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その後三人は、真菜に連れられるまま彼女のアパートを訪れた。
駅からバスに乗って十五分以上、さらにバス停から徒歩十分、学校にも駅にもアクセスは不便そうだった。
古めかしい集合住宅がひっそりと身を寄せるように並び立つその一角に、彼女の家はあった。
「えーーっと、本当に、ここ?」
松田がそう口にしてしまうのも無理はないほど、その建物は小さく、古く、見窄らしかった。
築四十年では下らないだろうその二階建ての建物は、フォークソングの中にでも登場しそうな古アパートだった。
狭い路地に面した正面にはサビの浮いた鉄扉が並び、その横にはセットのように古めかしい洗濯機が置かれている。
「二槽式洗濯機って、俺初めて見たかも……」
松田に囁く正和に、真菜は困ったような表情で笑いかける。
「狭いし、汚いところで恥ずかしいんだけど、とりあえず上がって」
滑りの悪そうな鍵穴に鍵を差し込んでドアを開く。
ぎぃと音を立てて、扉は不満げに彼らを迎え入れた。
狭い三和土には四人分の靴は入り切らなさそうだったので、松田と正和のスニーカーはドアの外に並べておくことにした。
出迎えてくれたのは板張りのダイニングキッチン。
曇りの浮いたシンクと、年代物らしい冷蔵庫。
台所には、百円ショップで買い揃えたことがまるわかりな調理器具が並んでいる。
壁際には、三つの椅子が置かれた食卓らしいテーブル。
すぐそばに化粧台が置かれていることから、この部屋の役割の多様さが伺える。
すりガラスの扉の前には足ふきマットと脱衣カゴ。
キッチンから直接ユニットバスが繋がっているというのは、一軒家ぐらしの正和の目にはとても不思議な設計に見えた。
「本当に、恥ずかしいんだけど……」
赤面してもじもじしながら、真菜は三人を奥の部屋に通す。
リビングとして使われているらしいそのスペースは、六畳程度の広さしかない。
ブラウン管テレビの存在感が凄まじいが、何より彼らの目を引いたのは、真菜のものらしい勉強机だった。
多分、彼女自身の部屋というのはこの家の中には存在しないのだろう。
小さな折りたたみ式のガラステーブルの周りに薄い座布団を並べて、三人は腰を下ろした。
「で、でも凄く綺麗に片付いてるね。収納とかも、効率が良さそうだし……」
せめてもの慰めのつもりなのか、松田は室内を見渡して褒められる箇所を探す。
「狭いから、上手く使わないと三人分の物が入り切らないの。お父さんがきれい好きで手先が器用だから、色々作ったりして工夫してくれてるの。そこの収納ボックスも、ダンボールと古くなったテーブルクロスで作ったんだよ」
恥じ入るどころか、少し誇らしげでさえある真菜の口調。
部屋ももらえずに古めかしいアパート暮らしを強いられているというのに、彼女は友人に愚痴一つ漏らさなかった。
もしこの家の有様を本当に恥だと思っているなら、こうして中に上げてくれることもなかっただろう。
松田が切なそうな、庇護欲に駆られているような、形容し難い表情を浮かべる。
けなげな真菜への想いは、一層強まったようだ。
「それで、さっきの話だけど」
背筋をぴんと伸ばした正座の姿勢で、累は切り出す。
「真菜ちゃんの考え、私は良いと思う。歌が歌える人とピアノが弾ける人なんていくらでも世の中には溢れてるから、何か差別化出来る要素が必要だと思うわ」
「……でもそれが、俺達みたいなトークってのはなぁ」
首筋を掻きながら、正和は表情を歪める。
正和自身、周りを笑わせようとして累にツッコミを入れている訳ではない。
彼が野放しにしたら累の振る舞いはただの奇行になってしまうので、フォローの意味合いが強いと思っている。
「……これは、私の持論なんだけど」
珍しく真剣な声色で、累は語り始める。
「人の心を掴むっていうのは、人の心情を理解するってことよ。相手が自分の行動からどういう感情を受け取るかを理解できれば、自然と人を惹き付けたり突き放したりする振る舞いができるようになるわ」
妙に説得力のある言葉だった。
特に累は、人を困惑させるツボを知り尽くした上で破茶目茶な言動を繰り出しているように見える。
「日常の会話でもパフォーマンスでも、同じだと思う。ただ、真菜ちゃんのご両親にそれを伝えるのは、結構難しいことなんじゃないかしら」
「え?どうして?」
累は顎に指先を当てて、分析するように目を細める。
「まず、お母さんの衣装のチョイス。失礼だけど、年齢にしては少し派手すぎだと思うわ。歌い方や声質は年齢相応なのに、自分の容姿についてはアイドル時代の感覚が払拭しきれていない印象を受けたわ」
「…………」
「お父さんの方も。彼の演奏はミスがなくてテンポも正確。でも平板よ。訴えかけてくるような表現の起伏や、歌を引き立たせようとする工夫も感じられなかった」
累以外の三人が黙り込む。
彼らが今日見た演奏の様子についてどことなく感じていた違和感を、累の言葉は的確に指摘していた。
「要するに、相手に与える印象に対する配慮が足りていないのよ。自分たちの価値観を疑っていないし、それにプライドを持ってるようにも見える。いくら問題点を見つけられても、実の娘やその友達にどうこう言われてすぐにやり方を変えるなんて、簡単にできるかしら」
「……それは、確かに……」
俯く真菜。
その横で、正和はさり気なく累の横顔を盗み見ていた。
観察眼と、見つけた問題点を指摘する語彙、更に他人の内面まで見透かす洞察力。
成績が良いのも頷ける。
彼の幼馴染は、もしかしたらある種の天才と言えるような人種なのかもしれない。
「簡単じゃないのは、何となく分かってたんだ。最近お仕事がどんどん減っていってて、事務所も転々としてるの。……二人が本当にやりたい演奏なんて全然出来てなくて、関係もぎくしゃくし始めてるんだ……」
「そうなんだ……」
「別に、お金がないことが辛いわけじゃないの。狭い家でも、私は三人で一緒に楽しく暮らせてればそれで良いと思ってた。でも……もしここでも何も結果が残せなかったら、二人の仲が今より悪化しちゃいそうで……最悪またすぐ転校なんてことに……」
「そんな!」
転校当日から真菜の境遇に同情していた松田は、真菜のその言葉に色めきだって尻を浮かせる。
「……私、折角皆と知り合えて、親切にしてもらえて、仲良くなりかけてるのに……またすぐお別れなんて……」
「堀江さん!杉田くん」
ガラステーブルを粉砕しかねない勢いで両手を叩きつけ、松田は累に向き直る。
「僕からもお願いだ!何とかしてあげて欲しい!」
縋るような視線で二人を見つめる松田。
正和は、隣りに座る累を肘で突く。
「……累。なんとかなんねぇかな?」
正和も、ただの友人にならこんな無茶は押し付けない。
彼女ならば何とか出来るような予感がするからこそだ。
「……正くんがそう言うなら。考えてみるわ」
「本当?!」
「真菜ちゃん、いくつか質問していいかしら」
「え?うん」
「……どちらかと言えば、家の中の発言力はお母さんの方が強い?」
「……うん。どうしてわかったの?」
「家の中の様子とか。掃除だけじゃなくて、お料理もお父さんがしているでしょ?」
「当たり……。え、なんで分かるの?」
「台所にあるキッチン用品がどれも地味だったから。あんなドレスを着る感覚の人が使うなら、同じ百円ショップで揃えるにしても、もっと可愛らしいデザインの品を選ぶはずでしょ?」
「すごい……。シャーロック・ホームズみたい……」
「ついでに、お母さんは関西の人ね?」
「う、うん、奈良出身」
「それは、何で分かったんだ?MCのときは、標準語で喋ってたのに」
「玄関にヒョウ柄の女物スニーカーがあったわ」
「それだけ?!」
「あんなデザインの靴を買おうとする頭のおかしい人間は、関西にしか生息してないわ」
「偏見だと思うけど……。結果当たってたね……」
「でも好都合よ。あの民族は思い通りに動かしやすそうだから」
「……関西人に何か嫌な思い出でもあるのか」
「次に二人が客前で演奏するのはいつ?」
「明日。明後日まで、同じところでやるみたい」
「……好都合ね」
鞄からルーズリーフを一枚取り出して、シャープペンを走らせる累。
どうやら何か案を思いついたらしい。
機械のように精密な動作で、紙面をどんどんと埋めていく。
「……概要を説明するわ。松田君も手伝ってね」
「もちろん!」
「それと正くん」
「ん?」
「今回も、一芝居打ってもらうわよ」
「……んなこったろうと思ったけどさ。……分かったよ」
「……みんな、ありがとう……」
目を潤ませて、真菜は三人に頭を下げる。
累の言いなりというのは少し面白くないが、友達に頼りにされるのは悪くないものだと正和は思った。