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セッション3 後悔しない

2026年5月27日(月) 15:09

広告代理店・7階 総務部前凛はスーツの胸ポケットから、白い封筒をそっと取り出した。

手は震えていない。

ただ、指先が少しだけ冷たい。

総務の先輩・田所さんが、目を丸くして受け取る。

「倉賀野さん……本当にいいの?」

「……はい。お世話になりました」

小さく、でもはっきりお辞儀をして、

凛は踵を返す。

エレベーターに乗るまでの廊下で、誰も声をかけられなかった。

エレベーターが閉まるで降りていくとき、凛は初めて、深く息を吐いた。


挿絵(By みてみん)


都内・駅前公園五月の陽射しはまだ柔らかくて、ベンチの木の葉の間からこぼれる光が、凛の黒いコートに小さな斑を描いていた。

凛はイヤホンを耳の奥まで押し込み、スマホを握りしめたまま、零に電話をかけた。


ツー……ツー……


すぐに繋がった。

「もしもし? 凛?」

零の声は、いつもより少し眠そうで、でも優しかった。

凛は背筋を伸ばし、丁寧に、でもどこか震えながら答えた。

「零さん……今、会社を辞めてきました」

一瞬、向こうで息を呑む気配がした。

「……お疲れさま」

零の声が、ふっと温かくなる。

「偉いね、凛。よく頑張った」

凛は目を伏せた。

指先が、まだ封筒の感触を覚えている。

「退職届、渡してきました。

 もう……戻れません」

「戻らなくていいよ」

零は笑ったような声で言った。

「これからは凛の人生、歌だけだもん」

凛は小さく頷いた。

誰も見ていないのに、きちんと頭を下げた。

「今どこ?」

「駅前の、小さな公園です。

 ベンチに座って、零さんが朝送ってくれた音源を聴いています」

「どう? まだ打ち込みだけだから味気ないよね?

デビュー曲は凜が詞で私が曲とアレンジをすることに決定したから、二人の世界を描ける。」

「はい。」

凛は嬉しそうに答えた。

「音源、すごく綺麗で……胸が締めつけられます」

「ふふ、よかった」

零の声が、少し嬉しそうに弾む。

「詞はもう浮かんだ?」

凛は空を見上げた。

まだ春の匂いが残る風が、コートの裾をそっと持ち上げる。

「まだ……言葉にはなってないです。

 でも、I’ll never forgetってフレーズが浮かびました

 泣き虫だった私が父に守られながら少しずつ遠くなっていくような、

 そんなイメージだけは、はっきりしています」

零は少し黙って、それからゆっくりと言った。

「それでいいの。

 凛の言葉は、凛が“できた”って思うまで待つよ。

 私は一秒だって急かさないから

」凛の目が熱くなった。

「……ありがとうございます。

 零さんがそう言ってくれると、すごく安心します」

「ねえ、凛」

零の声が、まるで隣にいるみたいに優しく響く。

「今日はもう帰って、ゆっくりお風呂入って、

 好きなご飯食べて、好きなだけ寝ていいよ」

「でも……あと48日しかないのに」「48日もあるよ」

零は笑った。

「凛の声は、急かしたら壊れちゃうんだから。

 種はもう胸の中に落ちてる。

 あとは温めてあげれば、ちゃんと芽が出るから」

凛はスマホをぎゅっと握りしめた。

「……はい」

「約束だよ? 今日は詞のこと、考えなくていい」

「……約束します」

「うん、いい子」

零の声が、ふわりと凛を包む。

「じゃあ、私はもう少し打ち込みいじってるね。

 また夜にでも、ゆっくり話そう」

「はい。零さんも、無理しないでくださいね」

「大丈夫。凛の歌のためなら、寝なくたって平気だよ。

 それじゃ、またね」

「はい……また」

電話が切れたあと、

凛はしばらくスマホを胸に押し当てていた。

風が通り抜ける。イヤホンからは、まだ空白の『Fireworks』が流れ続けている。

凛は立ち上がり、コートの裾を一度だけ翻して、風になびかせた。

そして、小さく呟いた。

「……零さん

 私、ちゃんと歌います。

 約束、守ります」

五月の空に向かって、

凛はまっすぐに歩き出した。光と風と、

零の優しい声を、全部胸にしまって。


ゆっくり、でも確実に、デビューという花火の夜は近づいている。



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