第17話
あの場で俺に出来ることはなんだっただろうか? ヤンを無理やり引っ張って連れて帰ること? 天城を一発殴り飛ばしてやること? どちらもやろうと思えばやれたかもしれない。けれど、それで何になるっていうんだ。
俺は、結局、あの場から逃げるようにして去ってしまった。なんというか、ヤンの顔を見ていたくなかったというか……。
ベッドの上で横たわって、どうしようかと考えても、答えなど出ない。パソコンの前に座る気にもならず、天井を見上げてうとうととするも、こんな夕方から寝ることもできず、腹が減っても、腹を満たす気にもなれず……。
「どうしろってんだよ、馬鹿野郎!」
言ったところで誰からの返事もない。元々、俺はぼっち戦士だった訳だし、ヤンとの生活は夢のようなものだったと思えたらどんなにいいことか。
ふと、携帯電話を手に取る。通知画面には何も表示されていない。
俺は事の発端を思いなおす。姫野だ。あいつのせいで……。俺の沈んでいた心が、怒りの矛先を見つけていざ行かんとばかりに徐々にボルテージをあげていくのが分かる。そうだ、そうだぞ、大体あいつが原因なんだろう! 今回のことは!
そりゃあ、俺も、ちょっと悪いかもしれんが……姫野と天城がどうつながってるのか、そんなことは知らないにせよ、天城が話していたことを考えれば、神がどうのなんていう言葉を信じない限り、どっかでつながっていたとしか考えられない。
俺は、姫野に怒りのメッセージを送り付けることにした。相変わらず、以前メッセージを送ってから返信がないことなんて知ったことではない。本来ならば、直接文句の一つも言ってやりたいところだが、次、講義で会うタイミングまで待てる気もしないんだ!
俺は衝動のままに文字を打つ。推敲もせず、そのまま送信した。内容は至って簡単だ。なんであんなことをしたのか、どうしてくれる、お前のせいで……書きだしたらキリがないため、途中で打ち切ったが、とにかく俺の今ぐちゃぐちゃになっている感情全てを吐き出さんばかりに叩きつけておいた。
返信を待つ──。
──寝ていた。
時間は夜中……? バイトがなくて本当に良かった。ベッドから起き上がる。だるい。冷蔵庫からお茶を取り出し飲む。いやでも視界に入る水ようかん……。
外の灯りはない。薄暗く、僅かに月明りが差し込むだけの部屋。電気を付ける気にもならない。俺は再びベッドの上へと戻ると、ようやく、そこで、寝入る前に送っていたメッセージのことを思い出す。
携帯電話を手に取った。
来ている。姫野からの返信だ。俺の心臓が嫌に高鳴っているのが分かった。何が書かれているのか想像もつかないが、俺がこのメッセージより前に送ったメッセージに対しては全く返信をしてこなかったにも関わらず、今回のメッセージはこんなにも早く返信されてきたということに対して、奇妙さを感じ取っていた。
だから、俺は恐る恐る開く、メッセージを。
『めんどくさいやつだな。いちいち伝えてくるな。不愉快。めんどうくさいから書いといてあげるよ。僕がお前を騙したとかそういうこと関係ないんじゃないの。僕がなんのためにやったかなんて関係ないんじゃないの。知る意味あるの。お前が裏切ったのは事実なんだから。もうメッセージ送ってこないでね鬱陶しいから。ブロックしときます』
読んだ。俺は最後まで読み切った。途中、途中で、とにかくもう読むのを止めようと思ったが、最後まで読み切った。
まず、そして、吐き気。気持ち悪くなり、立ち上がり、何も腹にいれていなかったためか、えづくだけで何もでなかった。感情の整理を付けるために要した時間は何秒だったか、何分だったか……しばらくして、ようやく息が落ち着き、寝転がる気にもなれず、ベッドの端に座り、ただ、俯く。目を閉じることもなく、ただ、床を見る。
整理出来ているかは分からないにせよ、まず、感じたのは、やはり、怒り、だろうか……。だが、すぐにその感情は全く間違った感情であるということに気が付く。
姫野の言葉は鋭利で毒があり──けれども、真実だった。
そのことから俺は今までずっと目を背けてきていたんだ。ハーレムがどうだとか、悪魔がどうだとか、そんなことより前に、ヤンはヤン。俺は、ヤンが俺に懐きかけていたということをちらりと分かっていたはずだし、さらに言うなら、思い上がっていたんだろう。
気づいていなかった訳だ、自分が、自分の欲望を叶え続けてもらっていたということを。そして、どういう形であれ、バイトがあるからと一日自らヤンの責務を果たすことを妨害していたということにも気づいていなかったのである。
「くそっ!」
俺は思わず悪態をついた。
「くそっ、くそっ、くそっ、くそっ、くそぅ!」
誰に聞こえる訳でもない。誰かが聞こうとしている訳でもない。ここまで言われてようやく俺は気づいたのだ。アホ過ぎる。思い上がっていた。つけあがっていた。俺はなんてアホなんだ。
今もヤンは天城の傍にいるんだろう。想像するだけで、吐き気を催す。同時に、自分自身がその事に対して嫌悪感を示すという事実にさえ吐き気を催す。なんて自分勝手で、なんて愚かで、なんて──惨めなんだ。
俺が悪い。
他の奴らにも責任があったかもしれないが、どうあっても、俺の責任はゼロじゃない。ここで、俺が現実を見ずに、俺のせいじゃないと開き直れたらどんなに楽なことか。全て運が悪い、人が悪い、なんていう風に言えたらどんなに楽なことか。
だが──。俺は携帯電話をもう一度手に取る。そして、もう一度、姫野の送ってきたメッセージを読む。こんなメッセージを突き付けられて、そして、けれども、俺は、こいつだけが悪いとはどうしても思えなかった。
こいつだって悪いかもしれない。でも、全部が全部こいつのせいじゃない。俺に、今の事態を防ぐ手立ては十二分にあった。悲しいが、これは事実だった。
惨めだった。とにかく、自分が酷く惨めに思えた。ヤンは今頃何をやってるんだろうか? あれだけ憎んでいた天使と一緒になんかやってるんだろうか? いや、もしかしたら、姫野の奴となんかやってたりするんだろうか?
ふざけるな、なんて言葉は出てこなかった。無気力というか、苦しさというか、やりきれない感情がぐるぐるぐるぐると頭の中をずっと駆け巡って、行き場を失っていた。
「くそっ……」
俺は呟き、ぐるぐるぐるぐると頭を回しながら、多分、寝てしまったのだろうか、気づいたら──朝。
むろん、隣に悪魔っ子が寝ているなんてこともなければ、悪魔っ子がいきなり召喚されるなんてこともなく、寝起きだというのに全く寝た気にもなれず、昨日の感情を未だにほとんど引きづりながらも、学校へ行く準備をしようと思った。
しかし、なんか、考えると、馬鹿らしくなってしまったのだ。学校に行くことが、である。
どうでもいいや、という気になった。そして、急に、自分は一人なんだという事実を認識した。今までずっと一人だった? いや、ヤンがいた。俺の生活にはヤンがいたし、もう、俺にとってヤンは必要不可欠な位置に達していたのだ。そのヤンが抜け落ちた。その事実を寝たことによって脳がはっきりと間違いなく認識してしまったのだろう。だから、俺は、どうでもよくなってしまったんだと思う。
「はぁ……」
と自然にため息をつき、冷蔵庫の中に入っていた水ようかんを一本取り出して食べる。涙は出ないが、泣きたい気分だった。心地よい別れでもなければ、喧嘩別れでもない、奪いとられたかのような感覚。
天城が根を回していたのだろう。何らかの手段を用いて姫野のことを操っていたに違いない。姫野が昨日送ってきたメッセージから考えるに、魔法関係ではないだろう。天城が姫野に何らかの対価を渡した、とか、そういったあたりのことだろうと推測できる。
姫野が撮った写真を天城がヤンに見せた。その後、何かしら、色々と吹き込んだんだろうと推測できた。そういうことを考えると、俺は、ヤンを天城によって奪い取られたのだということを再認識することができる。
「はぁ……」
俺は、パソコンの前に座って、水ようかんを食べながらまたため息をついた。パソコンはとっくに電源がついているが、操作する気にはなれない。
はあ、どーすりゃいいんだぁ? いやね、うん、そうだよ、元の生活に戻っただけだよ……が、この虚無感……。
一旦席を立ち、トイレへ行く。便座に座っている時も俺は虚無感に苛まれていた。
…………。
俺は考えた。ヤンを奪い取られたんだ。……考えた。
そして、俺はうんこをしながら行動に出ようと決心した。姫野だ、あいつに、食ってかかってやる……! 自暴自棄である。姫野に何て言ってやろうか! あー! 畜生、あいつに償わせてやるんだっ! よっしゃあ!
俺は、わけのわからない衝動に駆られていた。今までの思考は一体なんだったんだというほどに、訳の分からない方向へ自分が動こうとしているのが分かったが、それでも止めようがなかった。姫野、あいつに償わせてやるんだっ、うーん、そうだな、例えばー、そう、身体だ! あいつの身体で支払ってもらおう! よっしゃああ!
メッセージを送ったら逃げられるだろうと考えた俺は、大学へ突撃することにした。この馬鹿みたいな思いつきは、きっと冷静になれば間違いなく行うべきものではないと分かるはずなのだが、残念ながら、俺にそんな冷静さは欠片も残っていなかったのである。
準備を一瞬で済ませ、身なりも大して整えることなく、俺は大学へ向かう。その移動時間で考えていたのは、馬鹿みたいなことばかりだ。姫野をどうにかして屈服させてやろう、だとか、ヤンがいなくたってどうにかなる、だとか──馬鹿だね、狂っているね、でも、そんな馬鹿みたいに、衝動的に行動しちまうのが人間って生物じゃないのかい? そうだろう。
俺が大学に着いた頃、ちょうど昼時らしかった。天城と遭遇するのは流石に避けたい。姫野は俺と同じような講義を取っていたはずだから、大体の行動パターンは分かっている。俺は、昼前に終わる予定のはずの講義を行っているであろう場所へとまるで戦場へ向かうかのように意気込んでどすどすと歩みを進めていった。
そして──何事もなく姫野を見つける。勿論、周りには姫野親衛隊が数多く控えているが、んなこと知ったことじゃない。今の俺には、気持ちの悪いほどの意味不明な行動力が備わっているのだから。あーそうさ、俺は狂ってるんだろう、いや、別に行動がおぼつかないだとか、そんなことにはなってないけど、判断は、どっかで、間違ってる、んだろけど……!
「はい、お前ら、邪魔、どいて、どいて」
「な、なんだ君はぁ!」
「アァッ! きさまぁ、田中明だなぁ!? 何用だ!」
俺は、姫野の周りのオタクを無理やりどけると、姫野に迫る。
「おい、姫野、お前、ちょっと話聞かせろよ」
姫野は、それはもう驚くほどしらけた顔で俺を見て、表情も変えずに、口を開くのも面倒だといった様子でため息をついた。周りの親衛隊どもが、ぎゃーぎゃーわいわい騒いで俺を遠ざけようとするが、俺はそれを気にも留めずに勢いだけで続けた。
「なぁ! 聞いてるのか! こいつらに、言ってもいいんだぞ!」
こう出れば何らかの動きはするだろうと思ったんだ。もうここまで来たら意地である。俺のためだとかいうより、話を聞くためだとかいうより、意地だ。このやろう畜生めぇ。
俺が勢いで発した言葉に多少はダメージを受けたのだろうかと思ったが、どうやらそうでもないらしい。姫野は、
「チッ」
とこれ見よがしに舌打ちして、その可愛らしい顔を実に不愉快そうな憎しみのこもった顔に変え、俺を睨みつけながら俺の耳元へと口を近づけると周りに聞こえないような小さな小さな声で囁いた。
「ついてこいよ、クソヤロウ」
ゾクッと俺の背筋に寒気がよぎる。姫野は親衛隊達を置いて一人歩き去っていく。俺はちょっぴりおどおどしながらその後ろに続いた。こんな時に、けれど、俺は微かに感じていた。あ、やっぱ、姫野、かわいくね……? さらに付け加えるのなら──俺の股間はそれは見事に滾っていた。……わっはっは。




