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秀吉の遺言  作者: 鳥越 暁
秀頼飛翔
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プロローグ

秀頼が関白を叙任してから7年。また世が動き始める。

まずはその7年間の動きを見てみる…

一六一二(慶長十七)年、豊臣と徳川に割れた世の中は未だ纏まる気配はない。また小さな勢力だが毛利輝元と鍋島直茂の周肥同盟も第三極を形成している。


 一六〇五年、豊臣秀頼が関白に任じられてから七年間の日本の動きは、色々とあった。

 大きな流れで言うと、徳川秀忠が将軍職を継いでいるが、家康は健在で大御所として君臨している。


地方の流れは

東北地方の陸奥国の蒲生秀行はお家騒動を理由に改易され、陸奥は徳川家康の九男・徳川義直が入り62万石で治めている。義直は一六一二年現在若干十二才である。これは家康の譜代強化策の一環である。その他の大名は最上には動きはなく、伊達は盛んに上杉領に攻め入っているが、目立った成果は出ていない。


信越地方は、信濃北部と越中を真田信幸が制した。ここで豊臣家にとって大きいのが佐渡を支配下におさめ、金山を秀頼直轄領としたことであった。


関東では動きは少ないが里見義康が若干領土を広げ五十二万石に成長し、義康の治める富津港は全国有数の貿易港に発展している。


近畿地方では一六〇六年には、徳川方は伏見城の攻略は一旦あきらめ、攻城網を解いている。伏見城から出兵した諸将によって二条城も豊臣家が制することになっている。播磨国は三木城、妻鹿城が豊臣方になっており、妻鹿城を抑えたことで姫路港は豊臣勢力下に入った。妻鹿城攻めで秀頼は初陣を果たしている。この時のことは後に外伝に記すのでご覧いただきたい。


中国地方は一番活発であった。石見国は毛利輝元が制し、徳川方勢力を一掃した。輝元が石見攻めを行っている隙に猿飛佐助の助けを借りて、輝元に捕えられていた福島正則は無事に逃げ出した。福島家は毛利家の支配下から抜け、豊臣家に帰参している。福島家と毛利家は一触即発であったが秀頼(豊臣家)が輝元(周肥同盟)と休戦条約を結び、現在動きはない。


九州地方は豊臣家と周肥同盟の休戦条約により、徳川方勢力は窮地に追い込まれ、黒田家、細川家は滅亡。筑前は鍋島家が、豊前・豊後は豊臣方が治めた。ここで特筆すべきは家康に改易され加藤清正の所へ逃れていた宇喜多秀家が、復活し現在は豊前を治めていることである。


四国地方は藤堂高虎ら徳川方の勢力と山之内一豊ら豊臣方勢力が睨み合っており、やや徳川方が優勢である。



 以上が一六一二年正月現在の状況である。各地の細かい仕置や動きについては、本編に関する時にその都度述べることにしよう。


 こうしてみると徳川勢力圏が狭まった感があるが、徳川家や徳川譜代の領土はむしろ増えている。徳川勢力圏から離脱したところは、ほとんどが旧豊臣恩顧の大名の領土である。徳川としては、旧豊臣大名の領土が減ったことより、佐渡の金山を豊臣に、石見の銀山を毛利に抑えられたことの方が痛手である。


 毛利が豊臣と休戦条約を結んだのは、石見銀山を抑えたものの、それを交易する港を豊臣方(堺など)、徳川方(福岡港)に抑えられていて、思うように交易できなかったことによる。毛利はいわゆる経済で豊臣に頭を押さえられた形になっていた。

次回はいよいよ第2章本編が始まります…

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