伏見城奪取!
大阪城に詰めている兵は八万人である。多くの兵が長い間に戦もなく詰めていると、気が膿んでくる。
また、秀頼の直轄領は大阪・摂津の六十五万石しかない。現在は多くの富を蓄えているが、戦が長引けば減る一方である。豊臣方の威を示すためにも所領を増やす必要があった。
そこで利長は京都の伏見城を奪取しようと決めたのである。伏見城は秀吉の隠居城として建立されたがその後秀頼が大阪城に移ると、家康が入り家康の居城とされていた。先の関ヶ原の大戦でほとんど焼け落ちてしまっていて、先年、家康が建てなおさせた城である。
家康としては大阪城に対する第一線の城として機能させるつもりであったが、真田信幸の挙兵、上杉の不穏な動きに備えるため戦術的なテコ入れは後回しにせざるを得なかった。現在は三千あまりの兵で守らせているだけである。
豊臣方としては伏見城を抑えることで兵糧を多く手に入れるということは期待できない。それなりに城下で生産される米によって兵糧は増収になるが、思ったほどは田畑は少ないのだ。だが、それ以上に京の町から得られる金銭収入が大きいのである。
信長・秀吉が他の武将と違うところは銭の価値を理解していたことである。それまでの米による税の徴収ではなく、銭に換算し、また銭による徴収も行った。津島や堺の支配を信長や秀吉が行ったのはそのためで、この時代になっても銭の仕組みを正しく理解している大名は少ない。
京は文化の発する地でもある。文化が発するところには銭が動くのである。この時代の大名は米を徴収し、軍備を揃えたり、家臣の手当てを払うために堺などで米を売り銭に変えていた。その堺を収めることは敵である徳川方の大名からも収入があるということである。その堺は豊臣領であったのだが現在は徳川の直轄領である。流通の発信源でもある京を手に入れることで、富が増えていくのである。このころの京都は大阪に次ぐ経済都市であった。
一六〇四年九月、大阪城から信幸に宛て保科正光の守る高遠城に寄せるように命を出した。これは信幸が動くことで関東の徳川方を牽制する狙いがあり、決して無理をして攻めかかることのないように指示を出していた。無理をして信幸が討たれるような事になれば豊臣方の士気は大きく下がるであろう。
こうして関東の動きをけん制しておいて、いよいよ伏見城を攻めることになった。
先手は明石全登が鉄砲隊八百を含む二千の兵で務め、中備は真田幸村の長槍隊二千、後備に塙直之の騎馬隊二千、大将に長宗我部盛親の三千の計九千の兵で夜半に出陣し、翌朝には伏見城の大手前に布陣した。
伏見城の守将は関ヶ原で討ち死にした鳥居元忠の二男の鳥居成次である。成次は敗戦の将であった石田三成を家康より預けられたが誣いることなく、丁寧に接した。家康に対し、三成を私怨による誅殺でなく、法による処罰を求めるなど信義に厚く侠儀のある武将であった。守兵は三千で鉄砲は所持していなかった。大阪城と目と鼻の先でありながら火器を配置しない吝嗇な家康であった。
大手に豊臣方に寄せられた成次は、覚悟を決め大手門に三千すべての兵を集めた。ありったけの弓を持たせ、急ごしらえの井楼三機に腕自慢の弓手を集め、井楼には板塀で防御を施した。
「土佐の鬼と言われる長宗我部盛親殿であれば相手にとって不足なし、ものども鳥居の意地を見せようぞ! 」
成次は兵を鼓舞する。
「おお! 」
兵達も雄々しく答える。
三倍もの敵を目の前にしながら鳥居勢は意気盛んである。
「明石殿、まずはあの井楼がじゃまでござる。あの井楼にめがけ鉛弾を撃ち込んでくだされ、して大手門にとりついてくだされ。」
「長宗我部殿、わかり申した。なんとか大手門を破ってみましょう! 」
そういうと明石隊は態勢を整え、兵達に向かい大声で発する。
「者ども、あの井楼が目障りである! 鉄砲隊四百はあの井楼めがけて鉛弾を撃ち込め!」
『ダダーンッ』
と地を揺るがすような音が響く。
「無念! ……」
井楼から様子をうかがっていた鳥居の兵が十数人が撃たれて叫び声をあげながら井楼から落ちてゆく。
すぐに井楼に鳥居の弓兵が補充される。
「うむ敵は多くの鉄砲を持っておる。ものども怯むな! 矢を放て~! 」
鳥居配下の大将が叫ぶ。
『ひゅんひゅん、ひゅんひゅんっ! 』
雨のように矢が明石隊に降り注いでくる。
明石鉄砲隊は、当然鉄砲による反撃があるであろうと板塀を隙間なく立てていたのだが、敵の反撃は弓であり、上方から弓なりに射かけられた。そのため板塀は用をなさずに、二十名あまりの鉄砲兵が討たれてしまった。
「うぬ、小癪な! 鉄砲隊、続けて井楼を撃て! 敵の反撃がなくなるまでうち続けよ! 」
全登の檄を受けてすさまじい攻撃が続けられた。しばらくは鳥居隊の反撃の弓が射かけられる。辺りは銃撃の紫煙でおおわれる。紫煙が晴れた時には井楼からの反撃は途絶えていた。井楼にいた弓兵はすべてが命を落としたのであった。
この時点で籠城方の死者は百五十名、攻城方は二十名であった。
井楼からの反撃がなくなったのを見た全登は足軽兵五百に大手門へ突撃を命じた。
「敵は鉄砲を持っておらぬようである。さすれば大手門など簡単に打ち壊せよう! ものどもかかれっ! 」
掛け矢を持った足軽が走って行き大手門にとりついた。すると大手門横の狭間から矢が射かけられた。
先を走ってきて門にとりついた数名の兵はあっという間に倒された。したが五百名の兵が一気に攻めてくればどうにもならない。逆に狭間から槍を突き出されて弓手はつき殺されてしまった。
なすすべもなく城門が打ち壊される音を聞いていた鳥居成次は、兵たちに向かい叫ぶ。
「もはやこの城は長くはもつまい。この城の裏手には敵勢はおらぬ。みな落ち伸びよ! されど我と共に最期の一戦をするものはここに集ってくれ」
そういうと騎乗し兜の緒を締め直した。周りを見ると驚いたことにほとんどの兵士が残っている。
「やや、儂の言っている意味がわからんのか? 我と共に残るということは死ぬということぞ! 命を無駄にせぬとも良い! みな落ちよ! 」
「殿、殿と最期までお供いたしまするっ! 」
兵達の声を耳にし感激の涙にくれながら成次は声を上げた。
「よし、皆の心はようわかった! ならば死ねや! 門を開けよ! 」
明石勢が大手門にとりつき打ち壊そうと丸太で打ち込んでいる時に、大手門が内側から開かれた。
中から槍隊を先頭に怒涛の勢いで敵勢が出てきたのである。みな眦をきっとあげて鬼のような形相で全体がまるで一つの大きな槍のように突き進んでくる。
対する明石勢は勢いに押され左右に分断される形になってしまった。明石全登も必死になって兵を纏めて当たらせているが、徐々に押し込まれて旗本までが打ち取られはじめた。鳥居隊も兵をどんどん減らしながらも臆することなく攻めてくる。
「殿、いけませぬ、ここは一旦お引き下され! 」
全登の旗本が叫ぶ !
「うぬ、悔しや! したがそちの言うことはもっともじゃ! ものども一旦引け~っ! 」
明石全登は退却を命じた。見事な完敗である。敗走した明石隊は中揃の真田隊に雪崩れ込んできた。
「やや明石殿の隊が雪崩れ込んできたわ! これはいかん! 敵は死ぬ気で突っ込んでくるぞ、怪我しては損ぞ! 」
幸村はすばやく兵を纏め、右後方に下がらせた。まっすぐに下がれば後備以後の陣にも影響が出るためである。戦経験の少ない幸村であったが、このあたりの勘の良さはさすがに真田家である。
遮二無に突きかかった鳥居隊は急に開けた左手に向けて進んで行った。
「これは道が開けておる! みなのものあの左に突き進んでゆけ! 落ち伸びてまたの機会があるやもしれぬ! 」
鳥居隊は一陣の風のように明石隊を突き破り、真田幸村の開けた道に逃れて行った。この時生き延びた鳥居隊は僅かに二百あまりであった。二千五百名以上が打ち取られたのである。
鳥居成次は去り際に、真田隊の方に向き直ると深々と頭を下げて一言発し去って行った。
「御好意、感謝いたしまする! 」
この鳥居成次の突撃は後に明石全登が『鳥居の突撃は天下一じゃ 』と言ったという。
実は伏見城攻めと合わせて、利長は堺攻めをも命じていた。堺には徳川の代官がいたのであるが、直江兼次率いる五千の兵であっという間に駆逐した。堺の商人はもともと豊臣家に好意を持っていたため、実に素直に豊臣の統治を認めたのであった。
堺には奉行として、加藤清正の所から送られてきた毛利勝長が三千の兵で守ることになった。毛利勝長は豊前・小倉で六万石を拝していた毛利勝信の子で、関ヶ原の戦いでは西軍の豊臣方に属し功を上げたが、戦後に家康に改易され、加藤清正に預けられて臣となっていた。清正は本隊はすぐには動けないが、何かの役に立てばと勝長を送りだしていたのであった。
かくして明石隊の半数以上が討たれるという被害が出たものの、伏見城は豊臣方の手に落ちた。
こうして伏見城には城代を長宗我部盛親として、真田幸村、塙直之の二将が入り八千の兵で守ることになり、明石全登は大阪城に戻ることになった。大阪城では将が足りないので仕方がない事である。
伏見城はすぐに堅固にするよう造り替えが命じられた。
伏見の城下も関ヶ原の戦い以後は荒れて寂れていたがすぐに街割りが行われ、整備を進める。特に伏見城と目と鼻の先の向島城の跡地には堺より鉄砲鍛冶が集められ、鉄砲生産地として整備される。
この向島には板倉昌察が二千の兵で守りを固め、鉄砲鍛冶村をとり囲むように板倉家の家臣たちが屋敷を作り守り、さらに島の外周には塀を立て要所には櫓を建てた。さながら要塞である。
この伏見城、堺、向島が豊臣の手に落ちた事は、すぐに全国の大名たちの知るところとなる。家康のことを嫌っているものの、仕方なく家康に従っていた各地の国人たちは胸のすくような思いがして、豊臣方に与したいと願い出る者も多く出てきたのである。
鳥居成次は家康の居城・駿府城に逃げ落ちた。家康は伏見城を盗られた鳥居成次に対し、激しく叱責し、蟄居を命じた。これに対し憤慨した鳥居成次は、しばらくのち、一族郎党を引き連れ、いずことなく姿を消した。