大阪冬の陣5~池田利隆参陣~
備前国・池田利隆は父・輝政の豊臣、徳川のどっちつかずの姿勢を批判していた。利隆は幼年の異母弟に与えられた備前三十八万石を実質的に支配している。利隆自信は豊臣に対する思い入れはなく、秀頼に対しては、秀吉の子と言うだけで…… と反感すら感じていた。
家康より大阪城へ寄せるように触れが出た時、輝政は利隆に領内をしっかり守るようにと申しつけていた。それに対し利隆は積極的に戦に参加すべきであると何度も輝政に直談判した。輝政はその意を受け入れることはなかった。
1614年2月15日
意を決した池田利隆は岡山城に千兵を残し、持てるだけの兵である一万二千の兵を率いて大阪城を目指した。大阪へと向かう途中に横浜茂勝の居城・三木城を攻め落とし、二千兵を守兵に置き、残りの一万兵を率い、大阪城西側に布陣した。
徳川方としては大阪城西側にはじめて兵を配することになる。利隆は京街道上に陣を貼り、京橋口、備前島に対することになる。
利隆の動きに呼応したのは美作一国を治める森忠正で、毛利の抑えで領内を固めていたのであるが、三千兵を率い、大阪城に寄せた。森忠正の一隊は高槻街道を東上し、天満橋口を押さえる位置に陣を構えた。
大阪城攻城軍は大阪湾方面である南側を除く三方向を包囲することになったのである。
こうした徳川方の動きに対し、大阪城平野口を守る横浜茂勝は激怒していた。
「うぬ、池田利隆め、我が三木城を攻めるなど、許さん。後で覚えておれよ! 」
茂勝は一層戦意を高くしたのである。
これを伝え聞いた秀頼は、わざわざ平野口に出向き、茂勝に声をかけた。
「茂勝よ、そう憤るな。戦は冷静さも必要じゃぞ。さもなくば命を縮めるぞ。」
こうした秀頼の言動は、秀吉譲りの人たらしの術とでもいおうか。茂勝はわざわざ出向いて来てくれた秀頼に対し忠誠を更に誓うのであった。
秀頼は、すぐさま織田秀則に使者を遣わして、三木城の奪還を命じた。秀頼の指示は早く、すぐに手を打つ所は信長譲りと言ったところであろう。
織田秀則はこれに対し兄・秀信にすべてを任せた。秀信は古田重広に三木城攻めを命じ、これを落とし、守将にそのまま重広を置いたのである。この三木城はあくまで横浜茂勝の城であり、織田家が留守を預かる形である。
森忠正は、大阪城の西側の守りが薄いことに気付いており、池田利隆と呼応して備前島を攻めることの許可を茶臼山の徳川秀忠に申し入れた。秀忠もすぐに同意し、本隊より援軍・小栗政信三千を差し向けることにした。
小栗政信は大阪城の北側を大きく迂回したため、森忠正・池田利隆と合流するのに四日ほどの時がかかったが、無事に合流した。
1614年2月26日
池田利隆・森忠正・小栗政信は京街道・池田利隆の陣で軍議を開いた。
「さて備前島ですが、守っておるのは宇喜多秀家殿、兵は5千でござる。どの様に攻めまするか? 」
利隆は二人に問うた。
「そうですな。まずは先陣は言いだしっぺの私が勤めましょう。政信殿は、私が出張っている間に陣を守っていただきたいと思いまする。利隆殿には私の後詰めをお願いするというのはいかがでしょうか? 」
「なるほど、忠正殿の意に同意いたしまする。私めは陣を固く守りましょうぞ。」
「ふむ、で忠正殿はどの様に攻めるおつもりか? 」
利隆に問われて忠正は地図を広げた。
「はい、宇喜多勢は、北側、すなわち利隆殿の方面には強固な柵をこしらえておりますが、私の陣の方面の柵は大したことはないようでございまする。そこで私の陣から船で渡河し夜襲を仕掛けようと思いまする。いかがでしょうか? 」
利隆と政信は忠正の指し示す地図をじっと見ている。
「宇喜多秀家殿でござりますれば、見張りの兵もしっかりと努めておりましょう。うかつに飛び込んでは危険ではございませぬか? 」
と利隆が顎に手をやり、考えるような仕草で言う。
「そうですな、船で渡河できる兵と言うと数も限られましょう。ちと危ういかもしれませぬなあ。」
政信も利隆と同じ意見の様である。
そう言われてみると忠正も不安になった。三人は腕を組み地図を睨んで考え込んでしまった。
「こういう手はどうでしょうか。」
やがて自信なさげに政信が切り出した。
「夜襲と言うのは賛成でござる。敵の援軍も寄せづらいですからな。で、二手に分かれてはいかがでしょうか? まず、北側から利隆殿が激しく鉄砲を撃ちかけます。宇喜多勢は北側に兵を寄せ対抗するでしょう。そのころ合いを見て、忠正殿が南から寄せてはどうかと思うのですが。」
「ふむ、案外面白いかもしれませぬな。いかがでござるか、忠正殿。」
「私も良き策かと存じます。やってみましょう。」
こうして備前島への夜襲攻撃を行うことになった。




