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秀吉の遺言  作者: 鳥越 暁
秀頼飛翔
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大阪冬の陣1

1614年1月22日

 徳川家康は大阪城攻撃を諸国に改めて命じた。

 これを受け翌23日には徳川秀忠率いる岸和田城の面々は、大阪城に向け進軍を開始。筒井城の本多忠勝らも2日後の24日に進軍を開始する。東海・近畿の小大名たちも、後を追うように大阪に向かった。

 大阪に集う諸将は27日に大阪城とは目と鼻の先の茶臼山で一旦集い、秀忠を大将として軍議が開かれた。


 いよいよ大戦の気配である。

 家康はみなの動きを見たうえで二万の兵を率い、大阪城と伏見城の間に位置する多聞城跡地に布陣すべく1月29日に駿府を発った。これは伏見城の抑えとしての布陣で、大阪城攻撃の最後の詰めの段階で大阪城に寄せる意向であった。

 家康は野戦には絶対的な自信を持っているために、この布陣となったのである。

 

 家康にとっては野戦で雌雄を決したいのである。しかし豊臣方はじわりじわりと徳川方の版図を千切り取っていて、いよいよ腹に据えかね、雌雄を決しようと決めた。

 家康は従っている大名の兵も合わせると15万以上の兵を動員できるのであるが、関東では里見義康が、東北では上杉景勝が、信濃で真田信幸、後藤基次がいて、それらの抑えでも兵を避けねばならなかった。




○1月24日、大阪城では……

 徳川方の動きは大阪城に素早くもたらされていて軍議が開かれた。


 秀頼は家康が野戦を望んでいることを知っていた。福島正則は強く野戦を申し入れたが、秀頼は籠城戦を選んだのである。家康の望む野戦にわざわざ付き合う必要はない。また大阪城は昌幸・幸村の真田親子によってさらに堅固に変貌を遂げており、たとえ十万以上の兵が押し寄せたとしても持ちこたえる自信があった。兵糧や煙硝などの物資も豊富に蓄えてある。二年は籠城できるだけの貯えがあった。


 秀頼は戦意溢れる福島正則 一万を三津寺に配して、紀州街道を睨んだ抑えとしたのをはじめ、次々に武将に配置を言い渡した。東軍に対する東側の布陣は、黒門口の外側の平野川との間に明石全登に五千兵を預け、平野口に横浜茂勝三千兵、八丁目口には前田利長の一万兵、谷町口は大野修理に三千を、松屋町口には薄田隼人三千を配した。西側では、京橋口に前田慶次郎五千、天満橋口は南条元続千五百兵を、天神橋口には片桐且元に千五百兵を配したのである。また外堀に囲まれ内堀との間には、一万兵を六輝隊に預けて配置し、遊軍として、どこにでもに駆け付けられるようにした。残りの二万兵は本丸に留めた。

 籠城軍の配置が完了したのは25日である。





 徳川方は28日茶臼山から次々に出陣して行き、夕刻には大阪城に対峙する。

 平野口と明石全登に対する所には浅野幸長一万兵を、八丁目口には松平忠頼千五百兵に秀忠が八千兵を貸し与え計九千五百兵で、天満橋口と天神橋口の間に本多忠勝一万兵、三津寺に対して藤堂高虎三千兵と蜂須賀至鎮三千兵を、平野川の北側に池田輝政三千、北条氏盛・丹羽氏信の合流隊千五百兵を配した。

 秀忠は残りの兵は茶臼山に控えて、戦局を見て投入するつもりである。


 茶臼山で徳川秀忠は大阪城を見据えて、考えていた。

 殿下が造り、真田が手を加えた大阪城は落とすことは容易ではない。となれば、攻め落とすことを考えるのではなく、豊臣方勢力を城に押しこめると考えた方がよさそうだな。籠城戦が長引けば兵は膿んでくる。調略もできるやもしれぬな。

 秀忠は関ヶ原の戦いでの遅参などを経て、将として成長していた。思慮の足りない所もあるが、秀忠なりに学んでいた。

 

 この徳川方の大阪城への電撃的な進軍は、各地に衝撃を与えた。

 豊臣方では信濃の真田信幸や後藤基次は戦支度を整え、関東に降る姿勢を見せた。九州の諸将の動きはというと、島津家久は二万の兵を四国へ、加藤清正一万兵は海路で大阪城を目指し、宇喜多秀家五千兵も加藤清正と合流している。関東の里見義康は常陸国の徳川頼宣へにらみを利かせ、頼宣が江戸に入るのを阻止しようとている。



 周肥同盟では鍋島直茂は静観を決め込み、毛利輝元は再び石見銀山を虎視眈々と狙っている。

 徳川方では伊達政宗は家康の強い指示で激しく上杉領に攻め込み始めている。近畿の小大名たちには最大限の兵を率い大阪城攻城軍に合流するよう命じられた。大阪城での攻防戦の間に、留守にした所領を失っても戦の終結後に安堵すると家康は触れを出したのである。四国では生駒正俊が徳川方大名としてはただ一人本領にいて、藤堂家と蜂須賀家の留守居隊と連携をとって守りを固めているが兵は少ない。

 徳川方で悩んでいたのは結城秀康である。秀吉の養子であり、家康の実子である秀康はどちらに与しても気持ちの良いものではなかった。悩んだ末に、秀康は静観を決めた。この決断は大きな勇気が必要であった。大戦の結果がどうなっても、秀康の立場は悪くなるであろう。



 さて豊臣方の織田家であるが、主だった者を集め、軍議が開かれた。


 「我が織田家であるが、輝政殿の動き次第であろうか? 」


 口を開いたのは織田秀信である。


 「ですな、したがどうでしょう? 当主の輝政殿は大阪城に出向きました。姫路城は守りを固めることはすれどもうってでることはないのでは? 」


 とは織田有楽斉である。


 「内々の約定とはいえ不戦との取り決めがあったにもかかわらず、輝政殿は大阪城に兵を出しました。ならば約定は反故になったのではござらぬか?ならば播磨の版図を広げてはいかがでござろう。」


 織田信包が積極的に版図を広げようと意見する。

 これらの意見を秀則は黙って聞いていた。


 「殿。先ほどから黙しておりますが、いかがされるので?」


 焦れた斉藤徳元が問いただした。


 「うむ、有楽斉伯父の言うとおり、姫路城からは出てこぬであろう。したが播磨を切り取るのはやめておこう。なぜならばじゃ。大戦が終わった時に輝政殿は重要なお人であることには違いないであろう。」


 秀則は池田輝政は豊臣恩顧であり、積極的に刃を交えるつもりのないことを改めて言葉にした。豊臣方が勝利した場合、輝政は豊臣方に帰参し力を発揮すると思われた。逆に徳川方が勝利した場合でも、徳川方にあって豊臣に理解を示し、秀頼を保護する立場になる可能性が強いのである。

 続けて秀則が言う。


 「本来であらば、大恩ある秀頼様の守る大阪城に入るのが良いのであろうが、籠城戦では羽を伸ばした戦いはできぬ。それにあの城は固い、我らがおらずとも落ちることはなかろう。ならばじゃ。ここは丹波を治めたうえで東軍に対峙しようと思う。大阪城の外で我らは暴れよう。」


 「なるほど、したが家康殿の率いる三河兵は野戦が得意。強いですぞ。」

 

 斉藤徳元が言う。


 「確かに、家康殿は強い。が銃器を使った戦は不得手よ。我が織田には大鉄砲隊がおる。勝てなくても良い、家康殿を駿河に引っ込ませるのよ。さすれば勝ちに等しい。違うか? 」


 「うむ、面白いな、秀則の言う通りにやってみようではないか。」


 秀信が賛意を示した。




 織田家の方針が決まった。長引くであろう大阪城の攻防戦には加わらず、丹波を抑える。その上で布陣する家康隊に対峙する。ということであった。


挿絵(By みてみん)

 

 

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