僕らの仕事に必要なのは正しい知識、丁寧な説明 1
インフォームドコンセント:治療経過や治療方針について医師より患者へ説明し、その内容について同意を得ることである。
1. 担当医
昨日から担当になった患者は80歳、男性。ステージ4の腎盂癌だ。
ステージ4とは、がんが発生した臓器からすでに遠い臓器にも転移した状態。いわゆる末期がんとも呼ばれる。転移範囲にも原発臓器にもよるが、一般的にはもはや手術はしないケースといえる。
日本は世界の中でも長寿国で、80歳の末期がん患者相手にもがん治療を行なうが、欧米ではほとんどそんなことはない。もはや十分に長生きしたと考え、抗がん剤などとの辛い格闘よりも、残された時間を有意義に使おう、というのが、社会一般の合意になっている。だから、新薬の治験結果も80歳未満のものしか出てこない。
今回担当したがん患者も、このままいけば1年あるかないかだが仕方ない。それも寿命だろう。一応、健康で体力もあるから、定石通り抗がん剤治療をためしてみる。中にはそれでがんの進行を食い止められるケースもあるが、まぁそれほど多くはない。抗がん剤を使ったところで1年たてば半数が、2年経てばその半数が、と5年生存率は1~2割程度なのだ。それぐらいなら、この1年、有意義に過ごせばいいだろう。
患者は治療を受けるといった。とはいえ、この患者への治療はそれほど大変なものにはならないはずであった。もっとも効果が高いとされている抗がん剤をまずためしてみて、効果と副作用を確認する。それで効果が大きければ治療は継続されるし、そうでない場合には、2番目のカードをきるか、ターミナルケアに移行するかしかない。これが現時点で確立された医療なのだ。
投与した結果、患者には副作用の白血球減少が起こってしまい、一ヶ月間、毎週抗がん剤をうつところが、はじめの一回しか打てなかった。効果もさほど大きくなく、進行はとまらなかった。
まぁ、ターミナルケアかな、と思い、親族に説明をしたところで、非常に煩わしい問題にぶちあたった。
家族が納得しないのだ。
特に、小生意気な孫娘。大学院生か何か知らないが、ど素人のくせに色々と聞いてくる。「放射線治療とは組み合わせないのか」だの「進行がとまらなくてもスピードが落ちているのならば、抗がん剤の量を調整して副作用とのバランスを取りつつ延命効果を狙えないのか」だの、本当にうるさい。プロトコールは確立し、それを逸脱することは普通はしない。リスクなのだ。きちんと調べた上で確立したものをそんな簡単に変更する理由などない。
「この状況でのがん治療には放射線との組み合わせは普通行ないません」といえば「それは何故か、放射線科の先生も同じ意見なのか」などと逐一聞いてくる。がんの多角的医療か何か知らないが、「緩和ケアとの連携はどうなのか」「放射線科との連携はどうなのか」とそれはもううるさい。連携ってなんだ。そんなものは主治医である僕が必要だと判断したら行なうようになってるんだ。
医療界の常識を知りもしない人間が聞きかじりの知識でこうも色々と聞いてくるのかと本当に辟易した。
「できればお孫さんの立ち会いは…」とやんわりとキーパーソンである患者の息子や娘に言ったところ、それ以降孫娘は出てこなくなった。やっと静かになった。結局、キーパーソンの息子にもやんわりと言い返され、結局は放射線科に投げることにする。こちらの抗がん剤での治療の結果はいまいちだ。後は好きにすればいい。
僕は相変わらず主治医だったけど、放射線科に投げてからはとたんに静かになった。放射線科では入院患者は取れないから、入院の面倒はこちらで見てやらないといけないのが面倒なところだ。あんな患者、もはや手のうちようもないのだから、さっさとターミナルケアに移せば良い。それが今の医療でのスタンダードな治療だろう。
僕の治療法は間違っていない。基本的に普通に受けられる一般的な治療を行なっただけだ。それを、あーだこーだと色々言ってくるようなあんな家族がいたんじゃ、患者の心象がわるくなるとか考えないのかね、今の若者は。
放射線科での治療をしばらく行ない、一時は原発部位でのがんの進行が止まっていたようだが、結局は転移した場所での進行がすすみ、全身治療となる抗がん剤の部署に戻って来た。
どうやったって、治るはずなんてない。もう一度だけ抗がん剤治療をしたものの、副作用で生死の間をさまよい、そのときは回復したが4ヶ月後には死んだ。発見からちょうど11ヶ月たった時のことだった。