第13話
ヤンを遠ざける方法は割と簡単であった。頭を使えばいいのだ。俺は、姫野さんと会う予定の日、バイトだといって出かけることにした。さらに、シフトで休みの人が出たから、いつもより帰るのは遅くなるということや、さらに言えば、もしかしたら日を跨ぐ可能性もある、と。
コンビニバイトという特性上、夜勤もたまにある。ヤンと暮らしてきた日々の中にも、夜勤によって夜いなかった時というのは往々にしてあった。夕方の勤務と夜の勤務が繋がってしまう可能性がある、という旨を伝えると、ヤンは興味なさそうな顔で、
「ふーん、あっそ」
とだけ返してきた。が、その後すぐに、
「あ! じゃあお前、出勤前に! 日課!」
などと催促されてしまったので、
「もぅ~、仕方ないなぁ~」
と、返答したところ、無事、
「は、キモ……」
などと、罵倒を受けることができ、今に至る。
「あー……緊張するな~! も~」
日が傾きつつある中、飲食店が立ち並ぶ駅前での待ち合わせ。
『着いたよ』
『どこ? もうちょっとでつくよー(にこにこマークの絵文字)』
携帯電話を用いてメッセージでやり取りし、俺は姫野さんの到着を待つ。駅前の街は喧騒に包まれている。なんだろうな、この余裕のなさは。心臓がばくばくしているというか、落ち着け、落ち着けよ、俺。俺ならできるはずだ、何をするかは知らないけども。
それから数分して、俺の立っている地点へと小走りで駆けてくる子がいる。身にまとう服は以前と同じような、男女どちらともつかない中性的な服と感じ取れる。肌の露出量は極端に少なく、下から順に、ブーツ、黒タイツ、ショートパンツと続き、上半身は、自らの体型を意識させない、少し緩めの、ダボっとした印象を受ける服で固められている。
「にゃー!」
俺に近づいて、猫の手招きポーズをしながら放った一言に、俺は心臓を撃ち抜かれる思いを感じると共に、何事かと思うが、なるほど、上半身のさらに上、顔を見ると、猫耳フードをかぶっている。……あざとい。
「お、おう、いきなりどうした、上機嫌だな……」
もちろん、内心は嬉しいんだ! 内心の俺は超上機嫌になったんだ! でもな、それを表に出すのはなんか恥ずかしいというか……。俺はなるべく平静を装って姫野さんに声をかける。
「いや~、別にィ~? こういうの好きかなーって思って~」
「それは、その、好きだね」
「んふふ~」
姫野さんは、にんまりにやにやした顔で俺の顔をひたすら見つめてくる。物凄く目が合う。なんだなんだ……やけに上機嫌だ。まるでこれまでのことをゼロにしたような、また再び関係を築き直そうとでも言いたげな態度は、一瞬俺の不信感を呼び覚ましこそしたが、すぐに俺の中の煩悩様が、んなもの持たんでよろしい、と捨て去ることによって、俺に残った感情はただ一つ、ゆいゆい可愛い~、だけとなった。脳みそとは複雑怪奇な一方で、時と場合によっては実に単純なものである。可愛いの前ではありとあらゆる理性的な感情は力を発揮しなくなってしまうということがあるのだ。仕方ない、仕方ない。
俺は、ゆいゆいを今すぐに抱きしめてなでなでなでなでなでなで──したい、という欲望をなんとか胸の中に秘めたままにする。
「ご飯へ行こ~」
なんて言うゆいゆい。やっぱり今日は、いつも以上にテンションが高い気がするぞ……。なんか小刻みに飛び跳ねてるし……。
「というか! 明くん! 僕ねぇ~、ちょっと食べに行きたいお店があるんだ~」
「そうなのか?」
「そうそう! 付き合ってくれるよね?」
低身長から繰り出される唐突な甘え顔。俺の脳みそは、片隅に、何か危険な臭いを感じながらも、片隅のちんけな危険な臭いなんて俺の性的欲求に近い興奮という感情の前では夏の囲炉裏ほど役に立たず、俺の頭の煩悩全てがニッコリ笑顔でこう囁く、言え、喜んでと言え、と。俺はけれども何とか理性を取り戻し、
「喜んで!」
あ、取り戻せなかったわ。うーん、しかし、別にこの辺の店に食事に行ったところですぐに問題が起きるわけでもなかろう。考えられる可能性としては、せいぜい奢らされるくらいだろうか? まぁ別にそのくらいは問題ない。こんな可愛い子に誘われてご飯に行けるのだからよしとしようじゃないか。
姫野さんの横を歩き、行きたかったと言う店へ移動する。喧騒の中を二人並んで歩くのは、少しばかり心地が良い。隣にこんな可愛い男の子を携えて街中を歩けるのだ。いやいや、勿論、ヤンだって可愛いが、あくまで悪魔だ。ゆいゆいは人間だもん、見た目は同じ可愛い子だとしても、俺の気持ち的には色々と違う。
「ここ、ここ~」
ついたのはちょっとした居酒屋に思える。個室居酒屋と書かれている文字から察するに、そのまま、個室の居酒屋。うん、分かる、ということは、俺は、今から、姫野さんと二人きりの空間へ突入するということなのだろう。やったぜ。
店員に案内され、少し広い店内の通路をてくてくと歩く。雰囲気がある、と表現したらよかろうか、店内は程よく薄暗く、壁は暗色系の配色で、落ち着いた音楽が流れている。案内された席は二人用らしいほどのスペースしかなく、何より驚いた事に、その席は向かい合う形ではなく、二人が横に並ぶような形でつくられていたのだ。
「へぇ……こんなとこがあるんだ」
「いいでしょ~? 一回来てみたかったんだよねっ! 今後のためにも。さ、ほらほら、飲もう飲もう」
店員に一杯目を注文する。成人してからというもの、飲み会を経験したこともない俺は、さてビールは苦いから嫌いだし、かといって、姫野さんが飲もうと言う手前、アルコールを入れない訳にもいかないなぁ、と悩んだ末、姫野さんが注文したカクテル系の飲み物の一行下に書いてあるメニューを注文する。
暗い店内、個室、そして、酒。
これらを全て足し算した結果がどのようなになるのかということを俺の脳は必死に弾きだそうとする。その答えは、実に煩悩豊かな想像力に満ち溢れるものであったが、相手は悪魔でもなんでもない普通の人間。俺は、煩悩を抱えつつ、ここで事を急いて結果を求めるのは愚か者のすることであるという理性──という名の更に強力な煩悩によって自己を抑えることに見事成功し続ける。
俺と姫野さんは、学校のことだったり、はたまたアニメのことや、ゲームのこと、などなど、世間話を数十分楽しむ。アルコール一杯目を飲み終わり、腹も半分ほど満たされると、俺の緊張も徐々に和らいでいくのが分かった。
「でねー、あ~、そだぁ~、ほらー、明くんてさ~、僕みたいな子、好きぃ~?」
まだ一杯しか飲んでいないというのに、既に姫野さんはでろでろとしていた。その姿勢は大きく崩れており、服がはだけているのではないかと思うほどに艶っぽい。いや、実際、なんか体が暑い、ということで姫野さんは上着のボタンを数個外していたりしているので、若干服装は乱れていると言える。
俺は、そんな酔っ払っている姫野さんの、唐突な問いに、どう答えたらいいものかと悩む。えぇい、これだけ酔っ払っていたら、正直、何言っても分からんだろう。
「うん、好き好き。可愛いよね、ゆいゆい」
言ったれ、言ったれ、てなもんで、俺はヤンに接する時ほどに気分を開放し、欲望を開放し、思いついたことをそのまま口にする。
と、姫野さんが、いきなり俺をひどいくらいに見つめてくる。会話が止まる。あ、やっぱ、姫野さん、肌綺麗だなぁ……すっげぇ綺麗。めっちゃ手入れとかしてるんだろうなぁ……というか、いい匂いとかするし……。
「ど、どうしたの?」
俺は、思わず沈黙に耐え切れずに口を開く。
「あー! そうだ、そうだなぁ~うん、姫野さんてさぁ~、こういうところ、良く来るの?」
「……」
答えない。俺を見ている。わ、わわ、俺は、このモテないモテないモテなくてたまらない俺は、こういう時、どうやって対処したらよいのか分からないのだ。分かるはずない。仕方ないだろ! 経験ないんだから!
「ん~、あれ、お酒弱いのかな?」
「……弱いよぉ~」
姫野さんは答えつつも、けれども、横に座る俺の顔から目線を外すことはない。俺は我慢できずに、とりあえず目の前に置いてある料理を食べたりして、落ち着かない心をなんとか落ち着けようとするが、姫野さんがこの次に何をしようとしているのかということなどなど、様々なことに思考がいき、ついに言葉を失う。けれども、姫野さんの方を見ることはできない。俺の横顔を見るような形で姫野さんはずっと俺の顔を見つめているのが視界の端に伺える。
なんか、徐々に近づいてきている気がする。……! そして、俺の太ももに何かが接触している。手だ。姫野さんの手が俺の太ももへと置かれている。
「あー、えーっと……」
俺の思考が渦巻く。興奮? それどころではない。こんな密閉された空間で、姫野さんと接触してしまっているのだ。あ、いつの間にか、俺の体と姫野さんの体がわずかに触れあっている。服が触れ合っているだけなのだが、それでも、俺には姫野さんの体温さえ感じられているような気がした。もたれられているのだ。あぁ、なんだろう、うん、服を貫通して、姫野さんの体が接触しているという事実が俺にのしかかってきてる、きてるよぉー! きてるぅうー!
「あー……」
俺は思った。思ってしまった。このまま、ずっと、この時間が続いてくれないだろうか、と。姫野さんの体と俺の体はついにぴったりとひっつき。微かに首元に、姫野さんの息がかかっている、そんな気がする。
完全に俺に体重を預けているのだ。座っているため、そんなに重みは感じないにせよ、それでも、俺が昂るには十分過ぎる状態であると言える。
どうする、どするんだ。これは、どうするべきなのだ! 顔を横に向ける? 多分そこには姫野さんの顔があるだろう。俺から目線を一切外さない姫野さんの顔があるに違いない。
そんな時だった。
「失礼します、ご注文の料理をお持ちいたしました」
ガラ、と個室の扉が開けられ、少し前に注文していた料理とアルコールが店員によって運び込まれる。危ないところだった、何か、越えてはいけない壁を越えつつあるところだった。俺の心を覆う色々な壁のほぼすべてが破壊しつくされ、残る掘も埋め立てられているような窮地に神風! 俺はペースを自分へと戻し、ふぅ、と一つ息をつくと、とにかく落ち着いた話題を、と考える。
店員が個室の扉を閉め、再び二人だけの空間が形成される。店員が途中入ったことによってか、よらずか、姫野さんの表情は、崩れ切ったトロンとしたものから、少しは日常を取り戻しているようだった。
「姫野さんってさー、モテるよね」
……大した話題を思いつかなかったのだから、仕方ないんだ。
けれども、姫野さんは、一旦落ち着いたせいか、いつものようなけろっとした可愛らしさ溢れる表情に近い顔で答える。
「ん~、変なのには、たくさん……。でも、いっつも、本当に好きな人には好かれないんだぁ……」
先ほどまでの艶っぽさが微かに残る顔色ながらも、様子は多少落ち着いているように見えた。
「へー、そんなもんか」
「それでね。僕は結構イベントとかにも参加したりしてて……あ、そう、コスプレとかもするんだよ。興味ある?」
「ほぉー……あー、たとえば、どんな?」
「例えばね──」
姫野さんがあげるキャラクターの名前は、俗に言う男の娘というジャンルに分類されるもので、可愛らしい身なり、顔つき、背丈をしている姫野さんならばきっと間違いなく着こなすことができ、もっと言えば、誰をも魅了してしまうほどの魅力に溢れるのだろうと想像出来た。
「あ~、そうだ、それでさぁ……今日、明くんを呼んだ理由ってのがねぇ?」
姫野さんはそう言うと、がさごそと彼の鞄の中を探り始める。何をやっているのかと思えば、そこから取り出されたのは、某アニメ作品に出てくる男の娘キャラが着ている高校生の制服だ。
「これっ! これをー、僕が着たのを見て欲しいなぁ~って……」
姫野さんが、その服に自身の顔下半分を隠しつつ照れくさそうに言う。彼の頬が赤く染まっているのは、さて、酒のせいか、それとも……。
俺は、ごくりと唾を飲んだ。正直に言おう。もう衣装がどうだとか、そんなことはどうだっていいのだ。すまん、全国のコスプレイヤーの諸君。俺はコスプレに対して、そんなに大した知識もなければ思い入れもない。だが、目の前のこーんな可愛い、艶めかしい男の子が、そんな顔をして、見てください、なんて言って来たら断れる訳がないんだ! 俺は全くコスプレ界隈に足を踏み入れたことはないが、しかし、ここは、首を縦に振るしかなーいっ!
「あ、お、おう、俺で、良ければ?」
この時、俺は考えてもいなかった。なんで俺に見てもらう必要があるのか、だとか、別にそんなことは鏡で見ればいいんじゃないか、とか、そんな当たり前の疑問を抱く余地などなかった。全ては煩悩のせい。全ては煩悩のせいなのだ。ええい、ままよ。
「やった~! よぉし、じゃ、そろそろ移動しようよ~」
「え、そうなの、そんな時間?」
「そんな時間、そんな時間」
「そう、なのか」
移動、移動、と俺を先導する姫野さん。こういうところは男らしい、と表現してもよのだろうか? 男らしいって言われたら姫野さんはどう思うんだろう。まぁ、でもな、そんな細かいことはどうでもいい。くだらないのさっ、性の前ではそんなこと無意味っ!
上機嫌になった俺は、一人で二人分の会計を済ませる。
「あ・り・が・とっ!」
なんていう可愛らしい言葉が俺の機嫌を良くさせる。あ~、いいんだよ、いいんだよ、そのくらい。だって、俺がお金使うとしても、どぉおせどうしようもないことばかりなんだもの……。後でヤンにも水ようかんいっぱい買って帰ってやろうと心の片隅に居たヤンを少しだけ思い返し、再びヤンを心の隅の方へとしまいこむ。さよなら、ヤン、また逢う日まで……。
「よぉし、行こっか」
姫野さんは、それはもうごく自然に俺の腕を取り、腕を組む。あっ、接触してしまった……。あっ、柔らかい……。俺はどこへつられて行くのかもわからず、ふわふわする思考の中、姫野さんによって連行されていくのであった。




