セッション3 煙の中で交わす約束
BEGINNING社内、地下二階。
非公認の喫煙室は、照明が一つだけ点灯したままの薄暗い部屋だった。
換気扇は回っているはずなのに、煙はいつもより重く淀んでいた。
零は壁に背を預け、くわえタバコの先を赤く光らせながら、目を細めていた。
指先で灰を落とす動作だけが、静かなリズムを刻んでいる。
ドアが軋んで開いた。
「煙たい」
真琴の声は、いつものように少し低く、少し疲れた響きを帯びていた。
彼女はドアを閉めると、すぐにハンカチを口元に当てた。
でも、逃げる素振りは見せない。
零が呼んだのだから。
「来てくれたんだな」
零はタバコを唇から外し、灰皿に軽く押しつけた。
煙が細く立ち上るのを、じっと見つめながら言った。
零が問う。
「沙月に会わせた?」
真琴は小さく頷いた。
ハンカチを下ろして、壁の反対側に寄りかかる。
距離はちょうど、零の煙が届かないギリギリのライン。
「会わせたよ。家で一緒にご飯を食べた」
「……へえ」
零の口元に、ゆっくりと笑みが浮かんだ。
それは、誰にも見せない、零だけの、ほんの少しだけ柔らかい表情だった。
「やっぱり、それがきっかけか」
真琴は目を伏せ、唇を軽く噛んだ。
「……凛ちゃんの目、変わったよね。あの日から」
零はもう一度タバコに火をつけ、深く吸い込んだ。
吐き出した煙は、まるで溜め息のように長く伸びた。
「あいつ、初めて『守りたい』って言葉を口にしたんだよ。
『私、沙月ちゃんを守れる人になりたい』って」
真琴の瞳が揺れた。
「凛ちゃんが……そんなこと、言ったの?」
「ああ。
それまでずっと、私の腕の中にしかいなかった子が、初めて自分の足で立とうとした瞬間だった」
零は灰を落とし、灰皿の縁を指でなぞった。
「真琴、昔のお前も、そうだったよな。
沙月が生まれた日、病院の廊下で私の腕にしがみついて、泣いて震えてた。」
真琴は目を閉じた。記憶が、胸の奥から静かに溢れてくる。
「……あの時はイズミちゃんも病院に来てくれて慰めてくれた。
自分も病気で辛いはずなのに。」
零は小さく笑った。
「そうだったな。
励ますというより「しっかりしなさい」って怒られてな、真琴。」
二人はしばらく黙った。
換気扇の音だけが、部屋に響く。
「でもさ、真琴」
零が再び口を開いた。
声は低く、けれど確信に満ちていた。
「凛は沙月を見て、初めて『誰かを守る』ってことを知った。
それが、アーティストとしての凛が悟った責任と自覚だ。
自分が他人に影響される存在だと気がついたんだよ。」
真琴はゆっくりと顔を上げた。
「……零は、それでいいの?」
零はタバコを灰皿に押しつけた。
火が消える瞬間、彼女の瞳が一瞬だけ鋭く光った。
「いいも悪いもない。
凛が自分で選んだ道なら、私はそれを全部受け止める。
私はただ、凛が世界の真ん中で歌う姿を見ていたいだけだ」
零は立ち上がり、真琴の前に立った。
煙の匂いが、真琴の鼻先をかすめる。
「約束だよ、真琴。
凛がどんなに大きく羽ばたいても、
私たちは、ずっと凛のそばにいる。
沙月も、私も、お前も、みんなで」
真琴は静かに頷いた。
「……うん。約束。」
零は小さく笑って、ドアの方へ歩き出した。
背中で言った。
「沙月に、よろしくな。
次は、私も一緒に、ご飯食べに行こう」
ドアが閉まる音が響いた後、真琴は一人、喫煙室に残された。
まだ消えていない煙の匂いと、零の残した約束の重みが、部屋に静かに満ちていた。




