織田秀則、丹波に現る
1613年8月3日、
織田秀則は丹波国八上城に入城した。八上城は1609年に廃城になったばかりで、城の作りは、まだしっかりとしていた。八上は徳川直轄領で五万石である。
秀則が空城であった八上城に入ったのは、篠山城を攻めるためであった。
篠山城は最近1609年に松平康重が築城した城である。藤堂高虎が縄張りし、池田輝政が普請した非常に堅固な城であり、秀頼の遠い播磨の所領から遠征するのは、少しばかり無理があったからである。
仮に丹波八上を抑えたとしても、秀則にとっては飛び地になる。非常に治めにくいことなのであるが、秀則は各地に飛び地を作り、点を結び版図の拡大を狙ったのである。これは言葉で言うのは簡単であるが非常に難しいことであり、無謀ともいえた。
しかし豊臣秀頼と池田輝政の約定により、これ以上播磨で版図を広げることはできない。ならば、無理をしていくしかない。飛び地を治めると言うことは、そこにはそれ相応の武将や兵力、兵糧などの物資が必要となる。
八上城はこれまで幾度も籠城戦が行われた城であるために、なかなか堅固であることも入城した理由の一つである。また京や大坂に近い。
播磨は先に述べた輝政と秀頼の約定により、攻め込まれる心配はなさそうであるので、秀則は僅かな兵を播磨に残し、千五百兵を率いて来ていた。
秀則は新たな地を治めると、そこの年貢は軽減し、民を取り込み治めていくという手法を用いる。今回も八上城下の村に触れを出し、統治下に置いた。そして、そこの民の次男坊や三男坊を雇い入れた。
もちろん松平康重も手を拱いているばかりではなく、度々秀則の統治下に入った村々を襲ったりしたのであるが、その度に秀則自ら槍を用い撃退した。村々の適地との境界線にはいくつかの砦を築いた。
八上城に入城してひと月たつが、まだ領地の境界線では小競り合いが続いている。
徳川家康も篠山城は西の豊臣方の抑えとして機能させようと考えていたので、福知山の関一政に命じ、千兵を派遣した。現在、篠山城には二千五百兵ほどが守っている。
1613年9月20日 ある村の砦から急報がもたらされた。
篠山城から七百あまりの兵が出兵し砦に向かっているという。
秀則はすぐさま五百の兵で、自ら先頭になって駆け付けたが、すでに砦は、火矢を撃ちこまれていた。
「なんと砦が囲まれておる! 皆の者! あそこで悪さをしておる康重の兵に、突撃じゃ! 我に続け~っ!! 」
たちまち乱戦となる。僅かに敵勢の方が多いが戦意溢れる秀則の兵は互角以上に戦っている。
幌武者が走り寄り秀則に告げた。
「殿! 新たに敵勢が寄せてきております。数は五百! 」
これでは敵勢の方が数的に圧倒的に優位になり苦戦は免れない。
「なに! 敵は儂が自ら出張ったのを見て、寄せてきたのであろう。
皆の者、康重の兵などに負ける出ないぞ! 押せーッ! 」
それでも秀則は兵を鼓舞して督戦を促した。
しかし、敵の援軍が現れると、兵数に劣る秀則の兵は押された。
「殿! 無理はいけませぬ! ここは引きましょう! 」
旗本が訴える。
「うぬ、悔しや。したがそちの言う通りでもある。ならば、そちが殿を務めよ! 」
秀則は旗本に命じ、撤退を命じたようとした時である。不思議なことに敵の圧力が弱まった。
不思議に思い敵勢を眺めると、敵勢の横っ腹に一隊が突っ込んでいる。
いきなり横から槍を付けられた敵勢は乱れている。
「やや、味方が現れたようである! ならば我らも押せ! 撤退はなしじゃ! 」
この時、敵の横から槍を付けた兵は僅か五十の兵であったのだが、前面の秀則の軍勢にしか頭になかったので対処できなかった。敵勢の横腹に大きな穴が開いた形となった。更に八上城から五百の兵を率いて家老の大岡左馬介がやってきた。
「やや、お主は城を守れと命じていたはず。」
「殿が討たれては城を守ったとて何にもなりませぬ。殿はしばらくここでお休み下され。」
左馬介はそう言うや敵勢に突っ込んでいった。
「ふふふ、血の気の多い奴よ、したが確かに儂も少々疲れたな。少々休むか。」
と床几に腰を下ろすと、竹筒の水をぐいっと飲んだ。渇いた喉に水が心地いい。落ち着いた秀則は旗本に尋ねた。
「ふう~。して援軍はどこの手の者じゃ? 」
「は、それが永楽銭の旗印でございまする。」
「なに、永楽銭とな!? 」
永楽銭は織田家の旗印である。
だれじゃ? 乱れる戦場を眺めて秀則は考えていた。
「殿! 秀信様からのご使者でございまする! 」
「何! 兄上じゃと!? 」
織田秀信…… 秀則の実兄、織田信忠の長男であった。家康により改易され行方が知れなかったのであるが永楽銭の旗を掲げて参陣したのであった。
早速、使者に会ってみるとさらに驚いた。
「やや、有楽伯父ではござらぬか! 」
「これは秀則殿。お久しゅうござる。我ら秀則殿の播磨での活躍を拝見し、参った次第でござる。」
織田有楽斉は笑って言上した。有楽斉は祖父・信長の弟で、先の関ヶ原の戦いでは徳川に与し、家康に大和に三万二千石を拝していたが、秀頼を守る姿勢が強く、やがて対立し改易されていた。
「これは心強い。」
一刻後、重康の軍を追い払った秀則達は八上城に戻っていた。
「しかし、兄上、そして伯父上、驚きましたぞ。」
二人が現れたことに、いまだ興奮冷めやらぬ秀則が言った。
「なに、秀則。そちが働いておるのを聞いては、体がもぞもぞしてたまらず来てしもうたわ。ははっは」
「儂もでござる。」
有楽斉も笑っている。
「ならばここは兄上に織田家の頭となっていただきとうございまする。」
秀則は兄・秀信に言った。
しかし秀信はこう答えたのである。
「いや、今こうして小さいながらも織田の家を再興したのは秀則、そちじゃ。織田家の主はそなたが良い。儂や有楽の伯父は一門衆として支えよう。」
秀信も将として一角の人物であったが、秀則に己を超える才を見ていたのである。有楽斉にしても同じであった。
「したが、兄上。周りの者は何と見るでしょうや。私はなんとか家を興せました。今後は兄上の元で力を発揮しとうございます。」
秀則はあくまでも兄を立てたかった。
「秀則。気持ちは嬉しいが、儂には本当にそのようなつもりはないのじゃ。はっきり申せば、そなたが立ち上がらねば、儂が再び世に出ることはなかったのじゃ。それにそなたの方が才がある。そうであろう有楽伯父? 」
有楽斉も笑って大きく肯いている。
秀則はしばらく黙って秀信、有楽斉の顔を見ていたが、やがて…
「分かり申した。ならば私めが主を務めさせていただきます。兄上、伯父上、どうか支えて下され。」
と頭を下げたのであった。
秀信と有楽斉は半月後には丹波国内山鹿郡の山家陣屋を攻め落として治めている。
1613年11月
この頃になると織田秀則の旗の下に続々と武将が集まって来ていた。
丹波・柏原を三万六千石で治めていた織田信包も秀則の旗下に入った。また老臣・古田織部も参じて来ていた。その他、織田信雄の長男・秀勝も加わった。俄かに人材が揃ってきた。
この時の織田家が治める地は以下のとおりで、計十三万八千石である。動員できる兵は六千兵である。
丹波八上城(五万石)…織田秀信(城主)二千兵を置く
丹波柏原城(三万六千石)…織田信包(城主)千五百兵を置く
丹波山家陣屋(一万石)…織田有楽斉(城主)五百兵を置く
播磨高砂城(織田家本城)(三万石)…織田秀則 千五百兵を置く
播磨庄山城(1万2千石)…斉藤徳元(城代) 五百兵を置く
組織としては以下のとおり。
主君・織田秀則
一門衆…(筆頭)織田秀信
織田信包
織田有楽斉
織田秀勝
宿老…(筆頭)斉藤徳元
佐藤方政
古田織部(ただし、家督は嫡男・重広がついでおり相談役的立場で宿老となっている)
家老…小坂雄長
大岡左馬介
塩川孫作
また、秀則につき従っていた川方政信と長屋正隆は秀信の強い意向もあり、秀信の家臣となり、秀則にとっては陪臣となった。




