織田国始動
豊臣家の大評定が終わり、織田秀則は岐阜城に入った。まだ織田国の範囲が定まっただけで細かい事は何一つ公表されていない。秀則の本拠城も新たに造るのか、それとも適当な城に入るのかさえもだ。取り敢えずといった形で秀則は岐阜城に入ったのである。
秀則もまた家臣を集めて評定を開いた。織田国の形を決めておかねばならぬからだ。
評定には一門衆として織田秀信、織田有楽斉、織田秀勝、織田信包が参加。直臣から斎藤徳元、大岡左馬介、松平康重ら、新たに家臣となった旧徳川外様大名の九鬼守隆、蜂須賀至鎮、豊臣家から織田家に移籍した加藤清正が参加した。秀則は進行役に有楽斉を命じた。有楽斉は常に一歩引いた考え方のできる者であり、故事に精通しているし人望もあったから適役であったといえる。
「それでは織田国建国の初評定をはじめましょう。まずは織田国王・秀則様のお言葉を……。」
有楽斉は穏やかに切り出した。甥っ子である秀則をしっかりと立てた言い回しで、秀則を促した。促された秀則は一つ頷くと口を開いた。
「皆の者、御苦労である。こ度、我が織田家は国を建て治めて行く。治世の地が六カ国と相成ったが、甘んじる事はない。我が治世が形を残せば好機が訪れ治世の地が広がる事もある。まずは領内をしっかりと治めねばならない。各々は織田の臣たる自覚を持ち、それぞれの役目を果たすのじゃ。また関白豊臣家とは手を携えていく。皆の者、励め! 」
秀則の言葉であった。秀則は豊臣の臣として力を蓄え、秀頼の信を持って建国に至った。家臣を激励するその姿は威風堂々としたものであった。
「まずは各々方の役を申し渡します。まず王都ですが近江がそうなりまする。王城は彦根に建てます。普請は奉行に清正殿が務めていただく。支えるは副奉行として秀信殿。
次に各領の長ですが美濃領主に斉藤徳元殿、尾張は秀信殿、伊勢は塩川孫則殿、伊賀は松平康重殿、志摩は九鬼守隆殿でござる。今、名の出た方も、それ以外の方もそれぞれの直領は国王が決めお伝えいたしまする。」
【ほう。一門衆は秀信殿だけが領主か。斉藤道三の地を引く徳元が美濃。水軍を率いる事になろう九鬼守隆は志摩。配下に良き忍びを抱えるという松平康重を伊賀。故事に精通する塩川孫則を伊勢か。なるほど適材適所、しがらみを捨て能力重視と言うことか。】
そう清正は思っていた。
物思いにふける清正の耳は有楽斉が奉行職を告げる声を聞いていた。やがて役職が言い渡され終わった。頃合いを見て秀則が再び口を開く。
「我も各領を見て回るが、領主を務める者は月初めに我の元に参じ詳細を述べよ。それから織田国では家老職は廃する。また各奉行職や領主に序列はない。我の命は直に申し渡す事とする。追々細かき系統は、時期を見て整え伝える。」
こうして織田国評定は終わる。
【家老職を無くす? それで纏まるのか? 儂を軽んじておった秀忠の所を辞してきたが、この国はなかなか面白いかもしれぬな。】
じっと観察するように眺めていた九鬼守隆は思っていた。守隆とすれば秀忠を嫌い、徳川家を離れることにしたものの、豊臣に帰参しても来島長親がおり水軍に携わる事は出来なそうであった。そこで居場所があるやもしれぬと織田に参じることにしたのだった。
評定が終わり、九鬼守隆は秀則に呼ばれた。
「守隆、その方は半年で精鋭なる織田水軍を作り上げよ。水軍をその方の第一の仕事とせよ。志摩の領内の仕置はその間は小坂雄長に任せる。雄長ともよく談合し事を進めよ。」
秀則は九鬼守隆にそう命じた。守隆は体の底から力が湧いてくるのを感じていた。豊臣や里見の誇る鉄甲船は元は信長に命じられ九鬼嘉隆が建造したのであった。その頃は世界一の水軍だったのである。九鬼家のお家芸とも呼べる水軍の構築ができる事に喜びを感じていた守隆であった。
守隆を呼んだように、秀則は次々に人を呼びつけ命じて行った。
情報奉行という聞きなれない役を貰った松平康重は伊賀の領内を情報収集の拠点として整備するよう命じられた。織田国内、豊臣領内、伊達勢力内、黒田勢力内、徳川領内の情報の他、諸外国の情報を取りまとめられる組織造りを命じられたのだ。とりわけ阿蘭陀と台湾の情報収集に力を入れよとのことであった。康重は配下の者にそれぞれ情報組頭という役職を与えて情報を収集し組織造りに取り組んでいく。
人を見る目がある大岡左馬介は登用奉行となったが、諸国から人材を探してくるよう言われた。文武のどちらに秀でた者を求めているのか左馬介は聞いたが、秀則の返答は左馬介に一任するとの事であった。登用に関しては浪人に限るとされ何処かの家に属している者はならぬときつく言われた。
織田国は動きだした。それぞれの命を受けた者達が慌ただしく精力的に!
織田秀則は何を考え、何処を目指しているのだろうか。今はまだ誰も理解していない……




