正式な和睦
1616年9月10日、伏見城
豊臣秀頼と徳川秀忠は和睦の儀を取り行った。形式上、間を取り持つのは朝廷で、朝廷からの使者が代理を務める。幾つかの決まった形式にのっとり、式は無事に終わる。それからは朝廷の使者を帰し、秀頼と秀忠の二人だけで最後の詰めである。この時代の書面と言うのは決して重いものではない。あとから書面に書かれた約束事を反故にするのは日常茶飯事であった。
そんな戦国時代で、珍しく口約束の同盟関係が続いた例が一つだけあった。織田信長と徳川家康、すなわち織田家と徳川家の同盟関係であった。
一、互いの領土へ不可侵とする。
一、互いの家が侵略された場合、その敵方に対して全て事柄で助力はしない。
一、互いの家の家臣が、この和睦に反する行為をした場合、速やかに其の者を引き渡す。
一、豊臣家は徳川家が三河、遠江、駿河、伊豆の四カ国を治める事を認める。
一、豊臣家は徳川家外様大名として浅野幸長、最上義光の二家のみ認める。
一、徳川家は豊臣秀頼の関白職を認め、豊臣家は徳川秀忠の将軍職を認める。
一、豊臣、徳川両家は三年後の正月に同盟関係締結を目指す。
以上が二人でかわされた和睦の内容である。いかに徳川家に不利かわかるであろう。
事実上、徳川家は四カ国に封じ込めらた形であり、領土を増やす事も出来なくなった。頭打ちである。
何故、秀忠はこのような条件を飲んだのであろう。
十六年も続く豊臣家との戦に疲れ果てていた。それに豊臣家の勢いに押され、いずれは家の存続すら危ういと思っていた。今の内に和睦し家名の存続を図ったというのが本音である。徳川家の誇る四天王と言われた重臣達も本多忠勝一人しか残っていない。将の質が豊臣家と比べて明らかに劣っていたのも原因であった。
「秀忠の器量なしが! 和睦だと!? 家康殿もあの世で泣いておるじゃろうて。だが、このままではいかん! 長政! 長政ーっ! 」
黒田官兵衛は清州城で豊臣・徳川の和睦に憤慨していた。と同時に徳川家を仕えぬ以上、清州に留まれば豊臣家に攻められるのは目に見えていた。黒田家の表上の当主・長政を呼びつけて兵とありったけの兵糧などを持ち、一路、石見に向かった。石見は豊臣・徳川の和睦まで徳川家の領土であるが、和睦後は豊臣家に引き渡される。その混乱の隙を狙い石見の国を掠め取ったのだ。石見は銀山があり重要な地であった。石見の西は配下に従えた毛利輝元の治める長門東部と接している。
東北の将達、南部利直、津軽信枚も徳川家に与することをやめたが、豊臣家に従うこともしなかった。両者は伊達政宗に従うことにしたのであった。東北で伊達政宗を盟主とした大きな勢力が生まれたのであった。豊臣家に従う佐竹義宣は東・北を伊達連合に対することになってしまった。南は徳川外様の最上でありそれだけが救いであったが。伊達政宗の狙いはどこにあるのか今はまだ分からない。
ようやく十六年に渡る豊臣家と徳川家の戦は終わった。
しかし、毛利・鍋島を押さえた黒田家、陸奥国仙台辺りを広く治める伊達政宗などに対して行かねばならない豊臣秀頼であった。
第三章 徳川家の衰退 完了




