片桐且元負傷する
一六〇四年十二月、家康は空き城になっている筒井城に本多忠勝を入れた。徳川本隊からも一万兵を送り筒井城には一万五千の兵が入った。冬まで待ったのは雪深い越中の前田や、上杉が出てこれない時期を待っていたからである。筒井城を固めて、諸国の大名たちにとりあえず筒井城に参陣するように触れを出し、兵を送れない小身の大名たちには、兵糧などの物資を送るように申しつけた。
大和国。高取城の本多利政は昨年入領したばかりで、兵糧の蓄えもさほどでなく、兵も送れず兵糧などの物資の支援もできずに焦っていた。これでは後々改易されてしまうかもしれない。そこで本多利政は同じ大和国内の桑山和直と松倉重正を誘い、片桐且元を攻めることにした。少しでも功を上げて改易を免れ、できれば加増されればと思っていたのである。
誘われた桑山、松倉両氏も同じような石高で悩んでいたこともあり、すぐに賛意を示した。三氏の連合軍は片桐且元の弟・貞隆の小泉城を攻め落とし貞隆を討ち取った。勢いに乗り、すぐさま片桐且元の居城・龍田城へと押し寄せたのである。片桐且元は僅か二万五千石で七百兵あまりしかいないはずで、すぐに落とせると思っていた。
しかし片桐且元は老いたりとはいえ賊ヶ岳七本槍に数えられた武将である。激戦の上、なんと桑山和直と松倉重正を返り討ちに討ち取った。討ち取ったものの多勢に無勢で且元は大きな傷を負ってしまい、龍田城は本多利政の手に落ちてしまった。
家康は関ヶ原の後の徳川方の初勝利に大いに喜び、本多利政に感状を与え六万石に加増した上、城主の討たれた桑山、松倉の遺臣を併合させた。本多利政の元の所領は二万五千石、桑山、松倉の旧領は合わせて四万六千石、片桐兄弟の分は四万石で、単純に合わせると十一万千石であるが、やはり吝嗇な家康であり、すべてを本多利政にやることはしなかった。
大阪城では怪我をした且元が運び込まれ、片桐貞隆の討ち死にも知らされた。
「うぬ、本多め! すぐに攻め落としてやるわ! 」
と兼続は激怒したが、昌幸は兼続をなだめて諭す。
「兼続殿、本多を討ったとて、その後を治める将がおりません。家康は筒井城に兵を集めておる故、仇は後々討つとして、今は筒井城に対する策を練りましょうぞ。」
当の且元も床に伏せながら兼続に言う。
「昌幸殿のおっしゃる通りでござる。拙者らのことは小事なり、大局を見据えられよ。」
「うむ、片桐殿、申し訳ござらん。いずれ片をつけますゆえ、お許しくだされ。」
冷静になった兼続は、二人に詫びた。
◆ ◆ ◆ ◆
年が明けた一六〇五(慶長十)年、正月
家康にとって、徳川方にとって大きな変事が知らされた。なんと安房の里見義康が豊臣の旗を揚げ、上総まで治めてしまったとのことであった。これまで関東は徳川一色であり、急に豊臣の勢力が出現したのである。里見義康は四十万石にも所領を広げたという。(この義康のことや動きについては「秀吉の遺言」外伝として「羽柴安房侍従」と題し連載していくのでそちらをご参照いただきたい。)
関東に豊臣方勢力が出現したことで、家康は里見の抑えを置かねばならなくなった。そこで筒井城に据えていた本多忠勝を下総に配置し、抑えとすることにした。西の大阪城を睨んだ戦力の要として忠勝を使いたかったのであるが、他に任せられるものがいなかったのである。
筒井城には藤堂高虎、加藤義明ら四国勢などが入城していた。また和泉国の小出秀政の居城・岸和田城には浅野幸長が一万の兵とともに大将として入城している。
大阪城を睨んで、徳川方の戦力も整いつつあるが、まだまだの感が拭えない。対する豊臣方も将不足に悩んでいる。
伏見城は真田幸村の縄張りでこの三ケ月でとても強固に造り変えられていた。門はすべて鉄板がはられた鉄城門にされ、倉なども火矢による出火を防ぐため漆喰が何重にも塗られていた。また向島で生産された大量の鉄砲が五千丁ほども蓄えられ、南蛮大筒は三基配置されている。その他、鉄骨で組み上げられた鉄櫓など様々な工夫がされ、万の大軍をしても、そうやすやすと落とせないほどに強固にされた。
徳川方としては大阪城だけで孤立していたのが、伏見城が大阪の付け城の役目を果たしていて、大阪城を攻めるためには伏見城を先に落とす必要があった。伏見城は現在八千の兵で守っており、このことは服部党の調べで家康の知るところであった。
一六〇五(慶長十)年の大阪に対する徳川方の戦力は……
筒井城:藤堂高虎五千兵、加藤嘉明五千兵、蜂須賀至鎮三千兵、徳川譜代の松平家清一万兵(ほとんどが家康が貸し出した兵):合計二万三千兵
岸和田城:浅野幸長一万兵、小出秀政三千兵、松平忠頼千五百兵、北条氏盛七百兵、丹羽氏信七百兵:合計一万五千九百兵
である。