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氷姫と呼ばれる私が唯一溶けてしまうのは、チャラくて強くて優しい幼馴染の前だけです

作者: しろ
掲載日:2026/03/27

 城ヶ崎姫花には、名前がある。


 本名ではない。本名は姫花だ。城ヶ崎姫花、十六歳、高校一年生。それが正式な名前。


 でも学校では別の名前で呼ばれている。


 氷姫。


 最初にそう呼んだのが誰なのか、もはや知らない。気づいたときにはもうそう呼ばれていて、気づいたときにはもう誰も私のそばに来なくなっていた。


 廊下を歩けば道が開く。教室に入れば会話が止まる。昼休みは一人で食べる。それがもう半年以上続いている日常だった。


 別に、かまわない。


 そう思うことにしていた。


---


 四月のある朝、私は下駄箱の前で固まっていた。


 上履きに、付箋が貼ってある。


 『ブス』


 一言だけ、油性ペンで書かれた付箋。几帳面な字だった。誰の字かは知らないけれど、丁寧に書いてあるのが逆に笑えた。ブスに几帳面も何もないと思うけれど。


 私は付箋をはがして、ゴミ箱に捨てた。上履きに履き替えて、廊下を歩く。


 かまわない。かまわない。かまわない。


 三回唱えると、たいていのことは平気になれる。中学の頃から使っている呪文だ。


 一年C組の教室に入ると、案の定、話し声がぴたりと止んだ。女子のグループがこちらを見て、くすくすと笑う。私は彼女たちを見ないようにして、窓際の自分の席に向かった。


 椅子を引こうとして、気づく。


 座面に、消しゴムのかすが大量に乗っていた。


 きれいに集めて、手のひらに乗せて、ゴミ箱に持っていく。それだけのことだ。かまわない。かまわない。かまわない。


 席に座って、窓の外を見る。四月の空は馬鹿みたいに青くて、見ているとなんだか無性に腹が立った。


「よー、姫花」


 声がして、私は硬直した。


 聞き覚えのある声。いや、聞き覚えどころじゃない。物心ついた頃からずっと聞いてきた声。でもここ三年間は聞いていなかった声。


 振り返ると、そこにいた。


 齋藤海斗が、廊下側の通路から、ひらひらと手を振っていた。


 制服のシャツは第二ボタンまで開いていて、ネクタイはゆるゆるで、袖をまくった腕には細いミサンガが三本巻いてある。なのに顔だけは腹立たしいほど整っていて、どこのモデルだという話で、へらへらとした笑顔がまた余計に腹立たしかった。


 斎藤海斗。同じく十六歳、一年C組。


 つまり、同じクラスだった。


 入学式の日に名簿で気づいて、その日の夜は眠れなかった。


「……なに」


 私は努めて平坦な声で言った。


「なにって、久しぶりじゃん。元気だった?」


「普通」


「そっか。俺も普通だわ」


 海斗はそう言いながら、私の隣の席に座った。そこは彼の席ではなく、たまたま今朝まだ来ていない男子の席だった。海斗はまったく気にした様子もなく、椅子を逆向きにして背もたれに腕を乗せて、こちらを見た。


「ねえ、下駄箱のゴミ箱に付箋捨てたの、姫花だろ」


 私は黙った。


「見てたんだよ、遠くから」


「見てたなら助けてくれればよかったじゃない」


「姫花が助けを求めたか?」


 求めていない。黙って捨てただけだ。私は返事をしなかった。


「ま、そういうとこだよな」と海斗は言った。笑いながら言うから腹が立った。「昔から、全部一人でやろうとする。ほんと困っちゃうよなー」


「あなたには関係ない」


「あるかもしんないじゃん」


「ない」


「断言すんの早くない?」


 私は窓の外に視線を戻した。これ以上この会話を続ける気はなかった。海斗は少しの間黙っていたが、やがてのんびりした声で言った。


「今日の昼、一緒に飯食わない?」


「嫌」


「理由は?」


「理由を言わないといけないの」


「いや、まあ、別にいいけど」


 海斗はひょいと立ち上がって、今度こそ自分の席に戻っていった。教室の視線が私たちのやり取りをずっと追っていたのが分かっていたが、気にしないことにした。かまわない。かまわない。かまわない。


 でも呪文を三回唱えても、今日は少しだけ、落ち着かなかった。


---


 昼休みになった。


 私はいつも通り、購買でパンを一つ買って、空き教室に向かう。誰もいない教室で一人で食べるのが習慣になっていた。別に辛くはない。一人のほうが気楽だ。誰かに気を遣わなくていいし、話しかけてくる人もいないし、視線も感じない。


 三階の端の、使われていない家庭科準備室の前まで来て、ドアを開けようとして、止まった。


 中に、先客がいた。


 海斗だった。


 窓際の椅子に座って、コンビニのおにぎりをかじっていた。こちらに気づいて、ぱっと顔を輝かせた。


「あ、来た来た」


「……なんであなたがここにいるの」


「姫花がどこで昼食べてんのか気になって、こっそりついてきた」


「ストーカー」


「そんなひどい。おれこんなに姫花の事思ってるのに」と海斗はわざとらしく演技し、笑った。「せっかくだし一緒に食べようぜ。どうせ誰もいねえんだから」


 私は少し考えて、入ることにした。追い返してもまた来そうだと思ったし、正直なところ、立ち話をするより早く食事を終わらせたかった。


 海斗から一番遠い椅子を選んで座ると、海斗は「遠っ」と笑った。私は無視してパンの袋を開ける。


 しばらく、静かだった。


 準備室には古い調理器具が棚に並んでいて、窓から差し込む日差しが埃っぽい空気を照らしていた。海斗はおにぎりを食べながら、スマホをいじっていた。特に話しかけてこなかった。


 それが、少し意外だった。


 海斗は昔から話し好きだった。何かにつけてしゃべって、何かにつけて笑って、黙っている時間が苦手なタイプだったはずだ。でも今は静かで、こちらを急かすこともなく、ただそこにいた。


「……変わったね」


 気づいたら、口から出ていた。


 海斗はスマホから顔を上げた。「何が?」


「昔はもっとうるさかった」


「あー」と海斗は笑った。「まあ、姫花も変わったじゃん」


「私は変わってない」


「変わったよ」


 断言されて、私は黙った。


 海斗は窓の外を見ながら、続けた。「昔の姫花は、もっとよくしゃべった。笑いもしたし、泣きもした。今の姫花、全然泣かないじゃん。笑いもしないし」


「あなたが知ってるのは昔の私だから」


「それもそうか」


 海斗はあっさり頷いて、またおにぎりを食べ始めた。私もパンをかじる。


 沈黙が続いた。でも今度は、悪くない沈黙だった。


---


 それから、海斗は毎日昼休みに準備室に来た。


 来るなとは言わなかった。言う前に来るし、言っても来そうだと思ったから。だから黙って受け入れることにした。


 海斗は基本的にスマホをいじっているか、くだらない話をするかのどちらかだった。クラスの誰それが面白いとか、今朝のコンビニで店員さんが親切だったとか、昨日食べたラーメンが美味しかったとか。私が相槌を打つかどうかに関係なく、海斗は話し続けた。


 私はだんだん、その感じに慣れてきた。


 一方で、クラスでの状況はじわじわと変化していた。


 女子グループが海斗と仲良くしている私を見て、面白くなさそうにしていた。私が氷姫として孤立しているのは構わないが、海斗という人気者と繋がっているのが気に入らないらしかった。嫌がらせはむしろ増えた。上履きに水が入れられたり、教科書がなくなったり、廊下で肩をぶつけられたりした。


 私はそのたびに、かまわない、かまわない、かまわない、と唱えた。


 ある日、体育の授業の後で着替えが終わって教室に戻ろうとしたら、女子に囲まれた。リーダー格の橘さんが腕を組んで立っていて、その後ろに四人が並んでいた。


「城ヶ崎さん、ちょっといい?」


 橘さんは愛想よく笑っていた。その愛想のよさが一番怖かった。


「なんですか」


「齋藤くんとどんな関係なの?」


「幼馴染です」


「知ってる。だから聞いてるの。幼馴染がわざわざ昼休みに毎日一緒にいる必要あるの?」


 私は少し考えて、「ないと思います」と答えた。


「じゃあ離れてくれない? 齋藤くんも迷惑してると思うよ、あなたみたいな陰気な子と一緒にいたら」


 後ろの子たちがくすくすと笑った。私は橘さんを見たまま、何も言わなかった。


 何も言えなかった、というほうが正確かもしれない。


 迷惑してる。その言葉が、思ったより深いところに刺さった。


「返事は?」


「……考えます」


 橘さんは眉を上げたが、それ以上は何も言わなかった。私は彼女たちの間を抜けて、廊下に出た。


 そのまま準備室に向かおうとして、足が止まった。


 迷惑、かもしれない。


 海斗は誰とでも仲良くできる人間だ。そして、女子にモテる。海斗も女子が好きだ。本来なら、私と一緒にいる必要なんてない。なのになぜか毎日準備室に来る。その理由を私は考えていなかった。考えないようにしていた、というほうが正確かもしれない。


 もし本当に迷惑なら。


 私は廊下の窓から外を見た。校庭では別のクラスが体育の授業をしていて、誰かが大声で笑っている声が聞こえた。


 かまわない。かまわない。かまわない。


 呪文を唱えたが、今日は全然効かなかった。


---


 次の日、私は準備室に行かなかった。


 購買でパンを買って、そのまま屋上の入り口脇の踊り場に座った。屋上は施錠されているから人が来ない。そこなら一人でいられると思った。


 正解だった。誰も来なかった。


 パンを食べながら、ぼんやりと壁を見ていた。薄暗い踊り場で、換気扇の音だけが聞こえた。


 昨日の橘さんの言葉を、何度も思い返していた。


 迷惑してると思うよ。


 海斗は迷惑だと思っているだろうか。あのへらへらした笑顔の裏に、実は迷惑だという感情が隠れているだろうか。


 わからなかった。


 昔の海斗なら、もう少し分かった気がした。幼馴染として長い時間を一緒に過ごしてきたから、何を考えているか大体は読めた。でも今の海斗は分からない。三年間の空白があるから。


 三年前の、あの夜のことを思い出す。


 夏祭りだった。中学一年の夏。浴衣を着て、海斗と一緒に地元の神社の夏祭りに行った。子供の頃から毎年そうしていたから、その年も当たり前みたいに二人で行った。


 屋台を回って、綿飴を食べて、射的で海斗が馬鹿みたいに張り切って、私が呆れて笑って——そこまでは普通の夜だった。


 問題は帰り道だった。


 暗い路地で、私は男に絡まれた。酔っていたのか、それとも最初からそういうつもりだったのか、知らない。ただ腕を掴まれて、引っ張られた。叫ぼうとしたが声が出なかった。


 海斗が飛び出してきた。


 どこから出てきたのかも分からないくらい早かった。男を突き飛ばして、私の前に立って、「この子に触んな」と言った。声が震えていた。怒りで震えているのか、怖くて震えているのか、分からなかった。男は舌打ちをして去っていった。


 その後、私は泣いた。


 恐怖で膝が笑っていて、地面にへたり込んで、声を殺して泣いた。海斗がしゃがんで、「大丈夫か」と言った。私は頷いた。大丈夫じゃなかったけど、頷いた。


 そうしたら海斗も泣きそうな顔をした。


 それが怖くて——海斗がそんな顔をするのが、どうしようもなく怖くて——私は「もう帰る」と言って、そのまま一人で走って帰った。


 その後、海斗からメッセージが何件か来た。大丈夫か、と。ちゃんと帰れたか、と。


 私は既読をつけずにいた。


 次の日も、その次の日も。


 なんとなく、顔を合わせるのが怖くなっていた。海斗が見せたあの泣きそうな顔が頭から離れなくて、それを見てしまった自分が恥ずかしくて、何となく距離を置くうちに、三年が経った。


 馬鹿みたいな話だと思う。


 でも当時の私には、それが精一杯だった。


 踊り場の壁を見つめながら、私はパンをかじった。ハムチーズだった。美味しくなかった。気分の問題だと思う。


 その時、踊り場の扉が開いた。


 海斗が立っていた。


 やや息が上がっていた。探し回っていたらしかった。私を見つけて、ほっとしたような顔をした。


「ここにいたのか」


「……なんで探してるの」


「準備室に来なかったから」


「行かないことにしたの」


 海斗は踊り場に入ってきて、私の近くの階段に腰を下ろした。息を整えながら、「なんで」と聞いた。


「迷惑でしょ」


 言うつもりはなかった。でも出てきた。


 海斗は一瞬止まってから、「誰がそんなこと言った」と聞いた。声のトーンが少し変わっていた。笑っていなかった。


「橘さん」


「あー」と海斗は言った。「昨日の放課後に囲まれてたやつか」


「見てたの」


「遠くからな。また一人でさっさと解決してたから、助けに行くタイミング失くした」


 また同じことを言っている。私は膝を抱えた。


「迷惑じゃないよ」と海斗は言った。


「でも」


「俺が迷惑だと思ってたら、毎日来ないだろ。俺、自分が嫌だと思うことはしない主義だから」


「……それはそれで問題があると思う」


「なんで」


「人間、嫌なことも我慢しないといけない場面があるから」


 海斗はぷっと吹き出した。「そういうとこ、変わってないよな」


「どういうとこ」


「真面目なとこ」


 私は黙った。海斗は笑いながら、踊り場の薄暗い天井を見上げた。


「ねえ、姫花。昔の話していい?」


 心臓が、一瞬だけ跳ねた。「……どの昔の話」


「三年前の、夏祭り」


 やっぱりそれか、と思った。いつかこの話になると薄々感じていたが、いざ来ると心臓が痛かった。


「あの時、俺、結構怖かった」と海斗は言った。天井を見たまま、静かな声で。「男に絡まれてる姫花を見た時、足が震えた。ちゃんと動けるか分からなかった。でも動かないといけないと思って、動いた」


「……知ってる」


「その後、姫花がへたり込んで泣いてるのも見た。あんなに泣く姫花、初めて見たから、俺もどうしていいか分からなかった。大丈夫かって聞いたら頷いて、でも全然大丈夫じゃない顔してて」


「やめて」


 声が出ていた。「その話はやめて」


「やめないよ」と海斗は言った。今度は私を見ていた。「ずっと言えなかったから、今日言う」


「……」


「姫花が俺を避けるようになった理由、俺なりに考えた。あの夜、泣いてるとこ見られたのが恥ずかしかったのかなって。姫花、昔から弱いとこ見せるの嫌いだったから」


 図星すぎて、返事ができなかった。


「でも俺、全然恥ずかしくないし、情けないとも思ってないから。姫花が怖い思いしたのは当然で、泣いてもおかしくない。むしろ泣けてよかったと思う。俺の前で泣いてくれて」


「……あなたが言うと腹立つ」


「なんで」


「そういうことを、さらっと言うから」


 海斗は少しだけ笑った。「ごめん」


「謝らなくていい」


「じゃあ謝らない」


 また沈黙が来た。換気扇の音が続いている。さっきより、静かな気がした。


「俺がまた姫花のそばに来たのは」と海斗は続けた。「高校くらいでリセットしようと思ったから。三年間、ずっとこのままはなんか嫌だったし、もったいないと思って」


「もったいない」


「幼馴染を無駄にするのが、もったいない」


 私はその言葉を、頭の中で転がした。もったいない。幼馴染を無駄にするのが。


「……単純な理由だね」


「俺、単純だから」


「自覚あるんだ」


「あるよ。姫花ほど複雑じゃない」


 私は膝の上に顎を乗せた。「私、複雑じゃない」


「十分複雑だよ」と海斗は笑った。「まあでも、そこが面白いから」


「面白いって何」


「人間として面白いってこと。飽きない」


 私は何も言えなかった。


 飽きない、なんて言葉を、誰かに言われたのは初めてだった。いつも私は、疎まれるか、距離を置かれるかのどちらかだった。面白いと思われたことなんてなかった。


「……あなたって、変わってるよね」と私は言った。


「そうかな」


「普通、氷姫と呼ばれてる子に近づかない」


「俺、氷姫だと思ったことないから」


「周りはそう思ってる」


「俺は周りじゃないし」


 海斗はあっさりとそう言って、立ち上がった。「昼休み終わるから戻ろ」と言って、私に手を差し伸べた。


 私は少しの間、その手を見た。


 広い手だった。中学の頃より、ずっと大きくなっていた。


 私はその手を取った。


---


 五月になった。


 準備室での昼食は続いていた。橘さんたちはまだ嫌がらせをしてきたが、どこか以前より勢いが薄れた気がした。理由は分からなかった。


 ある日の放課後、廊下を歩いていると、後ろから足音が来た。


「姫花、今日暇?」


 振り返ると海斗だった。


「定義による」


「定義?」


「暇の定義。何もすることがないという意味なら暇じゃない。時間があるという意味なら暇かもしれない」


「後者だわ。ちょっと付き合ってほしいとこあるんだけど」


 私は少し考えて、「どこ」と聞いた。


「駅前のゲーセン」


「なんで」


「UFOキャッチャー、一人じゃ攻略できなくて」


「それを私に言う意味は」


「目が良さそうだから。角度の計算的な意味で」


 意味不明だと思ったが、断る理由もなかった。「別にいいけど」と言うと、海斗が顔を輝かせた。その顔が、小学生の頃と全く変わっていなくて、少しおかしかった。


 駅前のゲームセンターで、海斗が狙っていたのはぬいぐるみだった。くたっとした白いクマのぬいぐるみで、ちょっとだけ不格好な顔をしていた。


「これが欲しいの」


「かわいいじゃん」


「かわいいとは言ってない」


「じゃあなんで欲しいの」


「なんか気になって」


 私は筐体の前に立って、中を観察した。クマは右奥に偏っていた。アームの位置と角度を見る。何回か試行すれば取れる気がした。


「百円貸して」と言うと、海斗が硬貨を渡した。


 一回目は外れた。クマが少し手前に動いた。


「あ、惜しい」


「うるさい。集中できない」


 二回目で、クマの左腕にアームが引っかかった。持ち上がって、落ちた。出口じゃない場所に。


「あー」と海斗が声を上げた。


「まだある」


 三回目。アームを少し左に調整した。引っかかった。持ち上がった。


 落ちた。今度は出口の手前に。


「次いける」と私は言った。海斗がまた百円を渡した。


 四回目。アームが右腕を掴んで、クマがゆっくりと持ち上がった。揺れた。落ちそうになって、持ちこたえて、滑り落ちて——出口に入った。


「おお!」


 海斗が声を上げた。私はクマを取り出し口から取り出した。渡すと、海斗が受け取って、まじまじと見た。


「すごいな。俺、十回くらいやって取れなかったのに」


「観察が足りないだけ」


「なんか先生みたいなこと言うな」と海斗は笑った。それからクマを私に差し出した。「これ、姫花にあげる」


「いらない。あなたが欲しかったんでしょ」


「なんか、姫花に取ってもらったら姫花が持ってたほうがいい気がした」


「意味が分からない」


「俺もよく分かんない」


 私はクマを受け取った。不格好な顔が、近くで見るとなんだか愛嬌があった。


 外に出ると、夕方の空がオレンジ色になっていた。駅前の人混みを歩きながら、海斗がコンビニのビニール袋からアイスを二本出した。


「ハーゲンダッツとガリガリ君、どっちがいい」


「ガリガリ君」


「高いほうくれてやるのに」


「ハーゲンダッツのほうが好きじゃないから」


「変なの」と海斗は笑いながら、ガリガリ君を渡した。私はそれをかじった。コーラ味だった。


「ねえ」と海斗が言った。「姫花って最近、ちょっと表情豊かになったよな」


「そう?」


「さっきのゲーセンでも、ちょっとだけ笑ってたし」


「笑ってない」


「してたよ。クマ取れた時」


 していたかもしれない。自分では気づかなかった。


「……あなたのせいかもしれない」と私は言った。


「俺の?」


「あなたがいるとなんか、気が緩む。昔からそうだった気がする」


 言ってから、少し恥ずかしくなった。こういうことを言うのは、私らしくなかった。


 海斗は少しの間黙っていた。私は前を向いたまま、アイスをかじった。


「それ、めちゃくちゃ嬉しいんだけど」と海斗は言った。声が少し、普段と違った。笑いを含んでいなかった。


「……別に大したことは言ってない」


「俺は大したことだと思う」


 私は答えなかった。夕焼けが眩しくて、少し目を細めた。隣を歩く海斗の長い影が、私の影と重なっていた。


---


 六月に入って、梅雨が来た。


 ある朝、傘を忘れた。予報を見ていなかった私が悪いのだが、学校に着いた頃には結構な雨で、放課後どうしようと思いながら授業を受けていた。


 放課後、昇降口の前で雨を見ていると、横に海斗が来た。


「傘ないの?」


「ない」


「送ってくわ」


「家、逆方向だけど」


「知ってる」


「だから送らなくていい」


「俺がしたいの」


 また単純な理由だ。私はため息をついた。


 海斗の傘は大きかった。二人で入ると、肩が触れそうな距離になった。私は少し端に寄った。


「近くていいのに」と海斗が言った。


「濡れない距離で十分」


「俺が濡れるじゃん」


「あなたが持ってる傘だから、あなたが中心でいい」


「なんか理屈っぽい」


「正しいから」


 海斗はくだらないとでも言いたそうな顔で笑って、ちょっと傘を私のほうに傾けた。そのせいで彼の肩が少し雨に濡れた。


「傾けなくていい」


「いいんだよ」


 私は何も言えなかった。


 雨の音がざあざあと続く中、二人で歩いた。普段は話しながら歩くのに、なぜか今日は二人とも黙っていた。でもそれが不思議と嫌じゃなかった。


 私の家の手前の交差点まで来た時、海斗が言った。


「ここまで来れば走っていけるだろ」


「ありがとう」と私は言った。


 お礼を言うのが苦手だったが、今日は自然に出た。


 海斗が私を見た。なんだか不思議そうな顔をしていた。


「どうしたの」と私は聞いた。


「姫花にありがとうって言われると、なんか、ぐっと来る」


「ぐっと?」


「いや、なんでもない。走って帰れ、濡れるから」


 海斗に背中を押されて、私は走り出した。


 家のドアを開けて、中に入って、振り返ると、海斗はまだ交差点のところに立っていた。こちらを見ていた。私が手を振ると、向こうも手を振った。それからようやく歩き出した。


 私はドアを閉めて、玄関に立った。


 胸の中が、じわりと温かかった。


 変な感じだ、と思った。体が温かいなら分かる。雨に濡れたのだから。でも胸の中が温かいのは、雨とは関係がなかった。


 鍵を掛けながら、海斗の傘が私のほうに傾いていたのを思い出した。濡れた肩を思い出した。「いいんだよ」という声を思い出した。


 心臓が、とくんと鳴った。


 私は手を止めた。


 もう一度、今の出来事を頭の中でなぞった。交差点まで送ってきてくれて、傘を傾けてくれて、ぐっと来ると言っていた。そしてずっと私の隣にいた。準備室の昼食も、ゲームセンターも、今日の帰り道も。


 なぜ、と今さら思った。


 なぜ海斗はここまでするのだろう。幼馴染だから、だけでは説明がつかない気がした。もったいないから、と言っていたが、それだけとも思えなかった。


 でも、もし。


 もし海斗が、私のことを——


 そこまで考えて、私は自分の顔が熱くなっているのに気づいた。


 玄関の壁にもたれかかって、天井を見上げた。雨の音が屋根を叩いている。心臓がうるさかった。こんなにうるさいのを感じたのは、いつぶりだろうと思った。


 私はそこで気づいた。


 かまわない、という呪文を、今日は一度も唱えていなかった。


 橘さんに嫌がらせをされても、以前なら三回唱えていた。でも最近は、唱える前に別のことを考えている。海斗が何か言った、海斗が笑った、海斗が隣にいた——そういうことが頭を占領していて、呪文の入る隙間がなかった。


 いつから、そうなっていたのだろう。


 答えは、分かっていた。


 ずっと前から、だ。準備室で初めて一緒に昼を食べた日から、ずっと。もしかしたら、高校の入学式の日に名簿で名前を見つけた日から、ずっと。


 私はずっと——


 胸に手を当てた。心臓が、また、とくんと鳴った。


 廊下の外では雨がまだ降り続けている。海斗は今頃、どこを歩いているだろう。傘の持ち手を持ちながら、いつものへらへらした顔で、でも時々あの静かな顔になって、歩いているだろう。


 私は目を閉じた。


 三年間の空白を、私は「気まずかったから」と片付けていた。でも本当は、気まずかったのではなかった。あの夏祭りの夜、海斗の泣きそうな顔を見て、何かが胸の中に引っかかって、それが怖くて、逃げたのだ。


 その「何か」が、今もまだここにある。


 むしろ、大きくなっている。


「……馬鹿みたい」


 思わず声に出た。自分に対して言った言葉だった。


 氷姫、などと呼ばれていたくせに。誰の告白にも塩対応で、誰にも靡かないと思われていたくせに。


 私の心臓は、三年前からずっと、ちゃんと動いていたらしかった。


 齋藤海斗のために、とくんとくんと鳴いていたらしかった。


 玄関に立ったまま、私はしばらくそこを動けなかった。雨の音と心臓の音が、ごちゃごちゃに混ざって、頭の中が不思議なくらい静かだった。


 かまわない、なんて呪文は、もう要らないかもしれない、と思った。


 あるいは——代わりの言葉が、いつかきっと見つかる、と。

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