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01

 その島は常に霧に覆われていた。

 海の上にぽっかりと浮かぶ孤島の周りにだけ濃い霧が漂い、島自体を外界から隠している。


 その島はただの島だった。

 財宝が隠されているわけでも、考古学的価値のあるものもあるわけではなく、ただそこに一つの大きな屋敷と、その傍に小さな家があるだけであった。

 約半日ほどで一周してしまえるほどの大きさの霧に囲まれた小さな島に、大きな屋敷と小さな家。それと小さい湖にそこから派生する小川、畑、小さな船着場、そして広大な森。それらがこの島の全てであり、それはここ数年変わることのない深閑が広がり、そして時が止まったかのような毎日が繰り広げられていた。


 その霧の島の名は、シャクシャントと名付けられていた。古代の言葉で『幻』という。

 そして、その大きな屋敷の傍にある小さな家に一人住んでいる、サリド・ヴラウディ。

 そんな孤島に一人で住む、奇異な魔女だった。



 ***



「今日もいい日ね」

 

 小さな家の出入口を開けて朝一番の外の様子を見たサリドは晴れやかにそう言った。

 外の清々しい空気を思いっきり吸い込んで、ひんやりとした朝独特の澄んだ空気が体中を満たし、そっと目を開ける。

 『いい日』というのはいつものと変わらない日という意味。

 いつもと変わらない清々しい朝に、遠くを不可視にしてしまうほどの靄がサリドに不変の『いい日』を実感させてくれ、それを毎日朝一番に感じるのがサリドの日課であった。

 木の梢から木漏れ日が漏れることもなければ、痺れるほどに陽の光が突き刺さるということもないが、それがシャクシャントの朝でありサリドの日常では欠かせない。

 少し伸びて床に置いてあった桶を持って、静寂に包まれた青々しい森へと向かう。この奥にある清流の水を汲んで、朝食の準備をするためだ。流れるせせらぎは島の真ん中にある小さな湖からとうとうと流れ、小さな小川を島のあちらこちらに潤いを与えている。甕などにためて置き水でもすればいいのだが、どうせなら新鮮な水を飲みたい。この後何をするでもないのだから、その日の分をその日に確保しても差し支えは特になく、それがまたサリドの毎朝の日課になっている所以でもあった。


 澄んだ色の川の水を桶一杯に入れ、組み上げるとその重みがズシンと腕にかかる。サリドの腕力では十分に持ちきれないために足元が覚束無くなってしまうが、慣れているせいか溢すことなく家に帰ることが出来た。

 そのまま甕に水を入れ替え、杓子で掬い上げて一口水を口に含む。朝一番でからりと渇いていた咽喉がすっと通り、完全に身体が覚醒していく。ふぅと溜まっていた息を一気に放出した。


「くれ、クレクレ」


 一息ついたサリドの足元で黒く丸々とした物体がカタコトに水を欲している。丸々としすぎていて差し出された手が小さくどこにあるのか分かりづらいが、僅かに手をちょこんと伸ばし丸い円らな瞳でサリドを見上げていた。

 それを見て、サリドは微かに笑いながら杓子にもう一杯水を汲みその目の前に持ってきてあげると、その黒い物体はガツガツと水を飲み始める。


「おはようございます、リオ様」


 見る見るうちに杓子の水を飲み干すリオと呼ばれる黒く丸い物体がそれを飲み終えると、リオは「おはよ、オハヨ」とまたカタコトに挨拶をしてサリドの足にじゃれつきはじめた。


「めし、メシ、アサめし」

「はい、お待ちくださいね」


 咽喉を潤した直後のリオの朝飯の催促。くるくる回りながら「めし、メシ」とポヨポヨと跳ねまわるリオを宥めながら、サリドは片手にフライパンを持って、いよいよ朝ごはん作りに取り組もうとする。


「今日は何にしましょうか?」


 台所脇の貯蔵庫を覗き込みながら、サリドが朝ごはんを何にしようかと悩んでいると、リオも一緒に考えているのか、「なに、ナニナニ」とくるくる回っていた。


「今日は・・・」


 と、言いかけたところでサリドの動きがぴたりと止まる。

 掴みかけた野菜をじっと見つめたまま動かず、息を殺すかのように静かに微動だにすることはない。


「さりど、リド」


 リオも動くのを止め、じっとサリドを見上げる。サリドのその空気を感じ取ったかのようにリオもまた、動かなくなった。

 音が何もしなくなる。

 ただゆらゆらと甕の中の水が揺れ、霧の島には風が吹くことも滅多になく、外からも音が聞こえることがない。

 息が詰まるほどの沈黙。

 数刻経った後に、「リオ様」と静かにサリドが呼びかけた。


「今日はあまり外に出ないでください」


 そう一言リオに忠告してまた動きを再開させるサリド。リオはサリドを不思議そうにそのまま見つめて動かず、朝ごはんを作り始めるサリドの足元にじっとしていた。


「さりど」


 答えを得るかのようにサリドのスカートの端を持って、リオはくいくいとか弱い力で引っ張る。

 何故外に出てはいけないのか。

 退屈な毎日を外で遊ぶことで解消しているリオには家でじっとしているのは辛い。それを何故今日禁じてしまうのか。


「我慢ください、リオ様」


 あまりにもしょんぼりとするリオの顔に苦笑し、サリドはリオの目線に合わせるようにしゃがみ込む。それでも十分ではないので、さらに身を屈めなければいけないのだが、その埋め合わせをリオ自身を抱き上げることで解消して、「ごめんなさい」とこれは本意ではないのだと謝った。


「ごめんさない。でも今日はダメです」

「だめ。ダメだめ、ナゼ」


 抱き上げるサリドの手に小さな手をちょこんと置く。

 理由を聞かせてほしいと、サリドにあの円らな瞳で願ってくるのだ。


「・・・結界が揺れました」

「けっかい・・・」


 結界が揺れた、という理由を聞いたリオはきょとんとした顔になって小首を傾げる。いまいちその意味がわかっていないその様子にサリドはまた苦笑し、「つまりですね」と続けた。


「きっと侵入者です。おそらく穏やかではない者かと」


 はっきりとした理由をサリドが言ってもリオはまだ首をかしげたままだった。


 侵入者など珍しい・・・


 朝食を終えて改めてサリドは思った。

 本のページを捲りながら時を過ごし気にもせずにもいたのだが、平穏な島のちょっとした異変はそれでも気にしてしまう。

 この島は年中霧で覆われている。

 そのために島に近づこうとも霧によって視界が不鮮明となり、船で島に漕ぎ着けようとも容易ではない。島の影を見つけようとも幻かのように次の瞬間には霞の向こうに消えていってしまうのだ。それゆえこの島への来訪者など皆無に近い。

 だが、この霧は実は三日に一度、一時間程度晴れる時間帯がある。そういえばそれがちょうど今日ではなかっただろうか、と思い立ちますます危機感が現実味を帯び始めた。

 侵入者はこの島にやってきた。それも、サリドの結界をも越えてだ。


「・・・穏やかではないな」


 一人言だった。

 ぽつりと出た、少しの不安。

 眉根を寄せ、難しい顔で出た言葉は事の重さを増していっているようだ。

 リオはサリドの忠告を聞いて部屋の中に籠って、床にごろごろと転がり回っている。

 恐らく家の中でサリドの近くにいればリオに危険が及ぶことはないとは思うが、けれど家の中が鉄壁というわけではない。用心に用心をこしたことはないが。

 ページを捲り、また捲りつつもその内容など頭の中に入ってくるわけもなく、ただその侵入者に心が傾いた。

その傍で「ごーろごーろ」と言いながら転がるリオの行動を目にしつつサリドはさて、と考える。

 目的はいくつか考えられた。

 出そうと思えば際限なく出ててくる相手方の目的を考えるのはある程度暇つぶしにはなる。だが、その答えは実際にその侵入者がやってこない限り得ることは出来ない故に、飽きてしまうだろう。当てもなく考え込むのは無意味だ。答えは焦らずともすぐにやってくる。

 なら、やはりここは何も考え込まずにただこの本に集中した方がいいのだろうか。

 気になるには気になるが。


「ごろごろごろごろー」

「リオ様。勢い余って外に出て行かないでくださいね」


 余りにもごろごろと床を勢いよく転がりまわるので、そのまま外に転がり出て行ってしまうのかと慌てて注意すると、リオはその場でピタリと止まってちょこんと立ち上がる。


「でなーい、ナイ」


 これ以上出ないとカタコトに宣言しつつ、再びサリドの元へと戻った。


「さりど、ほんホン」


 テーブルの上に颯爽と乗って強請る様にサリドに両手を振る。

 本を読んでくれと今度は催促しているのだ。


「そうですね。考えていても仕方ないですしね」


 他愛のないリオの言動を見て、どこか吹っ切れた部分があるようだ。サリドは懸命に手を振るリオの前に本を置き、何事もないように読みはじめた。

 リオに読み聞かせるように、ゆっくり丁寧と。

 内容は魔術構造学のある学者の論文なのだが、普通は飽きてしまうであろうその内容にリオは必死に耳を傾けていた。

 リオの姿かたちは丸く幼く、思考の一つ持っていなさそうなイメージを持たれ易いが、その実知能は高くむしろ幼児用向けの本よりこういう本を好んで読んでいる。

自分ひとりでも読めるのだが、こういう暇なときは気まぐれにサリドに読んでもらうこともあり、その姿がその小動物の容姿に似合ったものを想像させてしまうのかもしれない。

 こうやって強請るだけのリオ。

 だが、サリドはそれを苦にはしたり邪険に思ったりはしなかった。

 こういう時間は愛おしい。

 その分過ぎるのも早い。

 いつの間にか本は数十ものページが捲られ、リオの腹の虫がぐるぐると呻き声を上げる時刻になってしまっていた。


「昼時ですね」


 強請る様に盛大に鳴るリオの腹の音に少し笑ってしまう。

 お終いとばかりに本を静かに閉じて徐に立ち上がり、長時間椅子に座って固めってしまっていた腰を伸ばした。パキ、と小気味いい音がして腰はすっきりだ。


「午後は一緒に薬作りしましょうね」

「つくるーつくるー、めしめし」

「はい、承知致しました」


 薬を一緒に作ると言ったのか、ご飯を作ってくれと強請っているのかよくよく分からないが、サリドは両者の意味で了承の意を表して部屋の扉を開けた。

 部屋の扉を開ければ目の前に台所がある。

 その脇に小さなテーブルとその上に置かれた花型のランプに四脚の椅子。それにあまり物が置かれていない食器棚。貯蔵庫に水を溜め置く甕。そして、外へ続く玄関の扉。

こじんまりとした家の中に唯一ある調理場にサリドが一歩 足を踏み入れた時、全身が何かに縛り付けられたかのような感覚に陥る。

 玄関の扉が、僅かに開いていた。

 もちろんサリドは開けたままにしていた覚えはないし、リオにも玄関に近づかないように注意もしていれば見張りもしていた。

 そうなればもちろん、これは他の誰かがその扉に触れたということになる。


 ―――侵入者がこの家に来た


 消した不安が甦り、硬直して動けなかった。

 だがそれも一瞬のことで、サリドはすぐに己のすべき行動を取った。

 リオのいる部屋の扉を開け、辺りを見回す。

 床、壁、天井、窓。何度も何度も見渡す。

 その際にテーブルの上にいるリオの姿が何度か映ったが、何も異常は見られないようだった。


(―――いない)


 少し安心したような、またさらに緊張したような妙な気分になる。

 繰り返す安堵と警告。

 姿が見えないほど鈍く、浸蝕の速い恐怖はない。


 だが、こういう時のサリドは実に冷静だった。

 声も上げず、心乱さず今の状況を冷静に見ることのできる度胸を持ち合わせている。

 経験なのか、はたまた感覚なのか。

 自分が何をすべきかを深く考えることがないのだ。やばいと思った瞬間には身体が動いている。


 その場にしゃがみ込み、自分の影に手を付いた。

 彼女の長くておよそ魔女には似つかわしくないハニーブラウンの髪が揺れる。

 息を大きく吸い込み、長くゆっくりと吐き出した。

 肺の中の空気が無くなってしまうほどに長時間息を吐いて、その空気の流れに乗せるように一言、たったひとつの言葉を吐いた。

 その言葉で覚醒したかのように、サリドの足元にある黒い影がぐねりとうねり出す。サリドの長い吐息に揺れるように不愉快な動きをする黒い影は大きくなり、意志を持ってサリドを覆うかのようにその身を成長させた。

 サリドの四方を囲み揺れながら這い上がると、そのうねりはサリドの頭上で集束し、凝縮するかのごとく丸く小さくうねりを帯びながら固まり、そしてその塊の中心が一気に爆ぜる。

 黒く小さな塊が其処彼処に飛び散り、音は聞こえないが『びちゃ』という擬音が出そうなほどに壁や床、天井にもこびり付いた。

 それは泥のように見えたし、煤のようにも見えた。

 それが意志を持って再びその蠢き、触手を伸ばしてきたのだ。

 どこまでも広がる影。

 床にも壁にも天井にも影が広がり、剥き出しになっている梁の一つ一つにも這い廻り、辺り一帯、家を覆う。

 それを気配で察知すると、サリドは静かに目を開けた。


「・・・くっ!」


 低く小さな呻き声が耳に入ってくる。

 それと同時にその黒い影から身をそらし、天井の中を逃げ惑う人影。

 その声のする方、天井へとゆっくりと視線を上げると、サリドが創り出した影が、逃げ惑う人影を丁度捕えたところだった。

 何本かある梁の一つに纏わりつく影が激しく蠢くのが見えた。

 梁に瘤が出来たかのように丸く大きく蠢くそれ。

 サリドはふっと笑う。


「何だ・・・!」


 断続的に呻き声が聞こえてくるその瘤の動きはさらに激しさを増し、その影を突き破って人の腕が出てきた。

 瘤はただの影の集合ではなく、家の中を這いずり回った時に潜んでいたものをも巻き込んでしまったらしい。影に縛られもがき苦しむその者は、哀れ抵抗虚しく影の呪縛から逃れることは出来ない。サリドの狙いはそこにあった。

 蠢く影は容赦ない力で梁から侵入者を引きずり下ろし、床に叩き付ける。

 鈍くぶつかる音と、更に大きい呻き声。

 苦しんでいるにも関わらず、影は嬲る様にその身を締め付ける。

 冷めた目でそれを見下ろし、芋虫のそれに似た動きをするその影に優越にも似た気持ちで近づいた。

 サリドが得意とする捕縛の魔法『影食み(かげはみ)』で、瞬時の出来事に対応できずに上手く影に捕らわれてくれた侵入者。それを見下ろすのは何とも爽快な事だろうか、と清々とした気持ちにもなった。


「さて、と」


 サリドが人差し指をクイっと上に上げると、影はそれに釣られるようにその身を侵入者と一緒に起き上がらせ、その侵入者の全貌を露わにさせた。

 顔の半分を黒い布で覆い、眼しかよくよく確認できないが、その風体から青年だった。年の頃は二十そこそこだろうか。

 顔を覆う布だけではなく、服の印象は巻きついている影に溶け込んでしまうような黒い衣装を身に纏い、闇に溶け合うようなその格好。

 ふむ、とサリドはその無様に釣られた侵入者を舐めるように眺めると、なるほどと言ってため息を吐いた。


「曲者は曲者でもこれは少し厄介そうだの」


 さも面倒だと主張するように肩を竦めて見せると、侵入者の目が不愉快そうに細められる。


「お前、私を殺しに来たのか?」


 おつかいに来たのかい?と子供に聞くような軽さでサリドは男にサラリと聞いた。

 男の眼は益々怪訝そうに歪められる。


「その格好、暗殺者かもしくは密偵か・・・。何れにせよ私にとっては良い者ではなさそうだが。そうさのう・・・密偵にしては眼が鋭いから、やはり暗殺者か?」


 いつになく饒舌にそして冷静に男を分析してみせる。

 暗殺者にせよ密偵にせよ自分にとっては危うい存在であるには変わりはないのだが。

 正体不明の恐怖を先ほどは味わったが、しっかりとこの目で確認できるものが目の前に現れたことにより安堵した部分があったのだろう。そして今のこの状況に優越感さえ感じているのだから、安堵どころかいつもの調子を取り戻しつつもある。


「沈黙は肯定の証か?」


 男に一歩近寄った。もっと男の表情を見るために。

 男は身じろぎながら、それでも見せるその表情や気配は射殺すように強く、揺るぎない。

 唯一見て取ることの出来る漆黒の瞳は、この世の一切を拒絶するようにギラギラと鋭く光り、サリドを酷く睨み付けていた。

 サリドはその警戒心剥き出しなその態度に、ふっと笑う。


「大方誰かの依頼なのだろうが、お前に聞いたところで答えはしまい。かと言ってこのままにしておくのものう・・・、私の身が危なかろうよ」


 相手が一切答えないのにも関わらずサリドは思った事を、相手の反応を探るかのようにポロポロ落としていく。

 それでも何も反応してこないのは余程口が固いのか、性分なのか。それともそう出来るように鍛錬を積んだのか。

 何れにせよ相手から情報を引き出すことが叶わないのであれば、ここで何かしら手を打っておくべきだと考える。


 さて、男をどうするか。


 このまま影で握り潰してしまえば楽にこの男を始末してしまえる。このまま殺してしまおうか。

 けれど、家が汚れてしまうのは面倒だし、暗殺者なのであればまた新手を用意されてしまう可能性も拭い切れない。後々面倒になりそうだから却下しておこう。後味も悪い。

 ならば一番いい方法は・・・

 そうだ、とふと思いついた。

 悪戯を思いついて今から行動しようと思うと、口元がついつい緩くなってしまう。それを誤魔化すように口をぐっと引き締め、男にまた一歩近づく。

 男はどこまでも寡黙だった。

 何も言わず、無言の抵抗を示すように激しく身体を揺らし、そしてサリドから眼を離さない。

 獣のようだと思う。

 押し殺しきれない殺気と、獰猛さ。

 影の呪縛を解いたら恐らく瞬く間にサリドの首を掻っ捌く。息つく暇もなく、見事に、綺麗に。喉元にその牙を突き立て、肉に食い込ませるその歪な音も、感触をも一つの快楽と感じながら。

 想像するだけでぞくりと身震いした。


「小生意気な顔しよる」


 殺気立つ眼をまっすぐ見据えながらわざと馬鹿にした笑いを含めて言ったのだが、そんな陳腐な挑発的な言葉にも眉ひとつ動かさない。ますます小生意気な奴め、とサリドは心の中で童心のような好奇心が刺激されるような歓喜を感じた。

 ゆっくりと嬲るように男に近づいた。その度に男が警戒心を強めてくるのが肌に伝わってきて、それが面白くて仕方がない。眼光は鋭くなり、近づくなと全身で訴えかける。

 そして、サリドはそれら一切を無視して、右手でそっと男の頬に手を滑らせ、口を覆う黒い布を下にずらした。思いのほか、男の頬は温かい。


「殺しはせん」


 ふっと意地の悪さを裏に隠し、憐みにも似た笑みで男に囁き、そして・・・


「だが・・・、お前にはある意味、残酷やもな」


 何かを呟き、そっと唇に口づけた。


 それは、何かの儀式のような口づけ。

 そっと触れ、そっと離す。

 男も、突然身に起きた事に為す術もなく、サリドのその理解不能な口づけを受け入れてしまっていた。

 茫然とする男の顔が、思ったよりも間抜けに思えて笑いを噛み殺した。いかにも自分に何が起こったのか、瞬時に理解できていない表情。いや、今なお理解出来ていないのだろう。

 先ほどのように睨むでもなく、威嚇するでもなく、ただ眼を見開き驚きを隠せずにいる。

 まだ込み上げる笑いを抑えきれずにいるサリドは、その男の表情を少し可愛らしく感じた。


「いつまでその間抜けな顔を見せておる」


 これ以上見せられたら噴出してしまう、そう思ったサリドは男を覚醒させるべく、わざと挑発するような言葉を選んで声をかけた。

 思惑通りその言葉に、我に返る男の表情に、また笑いが込み上げてきたのは思惑以上だったが。


「その顔に似つかわしくない、可愛らしい顔をしよって」

「・・・ちっ」


 言い返せないほどの失態に男は舌打ちをするしかなかったようだ。苦々しい顔を隠そうともしない。


「・・・何をした」


 だが、我に返った暗殺者はその威厳を保ちたいらしい。その可愛らしいと言われた不名誉な言葉を打ち消すように、低く地を這うような声で威嚇はするものの、笑うサリドの前では何とも決まらない。

 さて、この男は自分が何をされたか聞いてまたもやどんな表情を見せてくれるのだろうか。

 憤慨。絶望。それとも・・・


「・・・さて、な」


 口だけで笑い、さも含みを持たせたような言葉をわざと発する。謎は謎のままにして、この男の怒り以外の顔の裏に潜めた感情を引き摺り出すのもまた一興。

けれど違う。

 サリドが見たいのはもっと違うものだ。


「もうじき解るじゃろう」


 くるりと男に背を向けてその場から歩み出した。それと同時にサリドが右手をすっと上げると、男に纏わりつき拘束していた影が嘘のようにするりと身体から抜け出し、サリドの影へと戻っていく。

 油断したか。そう思ったであろう男はすぐさまサリドに牙を剥き、両手に隠してあった暗器をそっと出し、足音もなくサリドに向かって走り出した。

 男の腕に隠されていた短剣が鈍い光を放ち、その光がサリドの命を今にも奪おうとする。

 後はこの腕を振り下ろす。

 それだけでいい。

 それだけでよかったのだ。



 だが・・・



「どうした?殺さんのか?」


 男の鈍い光を放つ短剣の切っ先が、直前に振り向いたサリドの数センチ前で止まってしまった。

 それを揶揄するように笑い、挑発するサリドに腹が立ったが、だがそれでもこの剣を振り下ろすことが出来ず男は戸惑っている。

 見るところ相当焦っているのだろう。今まで殺気を身に纏っているかのように隙という隙を、自ら潰して一切作ろうとしなかったのに、今は溢れ出んほどの隙をその身に纏っている。

 なるほど、面白い。この男はこういう状況になると、全くの無防備になるのだな。

 自分の予想とは違った男のこの状況にサリドは興味深々と言ったか感じで、食い入るように観察する。さらに顔を近づけると男の息を飲む音が聞こえてきた。


「戸惑っておるようだの」


 然程表情を崩したわけでもないが、それでも十分すぎるくらいにサリドに男の戸惑い振りが量り知ることができた。

 さっきまで力強く睨めつけられた目は瞠目し、眉間の皺は消えないものの薄くなり、眉も先ほどよりも緩いカーブを描いている。

 思った以上の成果を得られたことに満足したのか、そのおよそ魔女には似つかわしくない儚い美少女のような顔に笑みを浮かべ、サリドは近づけた顔を元に戻した。


「魔法じゃ」


 唐突にそう言い、サリドは続ける。


「まぁ、魔法といっても死ぬようなものでもないし、お前の動きを封じるようなものでもない」


 男はますます当惑を見せる。声に出したり、大げさな動きを見せずに冷静に事に対処するのは職業柄なのだろう。そんな冷静さの中にも少しの変化を見つけてしまうとサリドはますます意地の悪い気持ちになっていまう。


「・・・これはな」


 男に手を伸ばし、左胸に手を置いた。触ると服の下に隠れている男の胸板の感触、そして心臓の鼓動がわかる。


「『魅了』という魔法じゃ」


 もう片方の手を背中に回し、男に抱きつき顔を胸に埋める。より男の鼓動を強く感じて、ほっとしたような嬉しいようなくすぐったい気持ちに包まれた。

 段々と早くなる男の鼓動と、熱くなる男の肌。こんなことをしても何もサリドにしてこないのは、自分の中に湧き出た感情にどう処理していいのかわからないのだろう。この鼓動と肌の熱さが何よりの証拠だ。

 ごくり、と唾を飲み込む音が頭上から聞こえた数秒後、男が少し掠れた声を絞り出した。


「・・・ま、さか」


 妙に熱い吐息と一緒に出た言葉は、サリドに先を促す。

 またサリドのな中で意地の悪い気持ちが鎌首をもたげたが、これ以上虐めるのも可哀想だと慈悲の心がその上に降り注いだ。


「・・・『魅了』。もっと簡単に言えばお前が私に惚れるように魔法をかけた」


 ビクっと一瞬震える男の体。サリドは宥めるように抱きしめる腕の力を強くする。


「お前の身体がこんなに火照っているのも、殺そうとしてその手を下せなかったのも、・・・そして今私を振り払えないのも、全て」


 胸に埋めていた顔をあげたら男と目があった。男のその目はもう困惑というより驚愕に近い。

 それでも声一つ上げない男に感心してしまう。だが、それもダム決壊の一歩手前といったところだろうか。先ほどの慈悲は非情な鎌首に再度払い投げられ、サリドの悪魔の心は男に止めを刺さんと、花も羨むような溢れんばかりの笑顔を向けて一言言い放つ。


「私を愛してしまったからだよ」


 足元で男の短剣が床に落ちる音が聞こえてきた。




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