秀頼開眼
屋敷を出て、珍しく朝早くに淀に会うために大野修理は天守に向かっていた。その時、小太りの初老の男を見かけた。
「はて?どこかで見た気がするのだがな?誰であったかな?」
ぶつぶつつぶやきながら天守に向かう道を進んで行く。今日は家康の命を受けて淀の様子を探ることと、大阪城の富を吐き出させるためにである。
「これは淀様、御機嫌麗しゅうございまする。上様はご健勝でおられますでしょうか? 」
「うむ、これは修理、今日はずいぶんと早い出仕じゃの。いかがしたのじゃ。わらわも上様もいささか眠いわ」
機嫌は良くないようである。
「はい、実は城の普請についてでございまする。二の丸の石垣ですが、先の大雨で一部が崩れ落ちましてございます。そこで修復してはいかがとお伺いに参った次第でございまする」
「そうか、ならば直せばよかろう。そのようなことで参ったのか? 」
「は、したが石垣の崩れた面は堀になっておりまして、一時的に堀を埋める必要がございます。少しばかり大がかりな修復になると存じますので、お伺いに参りました。吝嗇な家康殿では放っておくのでしょうが天下の上様の御城ですので、立派に修復すべきと思いまして」
修理は家康に対抗心を持っている淀を煽って、必要のない普請を行い散財させようとしているのであった。今までは、修理の掌で思うように寺社の建立や大阪城の普請で散財させてきたが、まだまだ大阪城には多くの富が貯えられている。
もう一点、重要な事は、大阪城の防御力を削ぐ事であった。堀を埋めるとさりげなく修理は行ったのだが、一旦埋め立てがはじまれば埋め立て範囲を拡張していく算段だ。
故・秀吉が建立した大阪城は防御が固い。特に二重の堀に囲まれていて、攻め込むのは容易ではない。家康としては大阪城の防御力を弱めておく事は、今後の豊臣家との関わりにつて大事なことであった。
「そうか、修理の申すことは良く分かった。良く考えて返答するによって下がって良いぞ。明日参れ」
「は、明日でございますか? 」
「そうじゃ、明日では不服か? 」
「いえ、とんでもございませぬ。明日にお伺いいたします」
大野修理は首をかしげながら場を後にする。
【以前であればすぐに了承が得られたのであるが、それに必ず秀頼さまもお目にかかれたが最近は何かが違うな。儂の家康殿との内通を悟られたか? いやそれはあるまいな。淀様のご気性ならば、すぐに表情に出て会おうともすまい】
修理は色々と考えながら帰途についた。
大野修理治長、秀吉の馬廻りとして取り立てられ小さいながらも大名となった。豊臣家があり今の治長がある。しかし秀吉の死後は家康の恫喝に怯え、関ヶ原後は豊臣家に居ながら家康の手足となっているのであった。
【今日はいろいろと腑に落ちないことがあった。そういえば朝に見かけたあの男は……】
「あ、真田じゃ! 」
おもわず声が出ていた。修理は周りに聞かれなかったかとあたりを見渡し、誰もいない事でほっとして屋敷に入った。
【明日に淀殿に真田のことを探りを入れて見よう。それから家康殿に繋ぎをつけてもよいだろう】
真田昌幸は大野修理に姿を見られたのであった。昌幸はすでに大野修理に見られたことを悟っていた。大阪城には十五名の真田忍びが配置されていたからである。 忍びは大野修理の屋敷にも下人として一人が潜り込んでいた。
その日の夜、大阪城秀頼の居室には秀頼、淀、真田昌幸・幸村親子、直江兼続、前田利長が集まっていた。今日の修理の進言について話し合っていた。まず口を開いたのは昌幸である。
「淀様、修理めが言っていた石垣は壊れてなどおりませぬ。僅かに一つの石が落ち抜けただけでございます。それも人の手によって引き抜かれたと見受けられます」
「なんと! では修理はやはり間者か? 」
大野修理は秀頼の側近として仕えており、淀としては「まさか」と思っていたのだが、徳川と通じていると知らされ驚きと悔しさを感じた。
「間違いございませぬ。それに今朝がた、私は修理に姿を見られましてございます」
「ふむ、とう言うことは近々家康に我らのことが知れますな」
利長が苦い顔でいう。
兼続も
「まあ、遅かれ早かれでしょう。気にとめても仕方ありませぬ」
とやはり苦い顔で呟く。
「なにとぞ豊臣をよろしくお願いいたしますぞ。各々方。詳しい仕置はわらわには分からぬゆえ、わらわは席を外すことにいたす。後は頼みました」
そう言うと淀は軽く叩頭すると部屋を出て行った。
当然、秀頼も出てゆくと思ったが、秀頼はそこに座ったままであった。
これには会していたみなが驚き、兼続が尋ねた。
「上様、御母堂さまは退出されましたが……」
秀頼はにっこり笑うとこう述べた。
「母上は母上じゃ。余は余である。余も今年十一になる。幸村に毎日、色々と教えてもらい余は余なりに、色々と考えたのじゃ。みなに任せてばかりではなく、余も君主として成長せねばならぬゆえ、皆の話を聞かせてくれ」
おもわぬ秀頼の言葉に一同は感激した。乳離れできぬ凡将かもしれぬと思っていたのだが、良く見ると言葉の端々、引き締まった顔つきや姿勢など大器やもしれぬと感じ入ったのである。
「これは失礼いたしました。それでは上様もどうぞお聞きくだされ」
兼続が仕切り直し、話はすすめられた。
ここで淀であるが、以前は確かに秀頼を溺愛していた。しかし秀吉の死後一年がたったころ秀吉の淀に宛てた手紙を密かに真田忍びが届けたのである。そこには溺愛することで秀頼が成長できないこと。ひいては秀頼を利用しようとする輩が現れて、いずれは秀頼の命を縮めてしまうことが、丁寧にこんこんと綴ってあった。そこには秀頼の真の教育係に安房の里見義康とすることなども書かれてあった。
里見義康は小田原征伐時に遅参により秀吉の怒りをかって一時は領地を没収されたが、秀吉から才を認められ羽柴性を下賜されていた。関ヶ原の戦いの二か月前まで、影で秀頼の教育係を務めた。関ヶ原では母を質にとられやむなく東軍に与したが、家康の会津討伐に従わず、宇都宮での守将であった。義康は武将としての礼儀や、君主としての立ち居振る舞いをまだ幼い秀頼に厳しく教え込んだ。関ヶ原の戦いで泣く泣く東軍に与することになった義康は秀頼に膨大な数の書物を送り、読むように悟してもいた。
秀吉は遺言の中で淀と秀頼に真に心を許せるものが出てくるまで、親ばかと凡庸な子供を演じるように伝えている。今、淀と秀頼の親子はここに集った武将を信頼していた。そして秀頼自信が物事を考えるようになっていた。
(上様、死してなお世を眺めておられるか。まさしく上様の危ぶまれたとおりに諸国は動いておりまする。わらわも考えを改めまする。どうか秀頼をお守りくだされ)
淀は秀頼の無事を天に居る秀吉に願うのであった。
話を戻そう。修理に真田昌幸の存在が知られたからには近々家康の知るところとなる。罪人で九度山に流されていた昌幸を大阪城に入れたということは、家康にとって豊臣を攻めるかっこうの言い分になる。
そこで密かに合力を依頼しており、良い返答をもらっていた各地の大名に繋ぎをとることにした。そしてこの大阪城にも早急に兵を補充する必要があった。その算段をつけて今夜の談合を終える。
その夜、真田忍びは各地の武将の元へ急ぎ走る。家康が動く前にこちらが動かなくては勝ちは薄くなると思われたからだ。
翌日、秀頼と大野修理は面会する。そこで歴史は大きく動きだす。