第3話
「……といったからすでに数日が経つんだけど、あの例の約束はどうなった?」
「例のといいますと、どのひゃくそくでしょう、田中明ひゃん」
もごもごとぶっとく長四角の何かを咥えて返答するのはヤン。ベッドの上に寝転がって寝ながら何かを食べている。
「って、お前、それ、俺がスーパーで買った紙パック入り水ようかんじゃん! そんなに一気に食べるものではありません!」
「へ?」
紙パック入り一リットル水ようかんはヤンの胃の中へと吸い込まれていく。ヤンは非常に上機嫌そうだ。
「甘い~ 人間界は食べ物がおいしいな」
「やっすい胃袋だなぁ……そんなことより、例の子と仲良くなるっていう件はどうなったんですか」
「いやぁ、名前がわからないとねぇ、うちとしても」
お役所仕事のようにため息をつきながら、責任はあくまでそちら側にあるのですよと返してくる。お役所と違うのは姿勢が寝転がっており誠意のかけらもないところだろうか。許しがたい。
しかし、確かに名前がわからなくては現代のテクノロジーをもってしても特定するのは不可能だろう。最初に聞いて来いよと思うのだが。
「名前は、姫野《ひめの》結斗。性別は男。ゆいって呼んでねって言ってたからゆいって呼んでたけど、今はそう呼ぶと非常に怒りを買うので基本的には姫野さんと呼ぶようにしてて、趣味はネットゲームとかカードゲーム。アニメも見るけどそれはたしなむくらいらしい。とりまきがたくさんいるのが特徴でサークルの華だよ。華だけあってやっぱりきれいで男だから化粧とかしてないんだけど何故か肩付近まで伸ばしてる髪の毛も真っ黒でさらさらでさぁ。背も百六十センチくらいしかないのかな。たぶん女にも一部の男にももててるんだけど、彼自身はそういう深い関係が嫌いらしくて、色恋沙汰になるのは絶対避けてるんだって。それを俺がこれはフリだなと思って押し切ろうとした結果今のような状態になってしまった訳よ。だってあの華奢な身体といい低い身長といい、声色や話し方、どう考えても誘っているようにしか見えない。確かに俺は男かもしれない、けれども、目の前のあんなきれいな子を放っておくのは神に対して失礼だと思ったのである」
「……」
「……あの、ヤンさん、聞いてます?」
「うん、聞いてたらどこまで気持ち悪くなるかなぁと思って、野放しにしてしまったら取り返しがつかなくなってしまったというか」
悪魔に見放された男になってしまった。
「あー、うん、わかったわかった。ほとんどわかった。わかったけど、諦めない? マジでやるの?」
「や、やるよ! 大マジだよ! ゆい、あ、姫野さんをぎゃふんと言わせ──ちが、快楽堕ちさせ──いや、違うね、仲良く! そう、仲直りするんだ!」
「もうなんか色々なものが見え隠れするんですケド~……」
寝ころびつつもあきれ顔をこちらへ向けてくるヤンだが、そんなものに負けてはいられない。姿勢がうつぶせになり、あくびをしている。
お尻がぷりっとしているのも、自分好みといったところ。見せつけてくれる、こやつめ。
「ま、分かったよ。明日からね、明日から、今日はもう店仕舞い~」
ヤンはそういうと、ぱたぱたと背中の羽を羽ばたかせ、尻尾をふりふり窓の外へと出ていってしまった。絶対眠いからだと思いつつ、仕方なく自分もベッドの上へと移動する。
ヤンの残り香は、甘ったるいにおいがした。食べたものの匂いでも吸収するのだろうか。
そんなやり取りをしたのが昨日。昨日までのヤンの服装はこのままどこかで誰かに見られたら何かのコスプレだろうと思われるに違いない露出の多さや光沢のものだったが、今、家を出発しようと支度をして、一人暮らしマンションの玄関を出た俺の目の前にいるヤンは小悪魔系美少年という身なりだった。
上半身にはフードのついた黒を基調にしつつも赤のアクセントがところどころに目立つパーカー、誰に頼まれたのかしらないが、萌え袖がキュートだ。露出の少ない上半身の服と同調したかのように下半身の露出も比較的緩やか。しかし、緩やかなのは緩やかなのだが、ショートパンツプラスサイハイソックスという組み合わせゆえに、露出は少ないにも関わらず最大限の艶めかしさを醸し出している。俺はニーソ、すなわち、ニーソックスを所望していた訳だが、これはこれで相当点数は高い。萌えに満点は存在しないが、これは星4.5は固い。
などと、至極冷静に観察し続けている俺にヤンは膝蹴りをかましてこようとしたのでぎりぎりのところで意識を戻し避ける。
「うーむ、膝蹴りをしようとしてパンツが見えないのが、ショートパンツの強みだよね」
「……いいから早く行こうよ……」
いい加減ヤンも俺のおしゃべりに対していちいち気持ち悪いとツッコミを入れるのが飽きてしまったのだろうか。これからは少し控えめにしないとあの冷ややかボイスが聞けなくなってしまう。一度慣れをなくす方向に動いた方がいいかもしれない。
「あ、ワンポイントアドバイスとして、フードに何型でもいいから耳がついているとよくない?」
「そうだね」
隣を歩く子の反応の薄さに泣きつつも、大学へ到着する。自宅からほとんど離れておらず、徒歩で移動できる距離にあるのが強みだ。
「それで、ターゲットの子は? えーっと、ゆいゆい」
「いや、ゆいだから。そんなフレンドリーにいけないから」
講義棟で、今日講義がある科目の教室に入る。三年生ともなると、人によっては取りのがしてしまった科目を取りなおしたり、選択の教科が増えてきたりするが、今日この日はたまたまた姫野さんと同じ講義があった。
俺は教室の比較的端の方に陣取っている姫野さんを見つける。いつものように、周りには何人かのオタク友達(男)が取り囲むようにして陣取っているのが確認できる。姫野さん自身はそこまで目立つのは嫌──といっても本人談なので本当に目立ちたくないのかは不明だが──らしく、基本的に、端の方で自分を慕ってくれる人数人と講義を受けていることが多い。部内はホームなのでわりと大きな顔をしていたが。
「あの人だよ。端の方で何人かの眼鏡男子に囲まれている。肌きれいな、えっと、なんだ、髪の毛が男にしてはちょっと長めの」
「なんで毎回肌きれいってのを言うの?」
「う、うるさいな! そんなことどうでもいいだろ」
「いいけどさぁ、気持ち悪いよって言っておこうかと思って……」
そんなやりとりをしていると、一瞬姫野さんの視線がこちらへ向いたような気がする。気のせいかもしれないが、あまりあっちを見るのは良くなさそうだ。
「って、ええ!?」
そちらに視線を向けていなかったから気づかなかった。いつの間にか、ヤンが姫野さんのすぐそばまでいっている。一体何をやらかすつもりだろう、あの悪魔は。頼むから自分の名前だけは口に出さないで欲しいと願いつつ、耳だけ傾ける。
そもそも、容姿が金髪でアレだ。フードをかぶっているとはいえ、目立つに違いないのだ。魔法の力とかでなんとかしてくれると思っていたが、まさか物理的に接触していく方向だったとは……。戸惑いを覚えつつも、姫野さんとヤンのファーストコンタクトは開始されている。
「そう、ボク、オタク文化に興味があって~」
なるほど、まずは共通の趣味という点から攻めようという訳か。しかし、それでは周りの男子オタクたちとなんら変わりはない。その輪の中に入りこむのは、周りの囲いたちが許さないはずだ。
「ん? 君はだれですかな! ゆいくんに一体なんのようですかな!?」
「そうですぞ、いきなりこんなところにきて! けしからんですぞ」
それ見たことか、案の定、周りの男子オタク──通称、姫野親衛隊に囲まれている。
ちなみに、姫野親衛隊の役割はその名の通り、姫野に近づく男を追い払う役割を持つと同時に、姫野に対して色々なものを献上することだったりする。
俺の推測では、きっと、それはもうクソみたいなヒメ力で彼ら親衛隊から搾取に搾取を重ねているに違いない。けれども、親衛隊──いや、奴隷たちはそのことに気づいていない。気づいていないところか、その首輪を自慢するのである。我々はこんなにもステキな奴隷です、と。
「これが、世の常か」
しかし、この田中明、こう見えても健全潔癖なるドMであるため、そう言うとても奴隷じみた生き方に憧れないといえば嘘になる。
そんなことを考えているうちに、ヤン及び姫野さん、周りの親衛隊たちの様子が一変していることに気がつく。
「へぇ~、ヤン、くんっていうんだ~」
「ヤンどのも、日本のオタク文化に興味があって来日とは、なかなか見どころのあるオトコでござるな!」
「うぅむ、どうですかな、今度カードゲームショップへと一緒に行ってみませぬか?」
何故か溶け込んでいる。なんだこいつは、すげぇな、どんな力だ。催眠はかけられないとか言ってたし、もしかすると、あのコミュニケーション講座がどうとかってのもあながち間違った手段ではなかったのではないだろうかという気さえしてくる。
悪魔的コミュニケーション能力によって、姫及びその親衛隊へと溶け込むようにして会話を繰り広げているヤン。にこやかに話すその姿は、遠目に見ると、まさに美少年、もしくはボーイッシュな美少女。
家でもあんな笑顔、みたいな、と心ときめいちゃう自分の感情と、その一方で、そんなステキな彼に毎日、性処理を見てもらっているという背徳的過ぎる行為を思い返し、まさに悪魔の契約だななんて一人で満足している──場合ではない。
現在の最終目的は、俺と姫野さんと仲良くさせるなんていう実にとんでも狂気な、織田信長と明智光秀を仲直りさせるかのごとく修羅の道を突き進む目的なのであるが、さて、ヤンがこうして姫野さんに物理的に近づいているのは一体どういう目的なんだろうか……。それで、俺の姫野さん陥落計画が成功に導かれることに繋がるのだろうか。
そんな疑問を胸に、ヤンの様子を見ているうちに、教授が教室を訪れる。
「おいおい……大丈夫かぁ?」
俺の心配は別のところへと移る。まぁ、もっとも、誰か余計な生徒がいたところで、実習や実験といったような講義でない限り、バレることはないだろうと思いつつ、一体いつこっちへ戻ってくるのかというハラハラは収まらない。
「まぁいいや……」
教授が話し始めてもヤンが戻ってこないものだから、俺は講義に集中することにする、フリをして、思考実験に励むことにする。
今日のテーマは、果たして俺が一番好きな部位はどこかという究極のテーマである。訂正するとすれば、先ほど思考実験と言ったが、あれは嘘だ。妄想、と置き換えてもらって構わない。
「うぅむ、太もも……いや、しかし、ふくらはぎというのも良い。見る分には、うなじというのもまた良しだが。しかし、脚部は良い。大地を駆けるためにつくられた部位が他の目的に使われるというのは実に背徳的ではないだろうか」
きっとたぶん、教授の講義と同じくらいの密度を誇る脳内会議は激しさを増していく。
ちなみに、言葉に出してはいるものの、ほとんど聞き取れない様な音量である。人から見れば、講義の内容を理解するために、ぽつぽつと呟いているようにしか見えない。
これぞ、最強の会議なのだ。講義の内容など微塵も頭に入っていないような気もするが、三年生ともなってくると、どこで力を入れなければいけないのかくらいは分かってくる。というか、ぼっちである以上その辺を身につけていないとこの大学という超絶難所を突破することは不可能なのだ。
という訳で、引き続きこのクソどうでもいい妄想実験の続きをご覧いただくこととなる。
「だが、今の自分には理解できないながら腹というのもいいのではないか……。あの金髪碧眼ジト目悪魔のヘソ出しルックというのも一度目にしておきたいものだ。ああぁ腹といえば、脇腹もなかなか性的だな……」
実に多種多様な性癖を理解することによって、Mの幅が広がるという謎の信念を胸に、俺は今日も新たなる大地を開拓してゆくのだ、という決意を胸に秘めた頃、教授の
「では、今日はここまで」
という声が耳に入ってくる。三年生ともなると、日々の講義の数は減り、今日はなんとこれだけの講義である。
本当は再履修などが山のようにつもっていたりするのだが、もう、なんか、そういうのは面倒くさくなっているという怠惰な生活を送るクソみたいな若者、それが俺なのだ。すまん。
講義が終わり、生徒たちが外に出ていくのが目に入る。同時に、背中をバシンと叩かれる。
「おう、終わったぞ」
めんどくさそうにアゴで外に出るぞと指図してくるのは、姫野さんたちと別れの挨拶を済ませてこちらに向かってきた悪魔ヤンであった。