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myfamily  作者: 齋藤
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 冬は早くに日が落ちる。

 昼が過ぎればすぐに空は赤くなり、夕食を食べる頃には月が顔を出している。

 いつものように、酒に飲まれただけの夜。アルコールで馬鹿になった脳みそを水で薄めて行くあてもなく足を動かしていた。


「あれ、ジェームズさん!」


 街灯のにじむ視界がとらえたのは、見慣れた白髪だった。月明かりに薄く照らされたシルエットが闇の中で浮かび上がる。ビクター・ウィルソンは軽い足取りで真っ直ぐジェームズ・クラークに近づいた。

 手をひらりとふれば、ジェームズはぱっと笑みを浮かべた。


「おやおや、これはビクターではないですか!」


 いつもはオールバックに整えられている髪も今日ばかりは下ろされ、静かになびいていた。細い髪が白い額を覆い隠す。

 ふたりの間を冬風が通り抜ける。ジェームズの身を包むコートの裾がそよぎ、足先から寒さが這い上ってきた。


「どうしたの、こんな時間に。年寄りはもう寝る時間じゃない?」


 時刻は宵を過ぎた頃だろうか。人影はまばらで、肌を撫でる空気は刺すように冷たい。

 ふたりで目を合わせるとジェームズは眉尻を下げて笑った。


「私もそのつもりだったのですがねえ。どうも寝つきが悪かったので気分転換に歩こうかと思いまして」


「へえ」


 ビクターはふいにジェームズの方に手を伸ばし、優しく頭を撫でた。

 セットされていない髪は柔和な顔つきをさらに愛らしくしている。その白い毛先に指先を絡ませると、ジェームズはなんの抵抗もせずに目を細めて笑った。


「いやあ、パジャマのままでお恥ずかしいです」


 ビクターの手に自分の手を重ねる。


「ジェームズさん、手冷たくない? 大丈夫?」


「年を取ると体が冷えやすいのですよ。パジャマにコートじゃ誤魔化せませんね……昼は暖かかったので油断していました」


 少し恥ずかしそうに振る舞う姿は普段の彼よりも幾許か溶けて見えた。

 ジェームズはビクターのほうを見て小さく首をかしげる。その視線には『あなたは?』と問う声が混ざっていた。

 ビクターがこの時間に出歩いている理由はひとつだけだ。


「僕はただ飲んでただけ。気がついたら寝ちゃっててね」


「こんな時間までですか。様子を見るにかなりお酒が回っているようですが……」


「久しぶりに深酒しちゃったから酔い覚ましがてら散歩してたの」


 風にあたれば、だんだんと意識は覚醒していく。もっとも、風よりも想い人のほうが酔いを醒ますのには適しているのだが眼前の本人は気づいていない。


「酒は百薬の長と言いますがほどほどに。ビクターには元気でいてほしいですから、ね?」


 酔っているときのなんとも言えない気分は得意ではないがジェームズに会えるのなら酒に溺れる夜も悪くはないかもしれない。

 無意識に口角が上がるほどにビクターの気分は高揚していた。両手で自身の頬を挟み、緩んだ口角をもとに戻す。


「ああ、そうだビクター。もしよろしければご一緒しても良いですか? そのお散歩とやらに」


「はは、良いよ。夜にひとりじゃ寂しいからね」


 願ったり叶ったりの嬉しい誘いを断る訳がなかった。

 二つ返事で答えると、ジェームズは唇に微笑みを浮かべる。


「ふふ、ありがとうございます」


 どこを目指すという訳でもなくふたりは歩いた。

 通りに沿って、ただゆっくりと足を動かす。ジェームズに合わせようと、ビクターの歩幅は自然と小さくなっていった。革靴の音が無機質に響く。


「ジェームズさんって本当にコートが似合うよね」


 ジェームズの歳も相まって煤色のコートはより一層美しく見える。


「ふふ、君は酔うと毎回私のことを褒めたがりますねえ」


「僕、好きなんだ。ジェームズさんの冬の格好」


「君はよく分かりませんね……」


 ふたりは顔を合わせ笑う。はにかむ笑顔がほんの少しだけむず痒かった。

 風が頬を撫でる。ジェームズは色白い手を擦り合わせ、ほぅと息を吐いた。


「いやあ、にしても冷えますねえ。春がくるのはまだ先でしょうか」


 気難しい天気ですねえ、とこぼすジェームズは目を細めて笑っていた。小春日和と呼ぶにはまだ早い夜を満喫しているようだ。


「そんな寒がりのジェームズさんには僕のマフラーをあげようか」


 ビクターの眼鏡の瞳が弧を描いた。マフラーを外し、それをジェームズの首に巻こうと手を伸ばす。


「大変ありがたいですが……それではビクターが風邪をひいてしまうでしょう?」


 マフラーを握る手はジェームズにそっと押し返された。


「年寄りはおとなしく甘えれば良いの、わかった?」


 次はその手をビクターが押し返す。ジェームズはしばらくの黙考ののち、ようやく折れてマフラーを受け取った。


「……では、君の優しさに甘えさせていただきます。ありがとうございます、ビクター」


 マフラーを首に巻いてやると、ジェームズは眉尻を下げて笑う。ビクターが想像した以上にジェームズはマフラーの似合う男だった。

 言葉と笑顔で恥じらいをごまかすが、ジェームズの気を知らないビクターはまた甘い言葉を囁く。

 両腕で彼の細い体を包み込む。一瞬、ジェームズの体がこわばるのを感じたが、すぐに緊張がほどけたのだろう。ふふ、と息をこぼすと優しく抱擁を返した。


「ジェームズさん、もう少しだけ。こうしてた方が温かいから」


「少しだけ、ですからね」


 しばらくの沈黙の後、体を離す。ふたりの体温が名残惜し気に残った。

 あの、とジェームズは口を開く。

 ゆるく垂れた紫の瞳が自分をとらえていることに気づき、また心音が速くなるのを自覚した。


「マフラー、ありがとうございます。あのお返しは何がよろしいですか?」


「え、お返しなんていらないよ? 別にマフラーが消えてなくなる訳ではないんだし」


「年寄りはこういうことを気にしてしまうのですよ。年上に甘えると思ってください。なんでも良いですから」


 食い下がろうとしないジェームズにビクターは少しだけ、いたずらをしたくなった。


「じゃあ。ジェームズさんの家、連れてってよ」


「はて……?」


 ジェームズは紫の瞳をとらえたまま、首を捻った。その様子はフクロウのようだ。


「とぼけないの。久しぶりに行きたいな、ジェームズさんの家のベッド大きくて好きなんだよね」


「……そんなことで良いのですか?」


 フクロウは傾けた首をさらに傾ける。心底理解できないと訴えて来る。

 ビクターは瞬きのたびに揺れる瞳を見詰め返した。


「そんなことが良いの」


 もちろんビクターにとってはそんなことではないのだが、それをジェームズに説明しようものならば夜が明けてしまう。


「分かりました」


 ジェームズは優しくビクターを引き剥がす。そしてふふっと微笑んだ。


「では、行きますか」


「え、今から⁉」


 そう。その無邪気な笑顔に振り回されるのは、毎回決まってビクターなのだ。


「ええ、この散歩の目的地はないでしょう。でしたら私の家に来るのにはちょうど良いかと」


「良いの、本当に? 今から行って良いの?」


「良いといっているでしょう、遠慮なさらないでください。そんなに遠くはありませんよ」


 一緒に来て下さいと言い、歩き出すジェームズの背中にビクターは茫然とする。

 やがて、一向に歩き出さないビクターを不思議に思い振り返るジェームズと目が合うまでそのスニーカーは地面に引っ付いたままだった。


「……僕、冗談のつもりだったんだけどなあ……」


「おや、そうだったのですか……?」


 ジェームズも同じように頬をかく。先ほどまで白かった肌は赤く色を帯びている。

 年甲斐もなく張り切ってしまいました、と呟くジェームズに心臓がどきりと悲鳴を上げる。


「いや、行く! 行かせてください!」


 大声でジェームズを引き留めるその声のなんと必死なことか。


「行く、行きたい。あの、冗談っていうか本気なんだけど本気ではなかったというか、いや、あの……」


 金魚のように口をぱくぱくさせる様にジェームズはたまらず声を上げる。艶のある緑の瞳にビクターだけを映し笑った。

 プリムラの瞳が重なる。


「ふふ、では行きましょうか」


 ◆


 ふたりは肩を並べゆっくりと歩き出した。

 通りを逸れて路地に入れば、隙間から指す月光がかすかに表情を照らすのみで他に邪魔をするものはなにも無い。


「いやあ、風が気持ち良いねえ」


「そうですねえ、良い日和です。ほら、ご覧になってください。とても綺麗ですよ」


「ん? どれどれ」


「今夜は雲が少ないですから」


 ジェームズはまっすぐと上に手を伸ばす。その白い指先をたどると――


「おお、綺麗なまんまるお月様」


 ふたりの瞳は空に輝く金色を映していた。遠くの闇にぽつりと浮かぶ真円。白光りする輪郭は一段と際立っていた。


「ふふ。今夜は空気も澄んでいますし……それに、こうやってビクターと一緒に見る月は、今までで一番ですよ」


 ジェームズは瞳を輝かせながら微笑む。

 ビクターの心臓が止まりかけたことも、あまりの嬉しさに喉の奥がじんと重くなったことも、緊張で足の血がさっと引いたことも。

 全部、ジェームズには気づいてもらえない。

 やはり、ビクターは振り回されるだけなのだ。


「……ジェームズさん、自分が言ってる言葉の意味分かってる?」


「はて……」


 ビクターはうつむくしかなかった。どこまでも純粋な彼が尊く、庇護欲に近い感情が湧いた。

 けれどこの純情が独り占めできて良かった、とも思った。ハリボテであっても、この気持ちだけはビクター専用であってほしかったのだ。


「なんにも知らないジェームズさんに教えてあげる。月が綺麗だって言うのはさ」


 ビクターは声を潜める。眼前のフクロウが何の疑いもなく真っ直ぐ瞳を向けてくれることが嬉しく、照れくさく。


「愛してるって意味なんだよ」


 息が詰まるほどに苦しい。

 ビクターは自分の心臓がやけにはやくなっているのを感じた。同時にジェームズの頬が赤くなる。それがなんとも愛しく、また心臓は激しく痛みを訴えた。

 ビクターは眼鏡を掛け直す。今だけは顔を見られたくなかった。


「……」


 ジェームズは何も言わないが、その間を説明せずともふたりが心地の悪い瞬間を過ごしていたのは明白だ。

 そして、ビクターが得も言えぬ満足感のようなものを抱えているということも。


――全く、この男はどこまでも罪な男だ。


「言葉には気をつけたほうが良いよ、おじいちゃん」


「……」 


 ビクターは得意な気分になる。が、その興奮が恥ずかしさからくるものだと自覚したとき、己の恐れ知らずをひどく呪った。

 心臓が苦しくなればなるほどに彼を手放したくない、その気持ちに歯止めが効かなくなる。意識してしまった熱が赤子を包むベールのように全身に広がった。

 浮かれ気分で歩き続ける。無言が続くが不思議と気まずさはなかった。しばらくすると道が開ける。十字路の右側、交差点を渡った先にジェームズ邸の輪郭が見えてきた。


「わお、何回来てもこのデカさには慣れないや」


「私ひとりで住むには十分すぎるくらいですよ。ここに見える木はほとんどがサクラなんです。季節になったら是非いらしてください」


 ジェームズは軽い足取りで桜の根本に近づくと、寄り添うように手を伸ばした。


「……ジェームズさん、案外僕のこと大好きだよね」


「へ?」


「今の話と言い、マフラーの時と言い、自然に次の予定をたてるからさ」


 その言葉が意外だったのか、ジェームズは上ずった声で弁明を試みる。


「あ、いや……なにか、意図があったわけではなくて。その……」


「無意識なんだ?」


 ビクターは思わず詰め寄る。


「は、はい。どうやらそのようですね……期待しすぎてしまいました」


「そんなことないよ。期待しすぎた、か。嬉しいね、それ」


 ビクターは腹の底からうずうずとした気持ちが湧き上がるのを感じた。

 温かく、柔らかく、形はわからない。まだ出会ったことのない気持ち。

 これに名前をつけるのはきっと野暮だろう。


「ジェームズさんはずっと一緒にいる前提で考えてくれてるんだ。僕、久しぶりに嬉しくなっちゃった」


「……そ、そうですか……」


 ジェームズはぎこちない様子で軽く咳払いをする。空気を変えるようにギィと扉が鳴った。


「さあ、どうぞ」


「お邪魔しまーす」


「靴は脱いで適当に置いておいてください。室内履きはこちらに」


「ありがとう」


 ジェームズはまっすぐな廊下を進んでいく。 ビクターは自分よりも少し小さい背中が遠くに消えてしまう前に追いかけた。


「ねえ、ジェームズさん」


「どうかしま、し――」


 ビクターの声は静かな床を這い、ジェームズの心を包む。

 ジェームズが立ち止まり、振り返るよりも早く手を伸ばし体を包みこんだ。

 両腕を伸ばせば、簡単に覆えてしまうほど細い体が、今はもういないビクターの祖父に重なった。


「あ、あの、ビクター⁉」


 ジェームズはビクターの腕に手をかけ、顔を見上げる。

 自然と早まってしまう心音がビクターにバレていないことを密かに願った。


「……しばらくこうしてたいの。嫌?」


 ズキッ。ズキッ。ズキッ。ズキッ。ズキッ。ズキッ。ズキッ。ズキッ。ズキッ。


――幼き日の傷が痛む。手当を。消毒を。傷が乾く前に。


「いえ、嫌ではないのです。ただ少し驚いてしまっただけで……」


――優しく、傷口をきれいにして。


「ふふ、ありがとう……ジェームズさん」


――忘れていたはずなのに。


 ふたりは口を開かない。ビクターは抱きしめる力を強める。


――ぼくだけのジェームズさん……


 肋が折れるまで抱きしめたい。その欲望を抑えビクターは笑った。

 ジェームズの細い白髪に指を通した。

 古傷が癒えることはない。時折顔を出す執拗なまでの独占欲を自覚するたびに忘れていたはずの過去が顔を出す。


「ビクター?」


 泥のように深くなる思考から引き上げてくれたのは、フクロウの一声だった。


「……ジェームズさんの髪、ふわふわだよね」


 むせるほどの欲の匂いが徐々に引き、茶葉の香りが胸を満たした。 


「ふふ、そういうビクターの髪もやわらかいですよ」


 ビクターが上の空でいたことなんて、ジェームズにはバレバレだ。

 しかし、ジェームズは知らない振りをする。

 触れた先の深淵がどんなに深かろうとも見守りたい。その意識が遠く離れた故郷にあろうとも、顔も知らない誰かに囚われていたとしても。ジェームズが注ぐ愛は嘘ではない。


「ほら、猫みたいで愛らしいですねえ」


 ビクターの毛先に指を絡ませる。その猫毛は自ら指に絡みつく。色の薄い髪が小さく金色に煌めいた。細い手を包み返し、目元のシワを撫でる。


「くすぐったいですよ」


「はは、かわいいかわいいジェームズさん」


「かわいいだなんて初めて言われましたよ」


「本当に?」


「仕事柄、頼られることのほうが多かったですから。小さい子どもなんかは特に、かっこいいと言う子は多かったですよ」


 ジェームズがこんなふうに気の抜けた笑みを見せるのは、ビクターの前だからだ。


「ジェームズさんのかわいさに気づいているのは僕だけなんだ?」


「そうですねえ。こんな風に扱う人は君くらいしかいませんよ、ふふ」


 ジェームズは特別扱いを恥じる素振りを見せない。それどころか自慢げだ。首を傾げるフクロウが飛んで逃げてしまわぬよう、また強く抱きしめた。一向に動く気配のないビクターにジェームズは優しく問いかける。


「ビクター、いつまでこうするのですか」


「一晩中」


 ジェームズの肩に顔を埋めるビクターはくぐもった声でそう答えた。


「……今夜は泊まっていってください。いくらでもこうしてやりますから、今は離れていただけますか?」


「えー、別に良いじゃん。せっかくふたりきりなんだから」


「いや、そういうつもりで招いたわけでは……ほら、ビクター。紅茶を入れますから、落ち着いてください」


 そういうとジェームズはすたすたと部屋の奥へ消えていった。遠くの方から湯を沸かす音が聞こえた。

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