織田家の再興
三月二十四日、正午
前田慶次郎と佐分利源五左衛門重堅の立ち合いが行われた。
「重堅殿、立会いの前にひとつお伺いしたい。なぜ私と立会いを望まれる?」
「それは慶次郎殿の御武勇をお聞きしており、槍術の一派を継いだものとして、以前よりお手合わせできる機会があればと願っておりました。」
重堅の言う通りに慶次郎の武勇は世に広く知られたところであり、腕に自信のある者は慶次郎と立ち会ってみたいと思っていたのである。
慶次郎は佐分利重堅の言葉を聞き、じっと見据えた。
「そうでございますか。分かり申した。ではまいりますかな。」
とういう短いやり取りの後、立ち合いがはじまる。
そこには秀頼をはじめ、前田利長、真田昌幸、六輝隊の面々の他、大阪城に居る名の知れた武将が居並び見守っている。そこには、箕輪右近も座している。
重堅の槍は全長が九尺と長く、穂先は両刀両鎬でかわった槍であった。対する慶次郎はいつもの六尺の朱槍である。
まず先に仕掛けたのは重堅である。右上段から、肩口を狙って切りつけるように振り降ろされる。慶次郎は体をかわし、左から距離を詰めた。重堅はつっと下がり間をとり自分の距離を保つ。
重堅が今度は慶次郎の真正面から頭を割らんばかりの勢いで槍を振り下ろした。
刹那、慶次郎は、「だんっ! 」と地を蹴り、あっという間に間を詰めるや、重堅の小手目がけて打ちおろす。が重堅は前に出てかわして体を入れ替えた。重堅と慶次郎の立ち位置が入れ替わった状態になった。
慶次郎が再び地を強く踏みしめ、跳躍し、最上段から打ちおろす、重堅は受け切れなかった。肩口をしたたか打ち据えられた。
「そこまで! 」行司役の明石全登が叫ぶ!
「参り申した。さすがは慶次郎殿でござる。」
「なんの、紙一重でござった。」
慶次郎は熱い息を吐いている。息が上がっているのだ。
勝利は慶次郎のもとへほほ笑んだ。見ると慶次郎の右腕には一筋の血がにじんでいる。見た目以上の戦いであったようである。
重堅は慶次郎に一礼すると、箕輪右近の元へ歩み寄り、片膝をつき、こう述べた。
「我はまだ修行が足りなかったようでございます。今しばらく修行したく存じます。我はこの前田慶次郎殿にお仕え致します。お許しを頂きたい。」
これにはそこにいた将すべてが驚いた。
しかし、箕輪右近は頷くと
「そうか、そなたはそなたの道を行くがよい。殿には上手く言っておく。」
と笑って認めた。
そして改めて秀頼に叩頭すると、
「秀頼様、なにとぞ、この盟友の願いをお聞き届け下れ。」
と申し上げた。
秀頼に認められ、佐分利重堅は慶次郎の旗本となった。
佐分利源五左衛門重賢は佐分利流槍術の二代目宗家で、佐分利流は富田流槍術の流をくんでいる。佐分利流槍術の開祖は池田輝政の老臣・佐分利猪之助重隆である。槍は切るもの、刀は突くものを真髄としていて槍の全長は九尺、穂先は両刀両鎬、長さは二尺一寸を基準とされる。
後に佐分利源五左衛門重賢は直参となり、慶次郎の後を引き継ぎ武芸指南役となるのである。
同日夕刻、織田秀則の屋敷
僅かな近衆を連れて秀頼がやってきた。
「これは関白様、わざわざお足を運ばされていかがなされましたか。御用であれば私の方から出向きましたものを……。」
「いや織田殿、こたびはお願がありましたのでな。」
「はて、関白様が私にお願いとは? 」
「じつは御存じの通り、庄山城を落としました。そこで織田殿にそこの仕置をお願いしたいと思いましてな。」
秀頼は織田秀則に対しては、丁寧な話し方をする。秀頼は父・秀吉を尊敬すると共に信長公を崇拝している。その正当な嫡流である秀則に、敬意を表しているのである。秀則の父は織田信忠…信長の才を受け継いだ嫡男であった。
「秀則殿、我が豊臣の主筋である織田家を是非に再興してくだされ。庄山という小さな城しか差し上げられませぬが、そこを足場にし、是非に。」
秀頼は心から織田家の再興を願ってもいたし、秀則の才を見抜いていたのである。秀則は宣教師フロイスに「貴族のような人物」と評されるほどの人格を備えていた。また、文武共によく学んでいるのを聞いていた。
秀則としても秀頼の好意をよく感じていた。
「関白様、ありがたき幸せ。きっと織田家を再興いたしましょう。されど再興がなったとて、私の織田家は豊家より天に座することはありせぬ。」
といって庄山城の仕置をありがたく引き受けたのであった。
庄山城に入った織田秀則はすぐさま城の普請を始めた。普請には築城術にすぐれた六輝隊の加藤明成を秀頼より借り受け、意見を取り入れた。加藤明成は加藤嘉明の長男である。小さな城であった庄山城は郭を幾つも設け、大きく変貌していっている。領内は田畑が多く、石高としては僅かに二千石である。それに秀頼から別に三千石を拝領して合わせて五千石、雇える兵としては百五十兵そこそこがやっとであった。
この時の播磨の版図は池田輝政が一国を治めており、そこに三木城周囲、妻鹿城下、そして庄山城下の虫食い的に豊臣方が治めるという形である。三木城は四国・伊予に本領のある加藤嘉明が一時的に預かる形となっており、妻鹿城は現在、淡路島の統治を進めている横浜茂勝が三千石の大名として納めてる。
秀則は庄山城の普請を進めながら、姫路城とすぐ目と鼻の先であることから、不安を感じていた。いまは池田輝政は傍観しており、攻めてくる気配はないが、姫路城の普請が一段落したら、間違いなく豊臣方の播磨の拠点を潰しにかかるであろう。その時は遠くないと思われた。そこで庄山城より東側の加古川までの地域を版図に治めようと、その範囲の村々に織田家の仕置とする旨の触れを出した。南方面は姫路ー京都を結ぶ京街道沿いは、輝政を過度に刺激するであろうと一旦避け、それより三里ほど南に降ったあたりからである。
その仕置により改めて検地をおこなうと七千石あまり石高が上がり九千石の所領を治めることになった。兵もすぐさま五百名を揃えた。
秀則の居館はかつて赤松氏が築いて、現在は廃城となっている天神山城の跡地に設けられた。この居館は水掘を整備した程度で、過度の普請は行っていない。庄山城に入ってからわずか半年の一六一二年九月末にはこの体制となる。
秀頼は秀則に対し、版図を広げることは秀頼の許可を得ることなく進めてよいとの約定を与えていた。もちろん要所についてはその都度話し合いが行われることになっていたが……。
このように戦わずして版図を広げた秀則の効果で、妻鹿城の東側の地域は北から織田家に西は横浜秀勝の妻鹿城に囲まれる形となり、勢いのある豊臣に属した方が判断した妻鹿城の領内に接する村々は、茂勝の妻鹿城に税を治める旨を申し上げ、それを認められた。横浜茂勝の所領も五千石に増えることになったのである。
秀則は織田家の旧臣を集めることもしていた。兄・秀信の家臣であった者を中心に召し抱えている。その中でも、斉藤徳元は秀信の旧臣で斉藤道三の曾孫にあたり、庄山城の城代を任せている。
一六一二(慶長十七)年十月時の織田家家臣団の主な者は以下のとおりである。
家老・佐藤方政、斉藤徳元
家臣・川方政信、長屋正隆、塩川孫作、大岡左馬介、小坂雄長
ほとんどが兄・秀信の家臣であった者だが、小坂雄長は兄・織田信雄の旧臣である。




