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秀吉の遺言  作者: 鳥越 暁
徳川家の衰退
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惟新斉、逝く!

 豊臣秀頼は佐竹家を調略するため島津惟新斉を佐竹氏の元へ向かわせたのであるが、それより早く徳川秀忠は、佐竹氏の重臣たちと誼を通じていた。


それは梅津憲忠であった。


秀忠は佐竹家当主・義宣に里見氏討伐か伊達への合力を強く勧めていた。佐竹家と言うと1602年の秋田転封後、領内経営に力を入れ、その中で梅津や川井氏などの新参者を能力重視で重用していた。はじめ憲忠は秀忠に主君に助言を与えよと再三言われていたのであるが、やっと領内の仕置が形になり、戦で多大の財を吐き出すのは大変であると思い、何かと理由をつけてはお茶を濁していた。秀忠は憲忠の内政手腕、人格ともに高く評価しており何としても手駒にしたかったのである。


 秀忠はいくら領内を良く治めても転封になれば、またやり直しであると、なかなか靡かない憲忠になかば脅しをかけた。また佐竹家が秀忠の意に従うのであれば、加増してもよいと、その気にさせるような甘い言葉もささやいたのである。


 さすがに主家が転封されてはかなわじと、憲忠は頭を悩ませていたのであるが、そんな折、島津惟新斉がやってきたのである。調略に来たのは明らかであった。

 この時、憲忠は秀忠の意に沿う決意をしたのである。すぐに主・佐竹義宣の元を訪れ、秀忠の意を伝えた。地方戦では豊臣方が勝ち戦を続けているが、長い目で見た時、まだまだ徳川方が有利であると。秀忠の意に従い伊達に合力を強く勧めた。

 しかし当主の佐竹義宣は故・石田三成らと仲が良かった事もあり、首を縦に振らなかったのである。そして義宣は梅津憲忠に蟄居を言い渡した。憲忠にとっては、己の才を見出だし伸ばしてくれた義宣に心からの忠誠を誓っていたのである。しかし人の心は分からないもので、憲忠の義宣に対する思いは「可愛さ余って憎さ百倍」というように憎しみを抱くにまで変化していった。


 蟄居を言い渡されて数日後、憲忠は惟新斉の元を訪れ、いきなり切りつけたのである。惟新斉は一命は取り留めたものの深手を負った。


 佐竹義宣は涙しながら惟新斉に詫びた。

 「ご入道殿、申し訳ござらぬ。手前の家臣が大変なことを…。」


 その後、義宣はきっと眦を決し、こう続けた。

 

 「ご入道殿、関白様には誠に申し訳なけれど、我が家臣の意を真剣に受け止め、話をしてやれなんだ私目が悪うございまする。ご入道殿を手に掛けた梅津憲忠は成敗いたしました。罪深きやつなれど奴は誠の忠臣でござった。儂は豊臣家に従うことはございませぬ。申し訳ありませぬ。」

 こう言って何度も畳に頭を擦りつけ詫びたのである。


 それに対し惟新斉はか細い声で、こう告げた。

 「致し方ありませぬな。良いご家臣を持たれなすったな。したが、気の済むまで戦をされ、お心の喪が明けましたら、豊臣にお戻りあそばされよ。貴殿は豊臣の旗の元が良く似合う御仁じゃて…。」

 惟新斉は義宣が自ら成敗した家臣のために戦場に出ることを良く分かっていた。その上でいつかは帰参せよと述べたのである。


 義宣はただただ黙って頷いていた、泣きながら。


 義宣が詫びた二日後、惟新斉は静かに息を引き取った。

 1616年2月1日の事であった。

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