泥だらけの燕尾服とキンモクセイ
泥だらけの燕尾服とキンモクセイ
胃の腑の底が焼けつくように熱かった。玄関の土間には、昨夜の雨で濡れたまま乾ききっていない長靴が三足転がっており、外の庭からは甘ったるいキンモクセイの香りが吹き込んできている。娘の晴れの舞台だというのに、こんな生臭い湿気と花の匂いが混ざった朝を迎えることになるとは思ってもみなかった。クラリスの父であるアルベルト男爵は、仕立て直したばかりの窮屈な燕尾服の袖口を親指で思い切り引っ張りながら、真っ青な顔で立ち尽くす長女の肩を凝視した。
「クラリス、お前、あのエドワードの若造に殴られでもしたのか。今すぐ納屋から鍬を持ってきて頭蓋骨を割ってやる」
胸の奥が張り裂けそうになりながらも、呆れの混じった息が喉の奥から漏れ出た。ダイニングの丸テーブルの上には、昨夜の残りの冷めきった根菜のスープが白く固まった脂を浮かべており、クラリスが着ている淡い桃色のドレスの裾には、馬車を飛び降りた際についた赤土が点々とこびりついている。父さんはいつもこうやって話の前後も聞かずに一人で暴走するのだと呆れつつ、クラリスは震える指先で自分のエプロンの結び目を何度もいじった。
「違うわよお父様、早とちりしないで! 殴られてなんかないわ、ただ、夜会の広間でみんなの前で言われたの。私がエレナ様のドレスを破いた泥棒猫だから、婚約は破棄して国外追放だって」
こめかみの血管が破裂しそうなほどの憤りが頭蓋を満たした。居間の片隅に置かれた古時計が間抜けな音でボーンと朝の八時を告げ、母のマリアは焦げ目のついた黒パンを皿に載せながら、冷ややかな手つきで台ふきんをきつく絞った。かつて下町の穀物問屋で帳簿をつけていた妻は、亭主が逆上して近所の鍛冶屋と大喧嘩した時ですら眉毛一つ動かさなかった女であり、今もその冷徹な算盤頭をフル回転させているに違いなかった。マリアは油で汚れたエプロンを外すと、戸棚からインクの染みがこびりついた分厚い家計簿を引っ張り出してきた。
「アルベルト、鍬を振り回す前に頭を冷やしなさい。大体あなた、右足の靴下が裏返しよ。……クラリス、そのエレナとかいう小娘のドレスが破けたのは、昨日の何時頃の話なの?」
胃袋がひっくり返るような不快感が胸を突き上げた。台所の土間には朝市で買ってきたばかりのニシンの塩漬けが木桶に入ったまま置かれており、塩気と生臭さが鼻をついて、長男のガイルは苛立たしげに首の後ろをぼりぼりと掻いた。近衛兵の見習いとして王城の門番をしているガイルは、クラリスがどれほど几帳面で、他人の服を引き裂くような真似をするはずがないかを誰よりも知っているはずだった。ガイルは履き古した革靴のかかとを踏み潰したまま、机の上の干し肉を一本ひったくって口に放り込んだ。
「昨日の夕方だろ。俺、非番で城の裏庭を通りかかった時、そのエレナが自分の連れ回してる男に銀貨を握らせてるのを見たぜ。あいつ、自分の従妹に頼んで、控え室のタンスからクラリスの刺繍入りハンカチを盗み出させてたんだよ。あーもう、この干し肉硬えな、母さんもっと薄く切ってくれよ」
悔しさと怒りで目頭がじんじんと熱くなった。まだ十歳になる双子の弟テオと妹ミリーは、毛玉だらけのウールのセーターを着たまま床に這いつくばり、昨夜クラリスが持ち帰ってきた夜会の包み紙を夢中で広げていた。子どもたちにとっては姉の結婚相手が公爵令息だろうが乞食だろうが関係なく、ただ姉が泣いていることだけが世界の終わりのように重大な事件だった。テオは鼻水をすすりながら、ポケットからひしゃげた真鍮の鍵を取り出して見せた。
「ぼく知ってるよ! エレナ様がね、クラリス姉ちゃんの部屋の合鍵を、馬車引きのおじさんに作らせてたんだ! そのおじさん、ぼくの友達のお父さんだから、これ預かってたんだもん!」
頭の中のモヤが晴れると同時に、腹の底から湧き上がるような戦意が両の拳を固く握らせた。居間の窓ガラスには昨夜の雨粒が乾いた白い汚れがびっしりと残っており、庭のキンモクセイの枝には雀が二羽とまって騒がしく鳴き交わしている。自分の娘を根拠もない言いがかりで泥棒扱いし、見せしめのように捨て去ろうとした公爵家の若造の顔を思い浮かべると、貧乏男爵の誇りなどという小綺麗な言葉では収まらない親の執念が体を突き動かした。アルベルトは裏返しに履いていた靴下をそのままに、革の長靴へ強引に足をねじ込んだ。
「おい、全員乗り込むぞ! 母ちゃんは帳簿と証拠の書類を持て、ガイルは衛兵の制服に着替えろ! テオとミリーはその鍵を失くすんじゃねえぞ! クラリス、お前はその一番高かった桃色のドレスをもう一回着ろ、裾の泥なんざ落とさなくていい!」
みぞおちのあたりが震えるほどの緊張が一家を包み込んだ。正午を過ぎた公爵邸の豪奢な応接間には、安っぽい白檀の香油の匂いが鼻につくほど漂っており、テーブルの上には銀のティーセットと、一口だけ齧られて放置されたパウンドケーキが乗っていた。主家の権威を傘に着てふんぞり返るエドワード公爵令息と、勝ち誇った笑みを浮かべるエレナの前に、レディング男爵家の一団は土足の泥を絨毯に残しながら堂々と割り込んでいった。アルベルトは相手が口を開くよりも早く、泥のついた燕尾服の胸を張り、指を突きつけた。
「エドワード様よ、うちの娘が泥棒だって抜かした落とし前をつけに来たぜ! 証拠もなしに追放だなんだと騒ぎ立てやがって、男の風上にも置けねえ野郎だ!」
見下された侮蔑の眼差しに、カッと頭に血が上りそうになった。豪奢な絹のドレスを着たエレナは、胸元に下げたエメラルドを指先で弄びながら、憐れむような目つきでクラリスの泥のついた裾を眺めていた。貴族社会のしきたりや体面などという薄っぺらな壁で自分たちが脅せると思っているその浅ましさが、逆にマリアの冷静な職人根性に火をつけていた。マリアは持参した分厚い帳面をバサリとテーブルの上に叩きつけ、わざと大きな音を立ててパウンドケーキの皿を脇へ追いやった。
「失礼いたしますわエレナ様。あなたがドレスを引き裂かれたと主張する昨日の夕刻、我が家のクラリスは教会の炊き出しで大麦のスープを配っておりましたの。ここに神父様と三十人の信徒の署名がございますわ。それからガイル、あんたが見たっていう例の件、公爵様の前でお話しなさいな」
胸のすくような痛快さが全身の血を駆け巡った。ガイルは騎士団の肩章をぎらつかせながら一歩前へ進み出て、エレナの顔色の変化を面白そうに観察した。嘘と虚栄で塗り固められた令嬢の化けの皮が剥がれ落ちる瞬間を、彼は訓練所の泥試合で勝利を収めた時と同じ目で見据えていた。ガイルは懐から、エレナの筆跡で書かれた合鍵の注文書と、下男に渡された銀貨の包みをテーブルの中央へと放り出した。
「お前の侍女と馬車引き、すでに城門の詰所で全部吐いたぜ。クラリスの部屋に盗んだ宝石を隠して罠に嵌めようとした手口、ぜんぶ書類にして騎士団長に届けてある。……あんた、嘘をつくならもうちょっと頭を使いなよ。裏庭のバラの生け垣、あんたのドレスの切れ端がまだ引っかかってたぞ」
逃げ場を失った相手のみっともない動揺が、張り詰めていた空気を一気に吹き飛ばした。応接間の豪奢な絨毯の上で、エレナは膝をガタガタと震わせてしゃがみ込み、エドワードは顔を真っ赤にして口をパクパクと金魚のように開閉させていた。自分たちがどれほど愚かな不正を働いたかを思い知らされた二人の姿は、先ほどまでの傲慢さが嘘のように小さく見えた。テオとミリーは二人の間をすり抜けながら、わざとらしく大きな声で手を叩いた。
「わあ、お兄ちゃんすごい! エレナ様のお顔、庭のナスビとおんなじ紫色になっちゃったね!」
言葉にならない安堵と誇らしさが、胸の奥を温かい湯のように満たしていった。クラリスは泥のついたドレスの裾を両手でぎゅっと握りしめ、自分を取り囲んで盾となってくれている家族の背中を見つめた。誰一人として自分を疑わず、世間体も身分差も恐れずに泥沼へ飛び込んでくれた家族の体温が、冷え切っていた手足の先までじんわりと温めていくようだった。クラリスはエドワードに向かって、生まれて初めて深く、しかし一切の未練を捨て去った礼をした。
「エドワード様、婚約破棄のお言葉、謹んでお受けいたします。私を信じてくださらない方のもとへ嫁ぐ理由など、毛頭ございませんから」
晴れやかな秋の青空が、屋敷を出た一家の頭上にどこまでも高く広がっていた。馬車へ戻る道すがら、アルベルトの燕尾服の裾からはほつれた糸が風に揺れており、ポケットの中にはテオが拾った真鍮の鍵がジャラリと音を立てて残っていた。泥だらけの靴で歩く土の感触を確かめながら、父親は娘の頭を大きな、節くれだった手で乱暴に撫でた。アルベルトはキンモクセイの香る風を胸いっぱいに吸い込み、からからと喉を鳴らして笑った。
「よし、一件落着だ! 今夜はあの塩漬けのニシンを全部焼いて、パンも焦げてないやつを買い直して宴会にするぞ! おいガイル、帰ったらまず庭の長靴を洗え、あれじゃ明日履けねえだろうが!」




