英傑の最期
…黒田如水のように、蘇った者もいれば、逝く者もいる…
1616年7月7日 七夕
駿河国・駿府城
徳川家康が倒れた。
昼過ぎ、家康はいつものように居室で日の本の地図を広げ思案にふけっていた。
その時、急な腹痛を覚え、吐血し倒れたのである。
すぐに天医が呼ばれ診たものの、天医は首を横に振るだけであった。
本多正信は、事実を知る家康近衆の者を監禁し、事が洩れるのを防いだ。
その上で、当代である秀忠の元に自ら馬を飛ばし事を告げに行く。
「上様、これは徳川の一大事にございまする。対応を間違えますれば、お家が揺らぎ諸国が騒ぎまする。」
正信は秀忠と二人きりで対応を協議していた。それほどまでに家康の容態は良くなかったのである。
「ふむ、で父上はいつまで…。」
秀忠は最期は言葉を濁したが、いつまでもつのかと問うた。
「は、三日とは…。」
「二郎三郎は今、どうしておる?」
「それが、先年、逝きました。」
「なんと、そうであったか…。して二郎三郎の後は?」
「見つけることかなわずに、今まで。」
二郎三郎とは長年家康の影武者を務めていた世田二郎三郎の事である。表に家康が顔を出さねばならぬ時、そつなく影武者を務めていた者であった。
その世田二郎三郎は昨年、胃の腑を患い他界したというのだ。
「二郎三郎がおらぬ、して代わりの者もおらぬ。というのであれば、もしもの場合、秘匿するにも限度があるの。」
「さようでございます。」
「もしもの場合の事を良く考えねばならぬ。諸国はどうなると、そちは思うか?」
正信はその問いには答えず、こう述べた。
「は、その前に、将軍家を潰すわけには参りませぬ。この意は同じゅうしとうございまする。」
「無論である。
じゃが、そなたは余に反目しておるのでないのか?」
「いいえ、私目は徳川に仕える身、徳川にとって良いと考える最善の手を模索して意を申しておったまで。よからぬと私目が思うたことは大御所様の意であろうと、意見を述べさせてもろうておりました。」
「ふむ。でそちの思う所を述べよ。」
秀忠と正信は大御所・家康が他界した際の対応について協議したのである。
その結果、
できる限り、家康の死を秘匿すること。
譜代大名にある家康派、秀忠派の垣根を外し、纏めあげること。
外様大名に対しては、改めて将軍家へ忠誠を誓わせること。
と意見が一致した。
二人の意が違えたのは、
秀忠は豊臣方と和睦するとした。
正信は和睦はならずとしたのである。
正信は、徳川の世に、将軍家に納まるまで、幾多の血が流れ、幾ほどの忠臣の犠牲があったかを訴えた。家康亡き後、和睦を申し入れても豊臣に足元を見られるだけであるとも述べた。
秀忠は、押されてはいるが、今であれば豊臣方と五分に渡り合える。しかし、この先は見えず、版図が目減りしていくと見て、現状での和睦を求めていた。
「上様、憚りながら申し上げます。大御所様なればこそ、豊臣と五分に、いや一時は飲み込む寸前までに追いこめたのでございます。その大御所様亡き後、上様で豊臣と五分に渡り合っていけましょうや?
否!でございます。
今や豊臣方には恩顧の大名達が戻り、勢いもございます。
かたや我が方と申しますれば、譜代の力は弱く、外様に頼る所が大でございます。
ここで和睦などすれば、外様の者達は、徳川を離れる事は目に見えており申す。いずれ徳川家は埋もれましょう。
ここは、譜代の力をつけさせ、上様の威を示し外様を従わせるほかありませぬ。」
「いや、正信。余に力がないからじゃ。じゃから先細ってしまう前に和睦するのじゃ。その後に譜代や外様に対する策を講じるのじゃ。」
談合は深夜まで続いたが、二人の意見は平行線で交わる事はなかった。
結局、結論の出ないままであった。
7月11日 家康は正信、秀忠の両名のみが見守る中、息を引き取ったのである。
東海一の弓取りと言われた英傑・徳川家康の最後であった。




