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秀吉の遺言  作者: 鳥越 暁
秀頼の成長
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信幸、松本城を狙う

 黒田長政率いる九州徳川方は、加藤清正の居城・隈元城へ向かうが、柳川の蒲池城で足止めを食らうことになる。蒲池城は小野鎮幸が守っている。小野鎮幸は立花宗茂の家臣であったが先年の立花家改易後は加藤清正に身を寄せているのである。

 鎮幸の直卒する兵は旧立花兵の千余りであるが、蒲池城には清正から送られてきた高橋元種、秋月種長の混合部隊千兵、さらに清正直臣の加藤正方率いる五千兵が送られ、計七千名で守りを固めている。清正は加藤正方に千もの鉄砲を預けて送ったために長政隊は緒戦で蒲池城に寄せたものの、鉄砲隊の激しい銃撃にさらされ、現在にらみ合いが続いている。

 清正は蒲池城の守りを強化するとともに、古処山城にも三千の兵を配置して隈元城を守る形をとった。対する黒田長政は廃城になっていた岩屋城に目をつけ兵三千を配置した。岩屋城は古処山城に対する備え、牽制としたのである。長政の焦りをよそに九州の戦いはこう着状態がしばらく続きそうである。


◆       ◆       ◆       ◆


 信濃の真田信幸は伏見城を豊臣方が奪取した後、高遠城の牽制を解き、居城の上田城に戻っていたが、しばらくして家康の豊臣討伐令が発せられた。


 信幸の所領は背後を森忠政が、信濃領内の松本に石川康長、伊那には保科正光がいる。いずれも十分勝てると見ていた。順当に版図を広げる上では松本を攻めるのが良いであろうとも考えていた。


 信幸は小川好安、宮ノ下藤右衛門、それに仙石秀久・秀範親子と軍議を開き松本城を攻めることにした。まず大阪にお伺いを立て、了解が出ればすぐにも出陣できるように態勢がとられた。

 現在、信幸は七千名もの兵を擁している。また真田紐の利益を元に購入した鉄砲も八百丁ほど所持していた。

 七千名もの兵を全て出兵するわけにはいかない。上田城に千名、小諸城に五百を残すことにし、それぞれ小川好安、仙石秀久を守将とする。


 「秀久殿は小諸城を固く守って下され。攻められたとしても秀久殿の普請は万の兵が来ても持ちこたえられまする。決して大将自ら飛び出してはなりませぬぞ。」


 と猪武者である秀久には決して短絡的な行動をせずに、守りに徹するように指示した。


 信幸は家臣となった秀久に対して、丁寧な言葉遣いをしている。これは、いずれ秀久は大名に復帰すべきと考えていたからである。弟の秀範に関しては、他の家臣同様の物言いであり、秀範には真田家を支えて欲しいと考えていた。秀久は僅かの間に信幸の真摯な態度に心打たれ、年下の信幸に尊敬の念を抱いていた。


 釘を刺された秀久は胸を叩いて答える。


 「確かに私は猪武者でございますが、僅かの間に成長いたし申した。しっかりと小諸を守りますゆえ、ご安心くだされ。」


 信幸は秀久の返答に安堵した。



 大阪に使者を出して四日後、利長の書状を携えて使者が戻ってきた。信幸はすぐさま開封し読み下す。松本城の攻撃は認められた。そのうえ後藤基次率いる二千名の応援隊を送る旨が記されてあった。その到着を待ち攻め入るようにとのことである。後藤基次は黒田如水の家臣であったが、黒田家を継いだ長政と折り合いが悪く出奔して、豊臣方に参陣していた。


 利長の書状には次のように書かれていた。


 「後藤殿は義によって我が豊臣の旗のもとにはせ参じてくれた。が、しかし所領を持ち合わせておらずに心細い思いをしておられる。松本城を落としたならば、是非に後藤殿に領内の仕置を含め任せてくれないだろうか。これは秀頼様のご意向でもある。」


 これには信幸も家老の宮ノ下藤右衛門に苦笑いで言った。


 「これは今回の松本城攻めはただ働きになってしまったわ。」

 

 松本を後藤基次の所領にしてくれということであった。しかし豊臣方全体を考えた場合は良いことである。後藤殿であればしっかりと領内も治めるであろうと意外とすっきりした気分であった。また基次が援軍にやってくると聞いた秀久は喜んだ。基次がかつて黒田家を追放された時に、一時期秀久のもとに身を寄せていた時があるのである。



 信幸はすぐにでも松本城に寄せたかったのであるが、後藤隊が送られてくるまで半月余りとのことであった。半月とはいささか長い気がするが、徳川方の領内を通るため、隊を小分けにし夜行軍で進んでくるとのことであった。さすがに信幸は時間を無駄にすることなく、領内に触れを出し、新たに五百名ばかりを寡兵し、小諸城の守兵に加わらせることにする。


 かくして半月後、後藤隊が揃い、秀久と基次の旧交を温める間もなく、松本城に出陣する。後藤隊は大阪より千もの鉄砲も持ち込んできていた。先手は後藤基次の強い希望により、後藤基次が鉄砲隊千名を含む二千名を率いることになり、中備は宮ノ下率いる長槍隊が二千名、宮ノ下隊には副将として仙石秀範が加わっている。最後尾の本隊は信幸が三千の兵を率いた。

 上田城と松本城は二日ほどの距離であり信幸一行は粛々と行軍していった。



 出陣より二日目の夕刻、松本城大手前に着陣した真田隊は明朝よりの攻撃とした。その夜、信幸の本陣で軍議が開かれる。


 「さて、ざっと縄張りを見たところ攻めづらそうな城ですな。手の者の調べでは三の丸には備えもないようであり、苦も無く進めるようです。問題は二の丸よりということになります。」


 と大将の信幸が述べる。


 「二の丸、本丸の図面はございますか? 」


 という基次の問いに、信幸は松本城の縄張りを調べた手のものを呼び寄せた。


 「我が配下の奥村弥五兵衛でございます。以後お見知りおきくだされ。」


 と基次に真田忍びの奥村を紹介した。


 ここで真田忍びについて少し述べて見る。全国各地に忍軍は存在するが真田忍軍は真田家にだけ仕えており、鍛え抜かれた体術や変装術を得意としている。変装と言っても別人になり済ますのではなく、主に商人や僧侶などに身分を偽り、敵方の情報を根気よく集めるのが得意であった。真田忍びの主だった者は大阪の昌幸の元で働いている。徳川の服部党と呼ばれる忍軍は伊賀、甲賀、武田忍軍などの出身者で組織されており、剣技を得意としている。真田忍びと服部党は同じ忍びであるが全く異なった集団であった。



 「弥五兵衛。縄張りを見せてくれ。」


 「は、こちらでございます。」


 弥五兵衛は皺だらけの紙を広げる。その紙を囲んで皆が首を伸ばしのぞきこむ。


 「こちらをご覧ください。三の丸より二の丸へはこの橋を渡るほかは道はございませぬ。この橋は枡形になっておりますが、いまのところ守兵は配置されておりませぬ。この二の丸には食糧倉、硝煙倉などがありますが、今はその中身は本丸に運び込まれております。本丸は二の丸を半周したところにあるただ一つの橋・黒門によってつながっております。」


 指をさしながら弥五兵衛は説明する。

 地図を眺めていた信幸はうなずくと


 「うむ、御苦労であった。しばし脇に控えてくれ。」


 と脇に弥五兵衛を控えさせ、改めて図面を眺めた。


 「城方の守兵はおよそ二千です。となるとすべて本丸に配置されていると思われますな。」


 図面を見たまま信幸が言う。


 「この黒門も枡形門でしょうか? 」


 と仙石秀範が尋ねた。その問いに脇に控えていた弥五兵衛が答える。


 「枡形門でございます。奥の櫓門には横長の大きな鉄砲狭間がこしらえられております。」


 「ふむ、そうですか。」


 と秀範はなにやら考えている。

 基次は黙してじっと図面を眺めていた。


 「各人それぞれ明日のことを念頭にいれ休むことにし、明日実際に見てから策を練ってはいかがですかな? 」


 基次が大将の信幸に提案する。基次は智略もすぐれているが、実践派の剛の者であり、実際に見てみなければ、なんともいえないと思っていた。『百聞は一見にしかず』が基次の好きな言葉である。


 「そうですな、今宵はここまでとし、夜明けとともに二の丸に進みましょう。」


 と信幸は言って軍議は終了した。夜襲にそなえ宮ノ下配下の者が交代で見張りをたてることにした。





     明朝、信幸軍はいよいよ松本城に攻めかかることになる。

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