌で、スキップしだしそうな足取りの軽やかさだった。
「はーー、僕が学年十五位だなんて……。なんだか夢みたいだよ」
「マツケン、中学では成績よくなかったのか?」
「あんまり良い方ではなかったかなぁ。この高校にも、部活特待で入ったからね。推薦が決まった時点で勉強なんてほったらかして稽古ばっかりしてたし」
「ホントに柔道まっしぐらだったんだなぁ」
「だからこんなに良い点取れたのなんて初めてなんだ!もう堀江さんには感謝だよ!」
松田が受けていた罰ゲームの内容を思い出す。
彼に至っては完全に累の玩具にされている印象だった。
あの時の累の目は、純朴な柔道家の少年に大人の屈折した趣味の世界を垣間見せて、どんな反応が起こるかに胸を踊らせているようだった。
もし定期試験の度にあれが敢行されることになったら、三年後に松田はどうなってしまうやら。
ともあれ、四人は大成功に終わった中間試験の話題で盛り上がった。
教室の隅から、そんな彼らを睨みつける視線があったことに、気づかないまま。
—
「杉田くん!」
五時限目と六時限目の間の十分休み。
一人トイレに向かう正和は、廊下で後ろから呼び止められて、振り向いた。
そこに立っていたのは、ショートカットが印象的な、ボーイッシュな雰囲気の女子生徒だった。
同じ教室で見かけたことがあるということは、同級生のはずだ。
「……ええっと」
「桑島涼子。クラス委員の名前くらい、覚えておいてよ」
不機嫌そうな口調で言いながら、女生徒は正和に小走りで駆け寄ってくる。
桑島……。正和は比較的新しい記憶の中から、彼女の名前を掘り起こした。
「ああ、あの桑島さんね」
「……どの、なのか気になるけど、まあ良いわ。ちょっと今いい?」
立ち話の許可を求めつつも有無を言わさぬ迫力を視線にちらつかせて、斜めに流した前髪の下からツリ気味の双眸で射抜くように正和を見る。
涼子は女生徒の平均よりも少し身長が低い。
上目遣いされる構図なのに、表情が険しいせいで下からガンを付けられているような気分だった。
凄まれる覚えのない正和は少したじろぎながら小さく頷いた。
「……ちょっと聞きたいの。堀江累のことだけど」
「累?」
フルネームの呼び捨てに微かな敵意を感じ取りながら、正和は訝る。
「あいつがどうしたの?」
「……彼女、どんな人?」
「は?どんなって?」
ざっくりした質問に答えあぐねる。
「杉田くん、いつも一緒にいるでしょ?た、単刀直入に聞くと」
「うん」
「つ、付き合ってるの?」
「はぁ?」
素っ頓狂な声を漏らす正和。
二人の関係について勘ぐってくる同級生は彼女だけではなかったが、ほぼ初対面でわざわざそんなことを聞かれたのは初めてだった。
「何でそんなこと」
「……っいいから答えなさいよ!知ってるのよ、いつも破廉恥な話題で盛り上がってるの!」
「は、破廉恥て」
その剣幕と時代錯誤な語彙に気圧されて、当惑するしかない。
「べ、別に付き合おうが何しようが勝手だけど、校内でイチャつくのは感心しないわ!っていうか、私のクラスでそんな言動、許せない!」
私のクラスとは、なかなかインパクトのある表現だ。
クラス委員なんて雑用を押し付けられるだけの厄介な役職でしかなく、クラスを統括する権限などない認識だった。
そういった認識のズレも含めて、正和は彼女を絡みづらい相手だと思った。
(っていうか、こういう委員長タイプって、実在するんだな……)
学園モノのテンプレートから生成されたような、生真面目で融通の利かないタイプ。
幼馴染、転校生、委員長。
これにて三役揃い踏みというところか。
ズレた感心をしている正和をもう一度睨みつけて、涼子は忌々しげに歯ぎしりしてみせる。
「気に入らないのよ……。『私下ネタにも抵抗ないんですー』みたいな男に擦り寄るキャラ作りとか、そのくせ彼氏持ちで……しかも私より……成績が良いなんて!」
「……はぁ。一応言っとくと付き合ってるわけじゃないけどね」
正和の声が耳に入っていない様子で、涼子は地団駄を踏まんばかりの勢いで憤っている。
要するに、勝ち気で仕切り屋な性格の彼女にとっては、累の存在が気に食わなくてたまらないのだろう。
かといって、彼女が累に食って掛かったらどうなるか。
こういう直情的っぽい性格の人間は、きっと累の格好の餌食だろう。
きっと累だったら、まず委員長キャラの彼女が丸型のメガネをかけていないことにケチをつけるはずだ。
その後は背の低さと胸の薄さを弄り倒して……。
あまりにもありありと想像できてしまい、正和は吹き出した。
「何笑ってるのよっ!」
「……悪い。ちょっとね」
「流石あの女の彼氏ね!ムカつく!『坊主美味けりゃ袈裟まで美味い』ってこのことね!」
「いや食うなよ」
そう言えば彼女は、現代文の成績だけは上位者の圏外だった気がする。
「とにかく、一回あの女にギャフンと言わせてやらなきゃ気がすまないのよ!見てなさい。あなたの彼女、私の前にひれ伏しすさせてあげるっ!」
「噛んだな」
「きーーーーっ!」
頭から怒りの蒸気を噴射させながら、涼子は踵を返して教室に戻っていた。
「何か、漫画から出てきたみたいなやつだな……」
ぼそりと呟いて、正和は急いで用を済ませようと小走りになった。
涼子と累のやり合いは、正直ちょっと面白そうかもしれない。