04
粘土は以前作った時に余ったものがキッチン脇の箱に入れてあったはずだと確認すると、新しいものを作るには十分なほどにあった。乾燥を防ぐために術で密閉をし保存していたためか、程よく柔らかいままで残っていたので、これならすぐにでも作業に取り掛かれるだろう。また湖の向こう側から粘土質の土を採取して、柔らかい粘土にするには砕いたり、不純物を取り除いたり、寝かせたりと何かと手間暇がかかるので、こういう時のために以前のものを保存していてよかったと、サリドはあの時の自分を褒めたくなった。
箱から粘土を取りだして玄関脇に置き、改めてキッチンにあるテーブルを見ると、そこにはサリドがこの家を出た時と同じく暗殺者に用意した昼食が置いてあった。また口にしてくれなかったと落胆したが、致し方ないことだとも理解は出来ている。
リオを抱き上げ、玄関脇に置いた粘土を手でひと掬いして、次は隣に建つ屋敷へと向かった。
フェルナンとの約束通りに代金を受け取り、あと応急処置ではあるがフェルナンのひびの入った左腕に取ってきた粘土を塗りこみ、繋ぎとして補強した。新たな体が出来るまでまだ時間がかかるだろうという事を伝え、それまでに無茶はしないようにフェルナンに念を押しておいた。なにせサリドは芸術的なセンスは皆無だし、苦手なゆえにその作業も遅いのだ。ましてや以前よりも機能性を加えなければならない。捗らない事はやるまえから見えていた。
それから小屋へ帰って晩御飯を用意し、お風呂をリオと一緒に入った後、リオは寝室のサリドのベッドの脇にある籠の中で早速寝てしまった。今日一日ずっと体を動かしていたことで疲れもあったのだろう、いつもは寝入るまでに時間がかかるリオもすぐに夢の中へと誘われていった。
そんなリオがしっかり寝ていることを確認したサリドは、最近キィキィと音の煩い扉を慎重に閉め、キッチン脇の椅子に座った。
目の前のテーブルの上にはまた手のつけられていない晩御飯。ぐっと眉根を寄せる。
ふぅ、とため息をつき、おもむろに右手を上げると、家具や柱の影に隠れていた影食みが一斉に天井へと向かい、梁の上にいる彼を飲み込む。案の定抵抗はあったものの、影食みに対して有効な手立てを持たない暗殺者は、また梁の上から引き摺り下ろされ、体中を拘束されながらサリドの目の前にその姿を現した。
相も変わらず、噛み殺そうと云わんばかりの目の鋭さは健在だ。獣のようなそれは、意外にもサリドのお気に入りだ。
「お前、何も飲まず食わずで死ぬつもりか?」
「人間は十日ほど飲まず食わずでも生きていける」
「だが、体力が落ちては私を殺すことも出来まいよ」
「たかだが二日物を食わないだけで動きが鈍るような鍛え方はしていない。十分にお前の寝首をかくこともできる」
不遜な態度の彼はサリドの心配など無用と、突き放すように冷たく切って捨てた。可愛げのないとサリドは苦笑したが、それは彼の精一杯の抵抗なのだろうと思うと逆に可愛いと思えてしまう。
「だがな、クウェイ。私はせっかく作ったものが残飯になるのは残念でならない」
「・・・おい」
「私としてはクウェイにこのシャクシャントでの生活を楽しんでほしいところなのだがな」
「おい、待て貴様」
暗殺者の眉がこれまでにないくらいに顰められ、声が強張った。そんな彼を尻目にサリドは次から次へと、食べてくれないことへの不平不満を言い並べる。その間も暗殺者は「おい」とか「待て」とか、困惑を孕んだ声でサリドを止めようとしていたが、ついにはそれは怒声へと変わった。
「貴様、さっきから『クウェイ』と言っているが、それはまさか俺の事を指しているのか?」
サリドに名をかたってはいない。それ以前に自分の名前は『クウェイ』などではないのだ。
「ああ。お前の名だ。仕方あるまい?お前に聞いても教えてはくれぬのだから、自分で考えたまでよ」
何が悪い、と悪びれることも無くサリドは首を傾げた。
声をかけても返事はない、食事も取らない。一切の接触のない中で名前を聞くことも困難であったし、何より名前を知らず『お前』とか代名詞で呼ぶのは味気ない。彼が距離を取るのであれば、サリドはそれを縮める。その第一歩が名前を呼ぶことだとサリドは思ったのだ。
「名を呼んでもらう必要はない。その前にお前を殺す」
「それは困るな。だが、名前を呼べないのも困る。そもそもお前だけが私の名前を知っているのは不公平ではないか?」
「知るか。これから殺されるのに何を知る必要がある」
「自分を殺す男の名を知りたいという女の切なる想いが分からぬのか、この朴念仁」
女心の分からぬ奴め、と毒づくと、男はぐっと押し黙った。
静かになった彼に一歩近づき、影食みの拘束を少し緩めると、男の首から胸元が露わになった。黒装束で覆われているが、布の下に隠されているしっかりとついた筋肉が服の上からでも見て取れる。筋肉マッチョというわけでもなく、胸板が厚く少し肩幅が広い体躯は、先ほど男が言った通り訓練の成果なのだろう。顔の良さも相まってひとつの芸術品にも見えるほどのバランスの取れた美貌だ。暗殺者等という日蔭の存在であることが惜しい。
そっと彼の首筋に触れ、優しく撫でる。男はビクッと体を揺らし、サリドの行動に警戒を見せた。首を絞めるとでも思っているのだろうか、とその斜め方向な警戒に笑いそうになった。この女心の機微も悟れぬ朴念仁め。
そんな彼の態度に悪戯心が出てきてしまったのは、好きなものは虐めてしまいたいという歪んだ欲ゆえなのか。
「・・・なぁ、クウェイ」
ゆっくり、ゆっくりとその厚い胸板に指を滑らし、胸の真ん中で動きを止める。その剣呑な目を見つめると、仄かに瞳の奥で欲情の炎が灯るのが見れた。
「では、私はお前を何と呼べばよい?お前?それとも呼ばせてもくれないのか?」
幾分か低いサリドの身丈では、彼を見上げることになる。先ほどまでのつれない男は、どうやらサリドの上目づかいが好きらしい。途端に目つきが和らぎ、戸惑いを見せる。生唾を飲むところなど実に初心でいい。
「こうやってお互いに触れ合っている時でさえも・・・」
その胸に手を当て、そっと耳元に口を寄せ、
「名前を呼ばせてくれないのか?」
色を含んだ声で、囁く。
暗殺者はばっと上体を反らし、サリドと距離を取ろうとしているが、それを無情にも影食みが邪魔をする。
抵抗をする彼をなおもサリドは追いつめた。
「私はお前にとって名前を教える価値のない女か?この小さな可愛いお願いを叶えてもらえぬほどの、矮小な存在か?・・・お前にとって私はどんな存在だ?」
逃げる暗殺者を逃がすまいと追うサリド。その勝敗はすぐについた。
「・・・お、お前は」
暗殺者がその口をとうとう開く。
言葉を探すようにどもりながらも続きを繋げようとするも、なかなか先に進まない。サリドはそんな彼に「ん?」と先を促すように首を傾げた。
その瞬間、彼の中で何かが弾けたように一気に饒舌になる。
「お前は俺にとっては至高の存在だ。俺が唯一殺せない人間で、唯一殺したくないと思ってしまう稀有な女だ。矮小などとんでもない。そんなお前を卑下する言葉は、例えお前でも言う事は許せないほど俺の中でお前は尊いものとなっている。その蜜色の髪も、翡翠の瞳も、桜色の艶やかな唇も全てが愛おしく、お前はそこに在るだけで俺の全てを満たしてくれる存在だ」
一切の息継ぎも澱みも無く言い切った直後、暗殺者はハッとしてその顔色を驚愕に変えた。自分で言ったことが信じられないといった感じで、顔を青ざめながら硬直してしまった。
突然の口説き文句にサリドも虚を衝かれたが、暗殺者が乗ってきてくれたことに嬉しくなって、微笑んだ。
「い、いや、これは、・・・ち、違うんだ。そういうのじゃないんだ」
目の焦点も合っていないし言葉もしどろもどろだが、我に返った暗殺者が言い訳をし始めた。ただし、ずっと「これは違うんだ」と繰り返しているだけで先には進まないが。
「お前がそこまで私を思ってくれていたとは感激だ」
「・・・これは昔、暗殺対象と恋仲になって任務を遂行する訓練をしていた時の名残だ。相手を甘い言葉で口説き落とす訓練をひたすらしていた時期があってな」
苦い顔で彼は言う。
「お前に迫られて、何か言わなくてはいけないと思って咄嗟に出たのが、あの時何度も練習した言葉だ。だから意味はない。本心でもない。忘れろ」
そう素っ気なく言う。
彼は恥と思って忘れてもらいたいのだろうが、生憎サリドは彼の言葉を忘れられそうにもなかった。素直に嬉しいと思ってしまったのだから。
「そうか」
そう素直に返事したものの、喜びは顔から滲み出た。顔がどうしても緩んでしまうサリドを、彼が困ったような少し怒ったような顔をして眺めている。
「私はそれでも構わぬよ。お前の甘言、また聞いてみたい」
例え彼が本心ではないと言っていても、サリドにとっては甘い蜜のようなものだ。また味わってみたいと思うのは、女の本能であるし欲求でもある。
「お前の魅了の魔法に言わされているだけだ」
「ああ、そうだな」
それでも構ないのだ。そこに偽りとはいえ愛が存在するのであれば。
はぁ、と暗殺者はため息をつき少し俯く。灰色の髪の合間に見える耳が少し赤いのは気のせいだろうか。少しの間沈黙が続くが、ぽつりと音を漏らすように暗殺者が口を開いた。
「名前は、ない。本当の名前など忘れた。あえて言うならコードネームである『9番目』だ。だが、これは俺が所属する組織の中で実力を順序付けたものがそのままコードネームになっている。今は『9番目』だが、実力が上がれば『9番目』ではなくなる。よって名前というものは俺には存在しない」
吐き捨てる様に言うその言葉に、彼のこれまでの生きてきた世界を垣間見た気がした。
『孤独』。
その言葉がじんわりとサリドの中に広がったのは、彼に共感してしまったからかもしれない。
名前をなくした人生。彼はそれを当り前だと受け入れているのかもしれないが、サリドにとっては無限の孤独のように思えて悲しくなった。誰か彼に名をつけようと思わなかったのだろうか。彼も名を持とうと思わなかったのだろうか。
「なら、やはり名前を呼ばせてほしい。・・・クウェイ、クウェイ・シドと。お前が嫌でも私は構わぬよ。私はそう呼ぶから」
彼の孤独にそっと寄り添いたいと思うのは、サリドのエゴなのかもしれない。
クウェイ・シド。
その名を彼にあげたい。サリドだけでも名前を呼んであげたい。拒絶されても、それでも呼び続けよう。
クウェイの頬にそっと手を触れて、親指で撫でつけるとほんのりとそこに熱が灯る。サリドのその手にされるがままだったクウェイは、おもむろにサリドの手に顔を摺り寄らせて、ひとつ頬擦りするとこちらを睨めつけてきた。
「好きにしろ」
そう睨めつける顔が桜色に染まっているし、サリドの手に愛おしそうに頬擦りする様は、まるで赤子のようでいつまでも触っていたいと思った。
だが、そんなサリドの願いもむなしく、クウェイはハッと気付いたかのようにその手から離れた。熱を失ったその手がやけに寒く感じる。
「・・・クウェイ・シドってまさかあの北国の英雄のクウェイ・シドから名を取ったんじゃないだろうな」
「ああ、よくわかったな。その灰色の髪を見て思い浮かんだのがその名だった」
北国の英雄クウェイ・シド。700年前の北国を救ったという絵本の中にいる英雄で、その容姿は灰色の髪と記されていた。子供のころ皆が読む冒険譚で、実在する人物をモデルとされているが、その話の内容はもはや伝説と言っていいほどに脚色も誇張もされているものである。
そんな絵本の中の英雄と同じ名を髪の色が同じという理由で付けたサリドに、クウェイは思いっきり顔を顰めた。
「自分を殺そうとしている暗殺者に英雄の名をつけるなんてどんな皮肉だ」
サリドはそんな呆れ顔のクウェイを楽しそうに眺めていた。