上杉領侵略される
1614年8月
徳川秀忠は下野国・宇都宮十万石の奥平家昌の所に宮部長房に五千兵を預け送った。
この時、奥平家昌は病に伏せっており、奥平家は宮部長房に実質差配させることにしたのだ。秀忠が長房を宇都宮に送ったのは、伊達と合力し、上杉を叩くためである。この際も家康の許可を得ることなく、秀忠の独断である。更に秀忠は下野・那須三万七千石の成田長忠や同じく那須で二万石を拝する大関晴増に、長房の指揮下に入ることを命じた。
宮部長房は寄騎となった二人に命じた。成田長忠には成田・大関両家の兵を合わせた千名を率い、宇都宮城に参陣させ、大関晴増には宇都宮の留守居を命じた。
宮部長房は成田長忠を先鋒とした軍勢八千を率いて、陸奥・磐城に向けて出陣した。
この時には徳川秀忠から伊達政宗と最上義光に宮部長房と時を合わせ上杉の本領である出羽・米沢を攻めるよう命じた。長房には米沢を南から、政宗には東から、義光には北から攻めさせることにしたのである。この上杉討伐軍は伊達政宗二万、最上義光一万、宮部長房八千の合計三万八千である。
対する上杉は米沢城に八千、越後に三千であり兵力でいえば徳川方が圧倒的に有利であった。
陸奥磐城は鳥居忠政が十万石で治めていた。秀忠が兵糧支援や軍役を命じたが動こうとはせず、形ばかりの兵糧を長房に与えただけであった。鳥居忠政は親家康派であり、家康の顔色を伺い秀忠には非協力的な姿勢を見せたのである。
伊達政宗、最上義光もどちらかと言えば秀忠を軽視している。武将の格で言えば心中では秀忠など相手にしていないと言ってもよい。ここ数年家康に上杉討伐を命じられ続けていたが、形ばかりの進軍でお茶を濁していた。今までの家康の行動言動を見るに、上杉領切り取り次第と言ってはいるが、後で難癖を付けられるであろうと思っていたのであった。
しかし、政宗は秀忠と家康の対立が表立って聞こえてくると、その隙に版図を広げ、秀忠、家康のどちらかに恩が売れると計算したのである。政宗は最上義光にも使者を送り、賛意を得たのだった。
理由はどうあれ伊達政宗、最上義光は、今度は本腰を入れて上杉領に雪崩れ込んできたの。すぐさま上杉に従っていた米沢の北、東方面の土豪たちを支配下におさめ、米沢城に対して遠巻きに陣を敷いた。米沢の地は、元々伊達が治めていた事もあり、土豪達を取り込むのは、さほど難しくはない。
最上義光は飯塚館、小其塚館にそれぞれ五千兵を入れ、伊達正宗は長手館に一万兵、その周りに一万兵を野営させている。米沢は伊達、最上の侵略により一二万石ほど上杉領を減らしてしまった。
宮部長房は磐城から米沢に入り、南から上杉領に入り進軍を続けた。
上杉景勝は八千の兵で米沢城に籠り、直江兼続には越後から二千を米沢城の西の館山城に入れた。すべての兵で籠城することに危機感を抱いていたのだ。
さて伊達、最上の進軍を伝え聞いた越後の仙石秀久はすぐさま援軍に向かうことを決めた、僅か千兵であるが。前田慶次郎の本城・福島城にも事を知らせ、城代の戸波定次に慶次郎の許可を得ることを求め、そのうえで合力を依頼した。戸波定次は慶次郎の許可をすぐに取り付け、秀久に遅れること十日で千五百兵を率い米沢に向かうことになった。また真田信幸も仙石秀範に五千兵を預けて、同じく上杉の援軍に向けさせたのである。仙石秀久を中心とした豊臣方援軍は合計七千五百兵である。援軍の大将は秀久が務めることになった。
秀久は、南から米沢城に寄せている宮部軍に当たることを決めた。兵力はほぼ互角である。
秀久軍が米沢城下に付いた時には、宮部長房軍は米沢城のすぐ南の笹の山館に陣を構えており、今にも米沢城に寄せる気配であった。
宮部長房は、改易の憂き目からようやく日の目を見れたことで意気込んでおり、伊達、最上に負けるものかと鼻息が荒かったのである。そのため寄騎の成田長忠に対して横柄な態度で、まるで家臣のような扱いで接していた。当然ながら成田長忠と長忠率いる千の兵達は面白くなかった。また長房の率いる兵は秀忠の兵と奥平家昌の兵を借り受けたものであり、いわゆる寄せ集めで長房自身の兵はいないのである。当然、兵からの信頼も得られてはいない。
成田長房は嫡男・氏宗を密かに仙石秀久の元へ使者に出した。
「儂が仙石秀久である。成田長忠殿のご使者とはいかなる用件じゃ。すぐにでも刃を交えようとしている時である。手短に申せ。」
「は、父・長忠は宮部長房殿から翻意し、秀久殿の陣に加えていただきたいとの事でございます。」
「何!? この期に及んで翻意すると? もし左様であれば、手前は成田殿をお迎えいたそう。しかし、翻意は戦になった折に見せていただきたい。」
秀久は、成田長忠の真意がわからず、俄かには信じられなかったのである。そのため戦場での寝返りを求めたのである。もしこの話が罠であれば、戦場での寝返りはないであろう。その時は槍を付けるだけの事である。本当に寝返るのであれば、それはもちろん良いことである。どちらにしても損はないと返答したのである。
「は、なれば戦場にて! 」
そういって氏宗は秀久の陣をあとにし、宮部長房の陣へ帰っていった。
宮部長房は陣の南より寄せてくる仙石勢に対して成田隊を先鋒に命じた。
それに対し成田長忠は、返答する。
「長房殿、先鋒に任じていただきありがたきこと。なれど仙石勢は鉄砲もかなり持っておるようでございます。ここは長房殿の鉄砲隊をお貸し下され。緒戦は鉄砲の撃ち合いとなりましょう。急遽出張ってきた仙石勢は煙硝はさほど持参していないはず。じきに撃ち合いが終わりましょう。その頃合いを見て、我が隊は千兵全軍で突撃いたしまする。長房殿は是非に後ろから支えて下され。」
長忠はいきなり前面に立たされることを嫌い、長房の鉄砲隊を前面に出そうと企んだのである。長房は長忠の戦意の高いことを喜び、何の疑いもなく、持てる鉄砲隊全てである千兵のうち本陣を守る二百を残して八百を長忠の前面に配したのであった。
ほどなくして仙石勢の銃撃により戦火が開かれた。激しい銃撃戦が展開される。
やがて双方共、ほどほどの被害を出し、銃撃音はまばらになってきた。鉄砲による戦は膠着状態になるのかと思われた頃……。
それを長房の鉄砲隊の後方で眺めていた成田長忠はにやりと笑う。
「ふふふ、頃合いよしじゃ! 皆の者、前におる鉄砲隊めがけて突進せよ! 鉄砲兵を討ち取り、鉄砲を奪って、仙石殿の陣まで走れ! 皆の者白い鉢巻きを付けることを忘れるでないぞ! 」
と命じたのであった。白い鉢巻きは秀久との面会の折、取り決められていたのである。
『どどどどどっ!! 』
秀久軍に対していた鉄砲隊は後方から大勢の人の寄せる音を聞いていた。成田隊であろうと鉄砲隊の兵達は思っている。話によれば、成田隊は我らの間を抜け秀久軍に突撃して行くとのことであった。
しかし、成田隊は抜けていかず背後から槍を突きだしたのである。
「なんだ!? これ! 我らは味方じゃ! 敵はまだ先じゃ! うっ! ……み、味方じゃ……。」
背後から槍を付けられたのではたまらない。宮部長房の鉄砲隊は壊滅し、三百兵ほど討ち取られた。残りの五百兵もほとんどが鉄砲を投げ出し逃げ散ってしまった。
「やや! 長忠め! 裏切りおったな! 裏切り者の成田長忠を討ち取れ! 」
宮部長房は激しく怒り、成田長忠隊への突撃を命じたのであるが、長忠隊はすでに秀久隊に吸収されてしまっていた。
「うぬ、許さんぞ! 」長房は地団駄を踏んだ。
鉄砲隊が壊滅し、戦意のさほど高くない宮部隊の末路は哀れなものであった。秀久隊に存分に槍を付けられ壊滅し、宮部長房はほうほうの体で逃げ出したのである。
仙石隊に迎えられた成田長忠に、秀久は笑顔で言う。
「成田殿、よく参られた。貴殿の処遇は関白様がお決めになる。それまで手前と同行されたし。したが残してきた御家族が心配でござろう。氏宗殿をすぐにでも本国に帰国させ御家族をどこぞへ匿われた方がよい。」
「は、ありがたきこと。では早速、愚息を本国に向かわせまする。が実は大関晴増殿もお味方にお誘いしたいのですがよろしいか? 」
「ふむ、あくまで関白様のご裁量になるが、きっと認められよう。」
このようなやり取りの後、成田氏宗は那須に向かった。
成田氏宗の話を聞いた大関晴増も豊臣に参陣することを決め、宇都宮城を退き、本国へ帰った。氏宗と相談した結果、両家の妻子は少し離れた寺に預けられ、両家は成田家本城の烏山城に入城し守ることにしたのである。晴増の本城・黒羽城は守兵を置くことなく据え置かれた。これは両城合わせても留守居兵は僅かに七百あまりで、分散するより纏まった方が良いと判断したのであった。
豊臣秀頼は成田長忠、大関晴増の豊臣方に与することを認めた。しかし、両家の本領は徳川勢力圏内であり、立ち行かないと判断し、当面は仙石秀久の寄騎とし本領は後々宛がうこととした。烏山城、黒羽城は空城となったのであった。




