秀吉の遺言に沿って
関ヶ原の戦いで豊臣方・西軍は敗れた。しばし戦後の混乱を鎮めるために両軍とも目立った動きはなく、勝ちを収めた徳川家康は政権を樹立。家康はそれを盤石にするために豊臣家を潰すことに残りの人生をかけるつもりである。関ヶ原の戦いから三年がたった。
西軍に与した大名たちは、それぞれの思いに耽ってた。あまりに早い関ヶ原の戦の終結で、上杉景勝は唖然とし、家康に頭を下げ米沢に減封された。そして今年、江戸に藩邸を持つように命じられた。いよいよ江戸に置いて徳川に歯向えぬよう牙を抜くつもりであろうと感じた。それまでは未だ政権が盤石でない徳川家に対して、いつかはひと泡吹かせられるやもしれぬと淡い期待を抱いていたのであった。しかし、今後は徳川の世になることを各地の大名達は覚悟した。
○米沢
「兼続よ、もはや家康殿の世になるな。儂も腹を決めねばなるまい。」
景勝は居室で直江兼続に話しかけた。
「殿、そのご決断はしばしお待ちくだされ。実は五年ほど前になりますが……。」
兼続は秀吉に内密に呼ばれた時のことを話し始める。話は半日の時を要する話であった。
すべてを聞き終えた景勝は眼を瞑り何やら考えている。そして……。
「なんと、さすがに太閤様よのぅ。家康が行動を予見しておられたか。そして三成殿が負けるであろうことも……。うむ、やはり太閤様には敵わぬな。」
そういうと兼続に向けてにっこりと笑いかけた。
「して兼続、太閤様の言いつけどおり事を進めておったのか? 」
「御意。」
「そうか、ならば今度は儂が腹をくくるらねばなるまい。太閤様は死してもなお儂を手の上で踊らせるか。はははっは。」
実に愉快そうに笑った。
「そちはすぐに大阪へ向かい、大阪城に入れ。それと九度山の真田殿も密かに呼ばねばならぬの。」
と言ってから、ふと思案顔になった。
「ところで家康殿についた真田殿の嫡男・信之殿はいかがするかのぅ。」
とつぶやいた。
「は、噂では信之殿は秀忠殿と上手くはいっておらぬ様子にて、お誘いする価値は十分にあるかと思われまする。」
秀忠は関ヶ原の戦いの際、真田昌幸に上田城で足止めを食らい遅参した。その時のことが頭にあり嫡男である信之を信用していなかった。
信之はもともとは父の一字をつけた信幸といっていたが、東軍と西軍に分かれる際に父の字を捨て、改名していたのである。信之の奥は家康の重臣・本田忠勝の娘であり、家康にその器量を認められ、本気で家康方についていた。だが、秀忠は器量が小さく、素直に信之の器量を評価できなかったばかりでなく、ほとんど口をきこうとはしなかった。この事は多くの者達が知るところであった。
「そうか、儂は調略は苦手なのだがなぁ。誰ぞおらぬか? 」
「それならば、慶次郎殿が良いかと……。」
前田慶次郎利益、故・前田利家の甥でその武勇は天下に知られている武将だ。今は仲の良い直江兼続に誘われて上杉家の食客となっている。慶次郎は調略が得意と言う訳ではない。むしろ調略などされたことはあっても、した事はない。なぜ兼続は慶次郎に白羽の矢を立てたのか。それは信之が慶次郎と会う事により、慶次郎に男惚れするであろうと思ったのであった。
「おお、御仁は元気でおるか? ならば呼んではくれぬか。」
こうしてめまぐるしく頭を回転させて少しづつことを煮詰めていった。
三日後、密かに大阪へ兼続は旅立ち、上杉の食客の前田慶次郎は真田信之の元へ向かった。
○加賀
前田利長は関ヶ原の戦い以後、家臣にほとんど口を利かない。問いかけても心ここにあらずと言った様子で生返事が多い。利長は秀吉に呼ばれてから、豊臣方に付くつもりであったが、母である"まつ"がさっさと家康のもとへ出向いてしまった。母思いの利長は、やむなく家康に付いたのであった。内心じくじたる思いをしていたのであった。そんな時に景勝より密書が届いた。一気に読み終えた利長は、弟の利政を呼び寄せる。
「兄じゃ、何事でしょうか? 戦は勝ったというのにしょぼくれておるとの噂でありましたたが、なかなか元気そうなお顔ですな。」
利政は覇気に満ちた利長の顔を見て驚いて言った。
「ははは、そんな噂があったとはの。ところで以前そちに申しつけておった兵の訓練はまだやっておるか? 」
それを聞いて利政はにたりと笑う。
「もちろんです。それに密かに兵も雇い入れてございます。」
利政は利長の近衆に大阪に呼ばれたことや、その後の動向を見聞きしていたので、利長の決断を理解していた。
二人は家老の横山長知を呼び、三人で話し合った。その結果、横山は江戸に飛び、質となっている利長の母、まつこと芳春院を逃げ落とすことを命じられた。横山は七尾忍びを連れて江戸に入り芳春院を説得。密かに芳春院を加賀に連れ戻した。
利政は加賀にとどまり、大阪へは利長が向かうことになった。
こうしてかつて秀吉が呼び寄せた三人の武将は大阪へ集うことになった。三人はすぐに淀と秀吉の遺児・秀頼に閲見し、今後のことを話し合ったのである。三人は二の丸内にそれぞれ屋敷をあてがわれ、着々と準備を進めた。大阪城はとても広く三人は周りに留意しながら行動していたため、半年余りの間、家康方の密通者も気付かなかった。
いよいよ家康に対抗すべく大坂方の準備が整いつつあった。