最強の騎士が私のために「ざまぁ劇」を用意してくれましたが、復讐より彼が気になって仕方ありません
断罪されたのは、昨夜のことだ。
なのに今朝……私、アンナ・フォン・クラインはいつものように実家の庭でポーチドエッグを食べていた。
庭師が丹精した菜園。季節の花。涼しい朝の空気。
全部、昨日と変わらない、美しい風景だ。
一つ変わったことと言えば、婚約者がいなくなったことくらいだ。
アンナはカップを持ち上げながら呟いた。
「……まあそういうこともありますわね」
過去のことをいつまでも引きずるのは性に合わない。
元々、王子とは最初から話が合わなかった。
趣味も違う、考え方も違う、食事の時間帯まで違う……。
そんな何もかも合わない赤の他人に三年間、ひたすら私が合わせ続けていた。
婚約破棄とは、つまり……もう自由だということだ。
婚約破棄されて、最初は悲しかったりショックだったけれど、今ではとてもすっきりしている。
(そもそも、政略結婚だったから愛なんてなかったし、合わない人にずっと気を使って暮らしていたのは、私にとって大きなストレスだったのかしら……)
そんなことを考えながらしばらく食事を続けていると、庭の門が開いた。
そこから入ってきたのは、セヴァンだった。
彼はセヴァン・ディアス、二十二歳。
王国騎士団副団長で、私の数少ない幼なじみでもある。
幼いころから隣の家に住んでいたので、庭から直接来るのは今に始まったことではない。
ただ、今日はなんとなくいつもと雰囲気が違った。
険しい顔で真っ直ぐこちらを見ている。
「……アンナ」
「おはよう。パン食べる?」
「……食べない」
セヴァンは椅子を引いてアンナの向かいに座った。
膝の上では、拳が握られている。
「あのさ……あのこと、俺がやり返すよ」
「え?なんのこと?」
「昨夜のことだ。お前は黙ってなんでも許しすぎじゃないか?
俺が……アンナの代わりにあいつらにお返ししてやる」
私は一口パンを飲み込んでから、少し考えた。
「うーん……別にいいよ、そんなに気にしてないから」
「良くない」
即答だった。
「よ、良くないんだ……」
セヴァンは低い声で繰り返した。彼にしては珍しく、声に感情が乗っていた。
アンナは手を止めた。
この男が感情を声に出すのを、十九年の付き合いでそう多く聞いたことがない。
本当に怒っているのだろう。
「……なんでそんなに怒ってるの?」
ただ、純粋な疑問だった。
「……」
セヴァンは、険しい顔で何も答えなかった。
ただ、テーブルの上に乗っていた彼の拳が、強く握られていた。
それから、色々な事が動いていった。
私については……特に何もしなかった。
次の生活を考えながら、本を読んだり、庭の手入れをしたり……
特に影響されることなく、いつも通りに過ごしていた。
父上や家族が少しあわただしそうにしていたけれど、そこまで大したことはないだろう。
その裏で、セヴァンが動いていた。
最初に知ったのは、三日後のことだった。
「お前を捨てた、カイル王子の議会工作についてなのだが……
複数の証人から証言を取り書面化した。騎士団の記録として正式に提出しておいたからな」
急な報告にアンナは目を瞬かせた。
「……こんなこと、いつの間に?」
「三日ほど前に動き出してな」
「早すぎるわ……誰かと一緒に調査してくれたの?お父様とか?」
「いいや、一人でやったさ。まだやることがたくさんあるからな。
今日は一旦報告だけしに来た。失礼する」
一礼してセヴァンは帰っていった。
それからまたしばらくして。
また、私の部屋にセヴァンが訪れてきた。
「カイル王子が贔屓にしていた、エルゼ嬢の出身地で債務不履行の記録が三件あった。
こちらも関係者を通じ文書を取寄せ、社交界の記録係に届けておいた」
「……どこまで調べたの?」
「必要なことをしただけだ」
「そこまで必要だった?」
「……そうだ」
セヴァンはそれだけ言って、また帰っていった。
アンナは自分でも不思議だったが、怒りや溜飲が下がるような感覚は、なかった。
ただあった感情は「この人は今、何をしているのだろうか」という、静かな関心だけ。
観察眼には自信がある。余計な感情に流されないぶん、他人の様子がよく見えた。
セヴァンの顔は、ただ、やると決めたことをやっている顔のように見えた。
それが少し、自分の中で気になった。
七日目の午後。
「以前、アンナの断罪の証人として立った貴族五名についてなのだが……
あの証言が虚偽だったと判明した。こちらも以前報告したものと同じように、文書化して騎士団経由で議会図書館に提出した。これも正式な不正の記録になる。もうすこしだ。」
「……本当に全部やっちゃうんだ」
「やると言っただろう」
アンナはソファから立ち上がった。
「ねえ、セヴァン」
「なんだ」
「なんでそこまで……私のために頑張ってくれるの?」
これも単純な疑問だった。
自分は婚約破棄されたことに怒っていない……し、頼んだわけでもないのに、この人は私のために、あれから何日も休まず動き続けてくれている。
それについて聞いても、セヴァンは答えてくれなかった。
ただ、「当然だ」とだけ言い、その日も帰っていった。
計画が全て終わったのは、八日目の夕方だった。
アンナの家の居間で、セヴァンは何も言わずに椅子に座っていた。
いつもは用が終わったら帰るので、珍しく感じた。
窓からは夕陽が差し込んでいる。
オレンジの光がフローリングに斜めに伸びていた。
私は向かいに座ってから、少し迷って……口を開いた。
「ねえ。本当に、なんでここまでしたの?」
セヴァンはすぐには答えなかった。ただ、しばらく窓を見ていた。
セヴァンは長く黙っていた。
私が「やっぱりいい」と言いかけようとした時、セヴァンが口を開いた。
「……お前が怒らないから。」
アンナは少し首を傾けた。「?」が顔に出た。
「お前があの件に対して全く怒らないし、気にしないから…俺が代わりに怒っているんだ」
静かな声だった。
アンナは三秒ほど、その言葉の意味を考えた。
考えていると何かが、ゆっくり落ちてきた感触がした。
断罪の夜。
会場から帰ったとき、屋敷の門のところにセヴァンが立っていて、初めて心配してくれたのはセヴァンだった。
翌朝。
庭で朝食を食べていたとき、これも最初に顔を見に来たのはセヴァンだった。
この一週間、ずっと私のために動いていたのもセヴァンだった。
私が気づいたとき、私が悔しがるより先に、怒っている人間がいた。
全部、私のために。
なんでそこまで、と思って——
(ああ……この感情は…)
アンナは自分の胸に手を当てた。
心臓が、いつもより速く動いていた。
その日、何も言えないままだったけど、セヴァンには帰ってもらった。
翌朝、一人で庭に出た。
昨夜のことを思い出すと、少し恥ずかしかった。
ちゃんと言葉を返せない自分が、珍しくてわかりにくかった。
私は観察眼が鋭い。他人の感情の動きはよく見える。
ただ一点、自分の感情にはひどく疎かった。
誰かを好きになるという感覚を、あまりよく知らなかった。
だけれど、それが今……はっきりと自覚できるようになっていた。
(なんで、今まで気づかなかったんだろう)
幼なじみだから、優しいから、という答えで何年もそこで止まっていた。
セヴァンが怒ってもセヴァンが心配しても、それを「当然」として受け取ってきた。
当然ではなかったのだ。
正式な謝罪文が王宮から届いたのは、それから数日後のことだった。
封蝋入りの白い便箋。
筆跡が丁寧で、明らかに担当者が苦労して書いている。
(今の私に言われても、もうどうでもいいことね)
アンナは一行目を読んで、脇に置いた。
不正の数々が明るみになったのに、王宮の対応は手紙で謝罪をするだけ……
別に結婚破棄を撤回してほしかったとか、もっと謝ってほしかったとかでもないけれど……
王宮やカイル王子にとっては、この程度のことだったのだろう。
このことも、きっと私たち以外が知ることはない。
まあもう私は王子のことはどうでもいいし、これ以上考えても時間の無駄か…
そんなこんなで色々な事を考えているうちに、庭の門が開いた。
セヴァンがくる、いつもの音だ。
「おはよう、アンナ」
「おはよう、セヴァン」
セヴァンが向かいに立っている。
今日は仕事着ではなく、普段着だった。
「今朝、王宮から謝罪文が来たわ」
「そうか。もう読んだのか?」
「いいえ、ほとんど読んでないわ、だって今さら謝られても、意味ないもの」
私は手紙を指差してそう答えてから、セヴァンの方を向いた。
「……ねえ、セヴァン。ありがとう」
「当然だ」
いつもその返事ね、と思って、私は少しだけ笑った。
「あなたって、昔からそうよね。わたしが気づく前に、いつもそこにいるもの」
セヴァンは頷くだけで、何も言わなかった。
「転んだときも、試験で落ちたときも……婚約の話がうまくいかなかった夜も」
庭師が植えた薔薇の向こうで、鳥が鳴いている。
「カイル王子にときめいたことは、一度もなかったわ」
私は自分の声が少し緊張しているのに気づいた。
緊張するのは珍しい。でも不思議と、言葉は止まらなかった。
「でも、あなたのこと、昔から、ずっと……」
セヴァンがこちらを見ていることに気が付いてしまい、言葉が止まってしまった。
真正面から、まっすぐ。こんな顔で見られたのは、今まで一度もなかった。
無表情ではなく……愛しい物を見守る、柔らかい表情をしていた。
「ずっと、好きだったと思う」
声に出したら、不思議と楽になった。
セヴァンはしばらく黙っていた。
もしかして困らせたかと思い始めたとき、一言だけ返事が返ってきた。
「……俺は、もっと前からだ」
庭に暖かい昼下がりの風が吹いた。
私は少し間を置いてから、また笑った。
今度は、心から素直な笑顔だった。
「それ、もう少し早く言えばよかったのに……」
「お前が気づかないから言えなかったんだ」
「それはそうかも」
「……そうかも、じゃない」
セヴァンの声が、珍しく震えている。
困ったような……もしかして照れているの?
私はしばらく、その横顔を見ていた。
この人が感情を隠すのが苦手なのを、今日初めて知った。
ずっと隠していたのではなく、ずっと「当然だ」と言い続けることで、何もかも飲み込んでいたのだ。
「……ねえ、セヴァン」
「なんだ」
「これからは、困ったときはすぐ言って。すぐ気づけないかもしれないけど」
セヴァンは答えなかった。
でも、静かに隣に来て座ったので、返事はそれだということにした。
【完】




