火炎
冬の山の中というのは怖ろしく静かだった。辺りに鬱蒼と生えている木々や草が、時々風に吹かれてザワザワと揺れ動いていく音を覗けば、耳朶を打つ音は皆無と言ってもいい。
あまりに無音の状態が続くために、耳の中ではキンキンと耳鳴りがしている。彼はその場に座り込みながら、思わず両の耳をぐっと押さえた。
寒風に晒されてすっかり熱を奪われていた耳に手の皮膚から直に伝わるその暖かさは、どんな暖房器具よりも素晴らしい心地よさを与えるに十分足りるものであった。
だけれどもその変わりに、右の頬の肉が少し抉れた傷跡が、ジンジンとたまらなく痛み出してきた。
段々と痛みは強まっていく。彼はそろそろ我慢できないという所で手をパッと離した。耳は再び風に晒されて、さっきまでの心地よさは少しずつ薄らいでいく。同時に頬の傷跡も痛みが引いてきたように思われた。
再び冷たくなった耳の中にキンキンという耳鳴りの音を感じつつ視線を空に向けると、一面に墨をぶちまけたような真っ黒の有様である。その墨の黒さの中にポツポツと、白や赤や黄色い色が混ざっている。
そのポツポツをじっと見つめていると、子供の頃に何かの記事で読んだ話を思い出した。
「星は地球よりもずっと遠くにあるために、その光が届くのに長い時間がかかっています。
今、地球上の私たちの目に届いている星の光は、何年も何百年も前に放たれた物かもしれないのです。」
そうだ、あれは星なのだ。あの数え切れない程の数をもって自分を見下ろしているのは、はるか宇宙の彼方に浮かぶ星々なのだった。
そうして星はこの自分を、このちっぽけな自分を見下ろし蔑んでいるのだろう……。
そんなあり得もしない感覚に捕われると、急に自分が途轍もなく卑しい存在であるかのように思われた。
そうなのだ。遥か彼方の、人知の及ばぬ遠い星々、神にも等しい星々から見れば地球人類なぞはとても小さい。
そうしてその中でもこの自分は特にちっぽけで卑しい、取るに足らぬ存在なのだ。
突然、泣きたくなってきた。彼は泣いた。山の中なのだから、周りに人がいようはずはない。泣いた。泣いた。誰はばかる事なく両手で顔を覆って、大粒の涙を流した。その手で右の頬の傷跡を撫でると、何だかひどく懐かしい思い出に触れている気がして、余計に涙が溢れてきた。
もはや何で自分がここにいるのか分からない……。
ひとしきり泣いた所で上着のポケットの中に手を突っ込んでみると、ライターがあった。途端に彼の体はさっきの寒さをぶり返す。
これで暖を取ろうか……と思うと、近くにあった枯れ木を適当に寄せ集めて山と積んだ。
ライターの中身はあと少ししか無いようだったが、枯れ木の山に点火するに十分な量ではある。ライターの中身の残量を確認すると、いよいよ点火する。
墨を流したような暗闇の中にパッと赤とオレンジの光が閃き、すぐさま拡大し始める。
枯れ木に点いた火は少しずつ燃え広がり、パチパチという音と共に炎の塊を形成していった。
炎をジッと見詰めていると、忘れようとした記憶が浮かんでは消え、消えては浮かんで行く……。
―――――――
彼が子供の頃……小学校2年生の時分である。
8月も半ば、青空に巨人の群れかと思えるような入道雲が立ち上がり、蝉がその命を懸けてミンミンと喚いている頃に、彼は一人の友達と連れ立って近所の川へ釣りに出かけた事があった。
彼は事前に自宅で昼飯を食って、自慢の釣竿と釣った魚を入れる小さなバケツを持って家を出た。
午後一時を過ぎるか過ぎぬかという時刻に、彼は待ち合わせの場所である橋の上に到着した。
見るとすでに彼の友達は到着しており、橋の欄干に真っ黒に日焼けした両腕を置いてボンヤリと川を眺めていて、その横には彼と同じような小さなバケツが置かれ、中に釣竿が立てられていた。
彼の友達は彼の近づいたのを知ると、欄干に置いていた両腕をばっと宙にやって大きく振り始めた。
「おーい、早く来いよ。遅いよ、××君は」
「ごめん、昼飯を食べるのに時間がかかったんだよ。あれ、その釣竿は……」
「ああ、新しくお父さんが買ってくれたんだ」
彼はその瞬間に気が付いたが、彼の友達は新しい釣竿を持ってきていた。彼は使い古しのくたびれた釣竿しか持っていない。当然その日もそのくたびれた釣竿を持ってきたのだ。
だが、ついこの間まで今の彼と同じような古い釣竿を使っていた彼の友達は、今度はとてもきれいな釣竿を新調していたのである。
「隣の花は赤い」という。
あるいは彼の思いも、他人の所有物が良く見えるという一種の錯覚だったのかもしれず、素晴らしく良い物に見えた彼の友達の釣竿も、ごくありふれたつまらない品であったのかもしれない。
だけれどもその時の彼にとって、彼の友達の持つ新しい釣竿は何にも代え難い至宝に思えてすらいた。
内心に非常な羨望と嫉妬を覚えつつ、彼は彼の友達と共に川べりに降りていった。
川べりは、大小さまざまな形の石の転がる場所だった。幾分傾斜があり、時々足を滑らせそうになってしまう。いつもは暇を持て余した老人や釣り人が何人か集っている場所であるが、その日は彼ら二人以外に人影は見えない。
彼はその日、平常よりも多くの魚を釣ることができた。近くで釣り糸を垂らしている彼の友達に数倍する数が彼のバケツを少しずつ満たしていった。
一方、まだ新しい釣竿に慣れていないのか、たまたま運が悪かったのか、彼の友達のバケツを満たす物は水と、僅かに1,2匹だけの獲物である。
古い釣竿でも十分に魚を釣る事ができる、という事実をこの結果は表しているといえる。
しかし、いくら多くの魚でバケツを満たしても、どんな大物を釣り上げても、彼の心は晴れなかった。
……「やはり自分はあの釣竿が欲しいのだ」……。
そう思うと、彼の心には火炎が渦巻いていた。その火炎は赤々と、彼の全身を焼き尽くさんばかりに勢いを増していった。
彼は心底から、目の前の友達の持つ釣竿が欲しいと思った。両目にその美しさを焼き付けておきたい、両手で思い切り握り締めたい、思う存分使い尽くしてみたい……。
もはや彼の心は火炎に焼き尽くされようとしている。
彼は友達の近くまで歩み寄る。「オイ」と声をかけると、友達はビクリとして彼の声のする方を振り向いた。
「なあ、お前が持ってても上手く使えないんじゃないか。その釣竿を俺にくれよ」
「どうして。これは僕のだ」
「とにかく俺によこせよ!」
友達が要求を呑まないという事くらいは予想していた彼は、友達の片手の中の釣竿を無理に奪い取ろうとした。が、彼を警戒して、友達はますます固く釣竿を握り締めていく。
そうしていると彼の友達は突如として反撃に転じ、空いている方の手で彼の右の頬を思い切り引っ掻いた。
肉が抉れたような感触と共に鋭い痛みが走り、血が流れ出した。二人は激昂して口調をさらに荒げていく。
その後も何度かよこすかよこさぬかの押し問答をしたが、彼はいよいよらちが明かぬと気がついてしまった。
「お前なんかが持っていても、どうせ宝の持ち腐れなんだよ!」
気がついた時には、彼の友達は川の中で必死にもがいていた。
彼は空中に浮かしたままの、自分の右手に気がついた。手のひらには生々しい友達の肩の感触が残っている。
そのままの状態で数秒……彼には10年も100年も経ったように感じられた。
額も、頬も、背中も、腕も、手のひらも、体中から汗が一気に噴き出した。彼の動揺が彼の発汗を急激に促したのだ。
自分が友達を川に突き落としたという記憶はあまり無かったが、友達が川でもがいているという事は、つまりはそういう事なのだろう。
不思議に、「助けを呼ぼう」という気は全く起きなかった。それどころか「これであの釣竿が手に入る」とさえ……。
彼は後に残された友達の釣竿を拾った。両手で握り締めると手のひらにも指にもしっくりと馴染む感じがする。やはりこれは自分が所有してこそ価値のある物なのだ、と、彼は強く確信した。
友達の姿が水に飲み込まれていよいよ見えなくなってから、ようやく助けを呼ぶ気が起こって来た。
それから後のこの出来事の顛末については、彼は多くを記憶していない。
しかし、彼の友達が川で溺れ死んだという事については「不幸な事故」と片付けられた事だけを彼は覚えている。釣竿は友達と一緒に流されてしまったという事になった。
友達を殺してまで奪った釣竿を彼は橋脚の真下、背の高い草がぼうぼうと生い茂っている場所に隠してしまった。そこは日陰であるために常に薄暗く、人の目の届きにくい場所だとふんでの事である。
何日か後に例の場所へ赴き、あれほど欲しかった釣竿を手にとってみた。 だけれども友達の手の中であんなに魅力的に輝いていた素晴らしい釣竿は、いざ誰にも奪われる事のない自分だけの物になると、どういう訳か取り立てて魅力の無いごくありふれた物としか思う事ができなかったのである。
それに、実際に使うにしても何とはなしに気持ちが悪いように思われた。結局、彼はその釣竿を元の場所に放置したまま、二度と近付こうとする事はなかった。
自分はどうして、わざわざ友達を殺してまでその釣竿を手に入れたがったのだろうか?
その疑問の答えを、彼はとうとう見つけ出す事ができないままに成長していった。釣竿の奪い合いで友達に付けられた右の頬の傷もすっかり癒え、後には僅かな傷跡を残すのみとなっていた。
それに比例して自らの幼い殺人の記憶も次第に薄れていったが、癒えたはずの傷の痛みだけは決して消えてはくれなかった。それがために忌々しい記憶も完全に消し去る事はできない。
彼がその事件を時々思い出す時、あの川の近くを通る時……。傷はジンジンと痛み出す。
―――――――
二十代の半ばで結婚した彼は、故郷を忌避するかのように遠くの町へ移り住んだ。
それは彼の幼い記憶がずっと心の中にくすぶり続けていたからである。友達を殺した川に架かった橋を通ったり、その川を見ていたりすると事件の事を思い出す。そうすると途端に傷が疼き出す。
それは耐え難い痛みであり、その痛みは彼にとっては一種の屈辱である。
痛み出すと「お前は犯罪者だ」「人殺しだ」と叫ばれているような、いわゆる良心の呵責とでも言うような恐怖を感じる。その度にあれは事故だったのだと自身に言い聞かせていった。
彼はそのような感覚から逃避するために、故郷を離れたのだった。
結婚から数年の後、彼は盆に故郷へ帰ることになった。内心かなり憂鬱であったが、もう何年も故郷へは帰っていないし、親からもお前達夫婦の顔が見たいと何度も催促が来ていたから、とても無視し続ける訳にはいかなくなってしまったのである。
帰省している間中、彼の心中はまったく穏やかではなかった。
「故郷にいる」という状況は、彼に安息を与えないという事と同義であった。ありえない事ではあったが、自分の犯罪が露見するのではないか……という不安が彼の心を苛んでいた。
あの事件の事を思い出さないように、例の川の近くは通りかからぬようにと何度も気をつけた。
しかし、彼には記憶の底にしつこくこびり付いた、あの友達の肩の感触がことある事に手のひらに蘇るのだった。
それと同時に、右の頬もジンジンと疼き出す。彼は故郷に帰ってから、日増しにその痛みが強くなっているように感じていた。
数日の後に、彼はようやくの事で故郷から我が家へと帰る事ができたが、右の頬の痛みは強くなったまま一向に回復する気配をみせない。
故郷から逃れる事が出来たというのに、彼は傷跡の痛みと殺人の記憶に苦しめられながら、日々を鬱々とした気分で過ごさざるを得なかった。
彼の妻が不貞を犯したのは、それから数ヶ月後の事である。
その話はたちまちその界隈の噂となり、いつともなく彼の耳にも入った。
ある晩に自宅の居間で彼が妻を問いただすと、妻はあっさりと白状した上で彼を嘲笑した。曰く
「あなたに何の魅力も感じなくなった」
と。
彼の全身に熱がみなぎった。顔が真っ赤になる。何か言おうとしても口がうまく動かない。 手足をぶるぶると震わせると、喉から必死に声を搾り出してこれだけ言った。
「黙れ……。自分から、俺を裏切っておいて!」
彼は妻の元へ歩み寄り、首に両手をかけて力を込める。熱を帯びた両手が妻の首に沈み込んで行く。「許して」と哀願する声はもはや彼の耳には届かない。時の彼の心は火炎であった。目の前の裏切り者を焼き尽くそうとする真っ赤な火炎である。
彼自身は怒りのあまり全く気が付いてはいない。だが、その炎は、子供の頃に友人を突き落とした時となんらの代わりも無い。むしろ同種と呼んでもいいくらいに激しく、苛烈に燃え盛っていた。
床には、もはや息をしなくなった人間の死体が転がっている。
「俺は“また”殺してしまったのか」
心の中で何度もその言葉を反芻しながら呆然と立ち尽くす。いずれ誰かに見つかって警察の捜査が始まるだろう。そうなる前に逃げ出さなければならない。
そう思うと彼は、脱兎の如く家を飛び出した。季節は冬である。上着をしっかりと着込んで一目散に走り出す。
いつの間にか、右の頬の傷が痛み出したような感じがあった。
―――――――
静寂に包まれた冬の山の中に、木の爆ぜる音と、次第に荒くなっていく彼の呼吸の音だけが響く。
真っ赤な炎を見詰めていると、次々に人殺しの記憶が蘇ってくる。
ほんの数日前の殺人と、十数年前の殺人。相手の体に触ったこの手の感触。苦しむ姿。無残な死に顔……。
その全てがありありと彼の意識の中に現れてきた。
今また、彼の心には炎が燃え盛っている。その炎は彼の記憶を、運命を燃料として、彼自身を跡形も無く焼き尽くそうと燃え盛っている。
息苦しい。彼は心底そう思った。
息苦しい。
「呼吸をする度に炎が燃え上がって、俺の肺も気道も焦がしていくようだ……」
ふと、まるでそれが自分の義務ででもあるかのような気がして、彼は目の前で炎に包まれている木に片手を伸ばした。炎の中に突っ込まれた彼の手はたちまち焼かれていく。
火炎の中をまさぐって一本の枯れ木を拾い上げると、ハァハァと次第に早くなっていく呼吸を自覚しつつ、それを両手でしっかりと握り締めてみる。
不思議なことにその触感は、かつて友達から奪った釣竿にも、絞め殺した妻の首のようにも思えてしまう。
彼の右の頬は、またジンジンと痛みを放ち始めてしまった。
彼の意識には「人殺し」「犯罪者」「死ぬべきはお前だ」……という声が、いつ果てるともなく響き続けている。
その声はちっぽけな彼を見下ろす星々の声、一人の卑しい人間を裁こうとする神の意思の如くにも思われた。
書いた本人が言うのもアレですが、これって推理小説なんでしょうか?